優しくて、大らかで、きっとどんな人よりも他の誰かを大切にする、そんな人。
『すまない』
だから、私は今でも、貴方を――。
*
「はあっ!」
冷えた朝の空気の中、一人で修練をするものがいた。
流れるような動きで拳を突き出し、演舞のように型をさらうその者は、まだ若い娘である。
しなやかに伸びた脚や腕が空を切る。
張り詰めた緊張感が清廉な夜明けの風に溶け、突きと共に宙を裂く音が静かな東雲の空に響いていた。
「ふう…」
一通り型を終えると、彼女は礼を一つして肩の力を抜いた。
そして流れた汗を拭ったその時、後ろから誰かに声をかけられた。
「!」
振り返ると、ほとんど同期でありながら六聖拳の一人と成ったレイがに手を振っている。
近づいてきたレイに、は先ほどの型を通していた時とは全く違う柔らかい表情で笑いかけた。
「レイ…じゃなかった、レイ様!おはようございます」
「おい、やめてくれ。今までどおり、呼び捨てでいいと言っただろう」
苦笑いで肩を竦めたレイは、一回り小さなの頭を撫でた。
は南斗の修練生だ。
あまり多くない女性の拳士で年もまだ若く、入った時期がレイとあまり変わらないので彼とはよく話す。
しかし子供の頃とは違って、レイはすっかり天性の才で水鳥拳を極めてしまった。
それで近頃は妙にかしこまってしまうのだが、レイにはそれがこそばゆくてならない。
頭をぐりぐりと撫でられ、突然の事に驚いてはわたわたとレイの手を退けようとするが、時既に遅し。
「ああっ!もう、髪がぐちゃぐちゃになっちゃったじゃない!」
「よしよしそれでいい。だが、今度かしこまった態度なんて取ったら怒るぞ」
「はいはい、わかったわよ」
渋々頷いたを見て満足したのか、レイはにっと笑った。
すると、レイを呼ぶ声がちょうど間が空いた二人の会話に滑り込んだ。
「レイ!」
「お、シュウか」
レイの言葉に、はびくっと肩を震わせた。
しかしの様子に気づくことなく、レイはシュウを呼んで手招きしている。
「ここだ、シュウ!」
「おお、そこか。随分早いと思ったらこんな所で何をしているのだ?」
「いやな、と話してい「あ、あの!私、そろそろ朝食に行くから、それじゃ!」
「は?…って、おい!」
まるで逃げるかのようにレイの言葉を遮って駆けていってしまったを呆然と見つめ、レイは首を傾げた。
「何だ…?」
「どうした、レイ」
「いや…どうもあいつ、相当腹を空かしていたらしくてな。すっ飛んで行ってしまった」
の去っていった方向をじっと見つめている親友の表情には気付くことなく、レイはシュウの肩を叩いた。
「さて、俺たちも朝飯にしよう」
「ああ…」
答えたシュウの握られた拳だけが、何故だか僅かに震えていた事に気づかずに。
*
「はぁ…やっちゃったー…」
一方、レイとシュウから文字通り一目散に逃げ出してきたは、修練生が寝泊りしている宿舎の裏手の水場でしゃがみ込んで頭を抱えていた。
シュウが嫌いなわけではない。
勿論、レイが言ったように腹が空いていたわけでもないのだ。
では何故逃げてしまったのかというと。
「やっぱり…まだ駄目なのかな…」
ぼそりと呟いて、は5年前のことを思い出した。
5年前、には好きな人がいた。
優しくて、穏やかで、強く逞しい年上の男性。
北斗の少年との十人組手で、勝ったにも拘らずその少年の命を自分の両目と引き換えに助けた男。
妻子がいたその男、仁星のシュウにまだ十代だったは淡い恋心を抱いていた。
友人だけでなく候補生にも平等に接してくれるシュウに、その頃のはよく指導をつけてもらっていたし、彼女にしてみれば最も身近にいる憧れの男性がシュウだったのだ。
頭ではわかってはいた。
きっと自分が他の候補生達と同じようにしか見られていないということくらい。
けれど、ある日とうとう募る想いを閉じ込めておくことが我慢できなくなって――
『すまない。』
誰もいない夕暮れの修練場で、の初恋は儚く散った。
俯いてぺこりと頭を下げたの背中を優しく撫でて、シュウは言った。
『君はまだ若い。私を想ってくれたことはとても嬉しいが、いつか本当に愛する人ができるはずだ』
その言葉を聞いた時、の恋心は物の見事に玉砕した。
自分の想いがまだ子供の憧れと同じだと言われたようなものだったから。
後は堪えきれずに泣き出してしまって、さっきのように逃げるようにシュウの元から立ち去ってしまったのだ。
けれど恋心が砕けても、今もシュウを想う気持ちは相変わらず。
むしろ以前よりも更に膨らむばかりだった。
募る想いをどうすることもできず、結局は振られた後もずっとシュウを想い続けてきた。
出来る限りシュウとは気まずくならない程度に接して、誰かと笑うシュウを見ては苦しくなる胸を叱咤しては溜息をつく。
最近では妻と別れてしまったらしいと聞いて、おかしな期待を抱く自分が心底嫌になった。
しかしどれだけポーカーフェイスを気取っても、先ほどのように不意に顔を合わせるとどうしても顔に出てしまうので、こうして逃げてしまったわけである。
「いい加減に慣れなきゃ…」
流石に今回はあからさま過ぎた。
もしかしたら不愉快だと思われたのではないだろうか。
こんな状態ではいけないと、水場で顔を洗って気合を入れ直していると、の肩を叩くものがいた。
「?」
「よぉ、。一人で何してるんだ?」
「…」
の肩を叩いたのは、最近しつこく彼女に付きまとっている同じ南斗の道場で修練を積んでいる拳士だ。
何かにつけて食事や遊びに誘ってくるのだが、どうも好きになれないタイプなので、は出来る限り彼とは話さないようにしていた。
しかし相手はを気に入っているらしく、それでもしつこく付きまとうのだ。
何度かそれらしいアプローチをされて全て断っても、まだ諦めてくれない。
それどころか今のには恋人がいないのだから俺と付き合ってもいいだろうと滅茶苦茶な事を言い出す始末だ。
だが正直、あの優しくて強いシュウと比べては、とても人に好かれるような男ではない。
あまり良いとは言えない外見を抜きにしても、拳の腕もと同じくらいのもので、性格は自分勝手。
おまけにの前では耐えているようだが、他の人間には限りなく短気で、なんでも力だけで片付けようとする。
当然シュウを好きでいるがそんな男に惚れるわけが無いのに、そんなことはどこ吹く風、と最近ではセクハラ紛いのことまでしてくるのだ。
「見てわからない?顔を洗ってたの。用が無いならあっちに行ってよ」
「へっへへ、なんだよ冷てえなぁ」
「…」
が付き合っていられないとばかりに無視するも、男は構わず話しかけてくる。
「よぉ、今日は修練休んでどこかに飯食いに行こうぜ?」
「忙しいからやめとくわ。他の人を誘って頂戴」
「へっ、つれないねぇ」
「!」
さっさとどこかに行ってくれという意味をたっぷり含ませたのも関わらず、男の手がの腰に回された。
おぞましい感触に、思わずの肌が粟立つ。
「ちょっと!!離しなさいよ!!」
「いやよいやよも好きの内って言うだろ?」
「やめてよ、変な事言わないで!!離してよっ…!」
無理矢理引き剥がそうとするが、男と女では力だけならやはり男のほうが上だ。
が焦ってもがいていると、の背後から誰かの手が伸びて彼女の腰を掴む男の手を掴んで引き離した。
その拍子にの身体が支えを失って倒れかける。
「あっ!」
しかし、衝撃はいつまで経っても来ない。
の身体はその人物の腕で抱きとめられたからである。
「…大丈夫か?」
バランスを崩した自分を受け止めた人物の声を聞いて、ははっと顔を上げた。
「シュウ様…!!」
の身体を抱きとめたのは、つい先刻彼女が逃げてしまった相手本人であった。
突然の彼の登場にが呆然としていると、シュウは無言で彼女の身体を抱く腕に力を込めた。
どうしてこんなところに彼がいるのだろう。
一緒にいたはずのレイはどうしたのか。
それ以前にこの体勢はもしかして色々とまずいのでは!?何よこのシチュエーション!と我に返ったが口を開くより先に、シュウが言葉を発した。
「。個人的なことを聞くようですまぬが、この男とはどういう関係だ」
「え…え!?ええと、あの、別に何も…あえて言うと無関係です」
「そうか。では、痴話喧嘩に余計な横槍を入れたことにはならんな」
「!?」
一体何の話だろうとが眼を丸くしていると、シュウは悔しそうに歯噛みしている男を視力の無い目で睨んだ。
「…嫌がる女性を力で押さえつけるのは、心身ともに鍛え上げた拳士のすることではない。彼女に何をしようとしていた」
その声から伝わる静かな怒りに、シュウに抱かれたままのは息を呑んだ。
いつも穏やかで滅多なことでは起こらないシュウがこんな風に怒りを顕にしているところは、今まで見たことが無い。
シュウの様子に怖気づいたのか、に迫っていた男もまるで覇気を無くして縮こまっている。
「ううっ…い、いやぁシュウ様、そんな、俺は別にそういうつもりじゃあ無くってよ…」
「ならばどういうつもりだ?」
「そ、そりゃあの、じゃれあってたんだよ!な?そうだろ、」
「何言ってるの!?私は本気で嫌がってたわよ!」
縋るように話を振ってきた男にすっぱりと否定の言葉を返してやると、男は青くなって首を振った。
シュウの気が高まり、無言の圧力に震え上がっているのである。
「ち、違う!お、俺は何も!」
「…去れ」
「へ、へっ?」
「去れと言っているのだ。そして二度と彼女に近づくでない。もしまたに不快な思いをさせているところを見つけたら、その時は私自らお前の性根を叩き直してやるからそう思え!!」
「はっ、はいぃぃ!!」
怒れるシュウの叱責に、男はに対する態度とは打って変わって、読んで字の如く尻尾を巻いて逃げ出した。
あっという間に見えなくなった男の姿にがあっけに取られていると、シュウがようやくを放した。
「あ…」
不意に感じられなくなった体温に、が赤くなり始めた頬を無理矢理擦って誤魔化していると、シュウが彼女の肩にそっと触れた。
「すまぬ。君にまで怖い思いをさせただろうか」
「い、いいえ!その、ありがとうございました…」
緊張と恥ずかしさで消え入りそうな声でお礼を言うが、の頭の中は今はそれどころではない。
誰よりも好きな人の腕に、状況はどうあれ抱きしめられてしまったのだから、混乱しても仕方がないというものだ。
しかし、カチコチに固まってしまったの様子に、シュウは勘違いをしたらしい。
「…やはり、怖がられてしまったかな」
「えっ?」
「怒鳴ってしまって悪かった。助けに入ったつもりが、私の方が逆に君に嫌な思いをさせてしまった…」
「いえ、あの、私は別に怖かったわけでは…」
「…そう言ってもらえるとありがたい」
のフォローに、シュウは少しだけ安堵したような表情を見せた。
それを見て、ようやく落ち着きを取り戻してきたは思い切ってシュウに尋ねた。
「あ、あのっ!」
「ん?」
「その…どうしてシュウ様はここに?ここには修練生しか来ないのに…」
「……それは…」
の問いかけに、シュウは戸惑ったふうに口ごもった。
何か悪いことでも聞いてしまったのか。
そう思ったが慌てて質問を取り消そうとしたその時、シュウが口を開いた。
「君を…を追いかけてきたのだ」
「……私を?」
「ああ」
不意に高まった鼓動を抑えて、は更にどうしてですか、と尋ねた。
すると、シュウは決まり悪そうに頬を掻いて答えた。
「…今朝は逃げられてしまったからな」
「あ」
そういえばそうだ。
今朝方、シュウが近くにいるのに見事に逃げを打ったのはである。
すっかり忘れていたことを思い出し、は青くなった。
怒られるのだろうか。
失礼なことをした事はわかっている。
今まで何も言われなかったけれど、もしかしたら怒らせていたのかもしれない。
万が一にも嫌われてしまったら――
(二度と立ち直れない!)
「あの、わた「困るのだ」…え?」
が謝ろうとして口を開いた瞬間、シュウの言葉が被さった。
困る、と言われた。
その台詞で、今度こそ意気消沈してしまいそうになっただが、続くシュウの言葉で言葉をなくした。
「君を子供だと思えなくなってから、君が他の男と話しているのを見るのが嫌になる」
「…?」
どういうことだろう。
子供だと思えなくなってから?
他の男?
嫌になる?
予想していた台詞とは全く違う言葉に、は唖然としてシュウの言葉に耳を傾けた。
「あの頃はまだまだ幼い娘だったのに…君は、気がつけば大人の女性の声で話すようになった。いつの間にか、成長していたのだな」
「…シュウ様…」
昔を懐かしんでいるのか、シュウは苦笑した。
あのころの自分。
シュウには、やはり子供だと思われていたのだ。
けれど今は違うようだ。
「…ええ。もう、子供じゃありませんから」
少しだけ嬉しくなって、ははにかんだ笑みを浮かべた。
すると、不意にその頬にシュウの手が伸びた。
「!」
「…見えなくともわかる。綺麗になった」
「えっ…」
まさかこんな接し方を去れるとは思いもよらず、はただ速まる鼓動を止めることも出来ず、真っ白になりそうな頭をぎりぎりで動かせた。
あのころ背を撫でてくれたシュウの優しい手が、自分の頬を撫でている。
体温が上がるのを抑えることすらままならない。
何も考えられずにが真っ赤な顔でじっとシュウを見つめていると、シュウは頬から髪に手を滑らせて語った。
「追いかけたのは嫌われてしまったのかと不安になったからだ。…さっきのことも、私が嫉妬していただけなのだ。私にできないことを平気でやってのけた彼に腹が立って…つい割って入ってしまった…」
「嫉妬…?でも、じゃあシュウ様…」
が上ずった声で尋ねると、シュウはああ、と頷き言った。
「君を見ていたよ…ずっと」
「―――!」
シュウの言葉に、はただ驚いて目を見開いた。
見ていた?
いつから?
否、それ以前に。
「あの、それじゃ奥さんは……!?」
「もちろん、妻のことも愛していた。だが怒られてしまったよ。私の気持ちがこっちを向いていない、と」
「ええっ!?」
「私自身、本当の気持ちに気がついたのはごく最近だ。…情けない男だな、私は」
自分自身を哂うようなシュウの言葉に、はただ黙って俯いた。
嬉しい。
とても嬉しいけれど、これではまるで自分が何か悪いことをしたような気がする。
そんなの思いに気付いたのか、シュウは彼女の背中を撫でて言った。
「君のせいではない。悪いのは私なのだ、どうか気に病まないでくれ」
「でもっ、」
「…迷惑だろうということはわかっている。かつて君の恋心を踏み躙っておいて…今更こんなことを言うなんて、馬鹿げていると。何より、君には私のような男やもめなど相応しくない」
「!」
だが、とシュウの手がゆっくりとの両肩にかかる。
「せめて一度だけ…抱き締めさせてほしい。それで、もうこの心は封じよう」
シュウの筋肉のついた逞しい腕がに回り、彼女の身体を引き寄せる。
その仕草の切なさに、は呟いた。
「………いです」
「?」
ぴたりと動きを止めたシュウに、堪えきれずには自分から抱きついた。
もう止められない。
誰よりも大切な人から愛されているのに、その相手が遠ざかってしまうのが嫌で。
「封じなくて、いいです!私、わたし…まだ、シュウ様が好きなんですから!」
「…」
自ら抱きついてきたの告白に、シュウは驚きながらおろおろと彼女の背に腕を回す。
「し、しかし…わたしはこんな年だ。息子もいるし…」
「じゃあどうして好きだなんていうんですか!?」
「それは……」
「私、シュウ様さえ頷いてくれるならずっと傍に居たいんです!それに、好きな人の息子さんを嫌うわけないじゃないですか!」
「…………」
の一途な想いに、シュウは彼女を抱き締める腕に力を込めた。
より密着して感じ合う体温に、早鐘を打つの心臓は爆発寸前である。
それでも離れたくなくて、同じように厚い胸板に頬を押し付けると、シュウはに問いかけた。
「…子供ではない以上、私は加減はしてやれぬぞ…?」
「構いません」
「……そうか。」
不意に緩んだシュウの腕の力に、は不安になって彼を見上げる。
その刹那、唇に熱いものが触れた。
「…!」
柔らかい感触のそれが口付けだと理解する前に、の身体は再び強く抱き締められて。
更に深く重なった唇から逃れることもままならず、優しいキスを受けながらは目を閉じた。
ややあってゆっくりと二人の影が離れ、頬を染めてシュウを見つめるに、シュウは彼女の手を力強く握り言った。
「言っただろう。加減はせぬと」
「…っ!」
赤くなって絶句したにもう一度軽く口付け、シュウは微笑んで、深い声で囁いた。
「愛しているよ。」
「…………はい…っ!」
叶わないと思っていた恋。
それでも諦められなかった想い。
緩やかに育てた小さな恋の花が今、愛しい人の想いと共にゆっくりと花開く。
遅咲恋花
ずっとずっと、待っていました。あなただけを
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