テランの大図書館には世界中の書物が保存されている。図鑑、神話、英雄伝、御伽噺、魔道書、ありとあらゆる勉学の書籍など、蔵書数は世界一を誇る。建物は5階建て、円形のドーム状の館内は本棚で埋め尽くされている。本が日焼けしないように閲覧室は図書館の端にテラスとして設置されているが、この場所でのんびり本を読む人間が5人を越えた日はここ数十年無い。民が国を出て行ってしまって、今では数十人の人口しかいないからだ。

大図書館で唯一の若い司書、はテラン生まれの無類の本好きで、本好きが講じて魔道書などの取扱を極めてこの仕事に就いた。3人いる他の司書はみな老人で高齢なので、力仕事は彼女がやっている。年期の入った大本棚に本を抱えて梯子を上り下りするのは重労働だが、はこの仕事を嫌だと思った事は無い。過疎化が進んで寂しくなってしまった自国が世界に誇れるのが、この大図書館なのだ。ここで仕事が出来る事をは誇りに思っている。

毎日数十冊を順番に虫干しして、整理して、破損があれば修復する。の日常はそれの繰り返しだ。二週間前まで、そのルーティンワークが変わる事はなかった。しかし二週間前からは違った。

二週間前から毎日来る人がいる。銀髪の若い男性だ。もしかして自分とあまり年は変わらないんじゃないだろうか、とは本棚の影から見える男を見て思った。同年代の若い男性はみんな国を出て行ってしまったから物珍しい。彼は精悍で整った顔立ちをしていて、まるで大理石で作られた美しい英雄の彫刻のようだ。

彼が館内を歩いていると彫刻が歩いているみたいで、つい目で追いかけてしまう。
もちろん話しかける勇気は無い。
そんなわけで、は彼を心の中で“彫刻さん”と呼んでいる。

彫刻のような彼が図書館に姿を現すようになってから三週間目の今日、は茶色い表紙の分厚い魔術書を抱えながら梯子を上っていた。腕に抱えた本は一冊なのに厚みは10センチ近くある、大判の重くて古い書籍。抱えるだけでも一苦労なのに、これを持って梯子を上るのは細身で力の弱いには非常に辛い仕事だ。しかもこの本の保管場所は本棚の上から二番目、梯子を限界まで伸ばさないと届かない高さにある。幾度かの休憩を入れながら、あと数段、と足をかけたとき、の身体がバランスを崩した。

落ちる。

「きゃ…!」

細い声をあげて咄嗟に本を抱き締め、目を閉じて身を硬くしただったが、訪れた衝撃は予想より随分と弱いものだった。

「あれ……?」

骨が折れてもおかしくないくらいの高さから落ちたのに、と恐る恐る目を開けると、逆光に透けた銀の髪が視界に飛び込んできた。

「ひゃああっ!?」

彫刻さんだ。この人が受け止めてくれたのか。どうして?の頭の中は一瞬でパニックになった。

「…大丈夫か?」
「ああああのごめんなさい、下に人がいるなんて気付かなくて、私ったらどうしよう、」
「いや…怪我が無くて良かった」

赤くなったり青くなったりと忙しいとは対照的に、彫刻のような男はをゆっくりと丁寧に地面に下ろした。銀髪がさらりと揺れるのを目にしてなんだか一層気恥ずかしくなる。

「あ…ありがとうございます…」

は落下時のショックと彫刻のような男に助けられた事で落ち着かない心臓を押さえながら礼を言った。男は小さく微笑み、傍の棚に置いた本を手に取る。その動作を眺めていたはふと気付く。

「あら?…その本…」
「ああ……戻す場所がわからなくてな」

彼が手にしたのは保管場所のラベルが剥がれ落ちた本だった。年代物の書物で、タイトルは「竜の伝承と降臨の謎」。おそらくテランの竜信仰についての資料だろう。も時々この国の竜信仰について調べ物に来る人間がいるのは知っている。

「司書に渡した方が良いと思って人を探していた」
「そうでしたか…どうもありがとうございます。預かりますね」
「君が?」
「ええ。私はここの司書なんです」

が答えると彫刻の男は本を差し出して、ふと動きを止めた。

「……ならばもう一つ頼みたい。構わないか」




彫刻の男はこの本の続きを読みたいと言った。これを戻すついでに次の巻を持ってきますとが答えると、彼が自分でも場所を覚えておきたいと言うので、本棚まで案内することになった。
が男を先導しながら広い図書館の狭い本棚の間を歩いていくと、彫刻の男が尋ねた。

「ここの蔵書はどれくらいある?」
「昨年で100万冊を越えました。国王が何でも買い集めてしまうんです」
「すごい数だな…」

森の様に聳える本棚の間の通路は狭く、後ろを歩いている男の表情は振り返らなければ見えない。しかし声の様子から純粋に楽しそうにしているのは伝わってきた。読書が好きなのだろうか。に聞く勇気は無いが、この図書館に通っているのなら嫌いではないはずだと思った。

「…全ての本の保管場所を覚えているのか」
「ええ、毎日色んな本の整理をしているので…」

にとって、後ろにいて表情がわからない彼から話しかけられるのは緊張したが、美しい彫刻と話している気分は悪くなかった。耳障りのいい、深みのある落ち着いた声だ。彫刻になった英雄たちもこんな声だったのだろうか、と都合のいい想像をしてしまう。
二人が迷路のような本棚の森を抜けて広めの通路に出ると、目的地が見えた。

「確かこの棚の………ああ、ここですね」

本の場所を指差して促すと、男はようやく辿り着いたとばかりに小さく息をついてを振り返り微笑んだ。

「…助かった。感謝する」

その男の微笑の、綺麗なことと言ったら。
彫刻が笑うところをは初めて目にした気分だった。
途端に顔が熱くなる。

「い、いえっ!私は司書ですから、お仕事をしたまでで…!」

が熱くなる頬を見られまいとして俯いてしどろもどろになっていると、目的の本を手にした彫刻の男が頭一つ分背の低い彼女を見下ろして言った。

「ここにはあと数週間通う予定だ。世話になるがよろしく頼む」

はわかっている。この男はきっとただの旅人で、用が済んだらいなくなるのだと。
けれど滞在している間くらいは良好な関係を築くことくらい許されていいはずだ。
ただでさえ話しかけてくる人間など滅多にいないのに、こんな綺麗な彫刻のような男に司書として頼られるのは純粋に嬉しい。
刺激の無い日常が鮮やかに染まった気がする。

「……はい!」

目いっぱいの笑顔で頷いたに対し、男も小さく微笑んで閲覧室に向かっていった。
閲覧席から差し込む陽光が男の銀の髪を照らして煌き、後姿は神話に登場する英雄の彫刻そのものだ。
しかし彼は彫刻ではなく、生きていて、歩くことも出来るし話もできる。
名前も知らない“彫刻さん”との距離が少しだけ縮まった気がして、もまた上機嫌で仕事に戻った。
あの重い本をもう一度頑張って戻そう、と意気込んで。

ブラウザを閉じてお戻りください。