Don't Cry, Nightingale.



風の音がする。
甘やかで、優しい風の音がする。
夢うつつの状態でその唄を聞いていたラオウは、緩やかに目を開けた。
天井の模様が違うことに一瞬違和感を感じたが、ラオウは直ぐにその理由を思い出した。

体中に包帯が巻いてある。
先日トキとケンシロウと闘い、酷い怪我を負った所為だ。
傷を癒すため、あえて拳王府には戻らず療養のために作らせた城に滞在することにしたのだった。
天井の模様が違うのはそのためだ。

ふと風の音だと思っていた調べに耳を傾けると、微かだが唄が聞こえた。


「…Sie versteh'n des Busens Sehnen, 
 Kennen Liebes schmerz.
 Kennen Liebes schmerz?

 Ruhren mit den Silberronen
 Jedes weiche Herz,
 Jedes weiche Herz…」


ドイツ語の歌詞だ。
それも歌劇などで使われるようなものだ。
こんな歌を知っている人間は一人しか思い当たらない。

身を起こしてベッドを降りると、ラオウは声の聞こえるほうに足を向けた。
唄は寝室の隣の部屋のバルコニーから聞こえてくる。


「Las auch dir die Brust bewegen,
 Liebchen, hore mich,
 Bebend harr ich dir entgegen!

 Komm, beglucke mich,
 Komm, beglucke mich,
 Komm, beglucke mich….」


「夜中に人を起こすとは、いい度胸だ」

唄が終わったのを確認してから声を掛けると、ははっと驚いてラオウを振り向いた。

「…ごめん、煩かったかな」

ラオウの言葉にが神妙な顔つきで謝った。
いつもの彼女らしくない態度に面食らい、ラオウは適当な返事をした。
そんな男の様子に、は苦笑すると静かな声で言った。

「眠っていたほうが良いんじゃないか?まだ本調子じゃないんだろう?」
「貴様が起こした所為だ」
「…そうだね」

また落ち込んだ様子で答えたに、いつものペースが崩されて、ラオウはその場凌ぎに口を開いた。

「今のは」
「え?…ああ、唄?」
「そうだ」

ラオウが頷くと、セレナーデ、とが答えた。

「シューベルトのセレナーデ。小夜曲だよ」
「…お前はどこでそんな唄を覚えてくるのだ」
「秘密。でも、ラオウも一応知ってはいるだろう?」

の言葉に、ラオウはそんなものは忘れた、とだけ返した。

北斗神拳伝承者候補は拳を教わるだけでなく、英才教育も受けている。
先々代はドイツ語や中国語も話せたらしい。
トキだって医学書を読むためにドイツ語は習得していた。
ラオウも完璧ではないが少々は理解できる。
そういった知識として、あらかたの学問は叩き込まれているから、当然おぼろげに楽曲も聴いた覚えはある。
しかしながら、ラオウはそういったものは得意ではない。
有名な作曲家や楽曲の曲名をいくつか覚えているくらいだ。
だから“忘れた”のだ。

「覇王には必要ないわ、そんなもの」
「それもそうだね」

はそういって微笑むと、ラオウに背を向けてバルコニーの手摺に凭れた。
その後姿は、先ほど微笑んだ彼女とはうって変わって酷く悲しげだ。
夜風がひやりと身体を撫でてゆく。
冷えた風を受けながら、は口を開いた。

「…ねぇ、ラオウ」
「なんだ」

ぶっきらぼうに返すと、はラオウの方を見ないまま、夜の砂漠を見つめながら、はっきりとした声で言った。

「私は君についていくよ。この声が枯れても、どんなにぼろぼろになっても」

だから、とは続けようとして、ほんの少し躊躇った。
ラオウが無言のまま次の言葉を待っていると、はややあってまた口を開いた。

「……一人でぼろぼろになって帰ってくるの、何とかして欲しい。…正直、心臓に悪い」
「この俺が死ぬとでも思っているのか?」
「そうじゃない。…そうじゃないよ、ラオウ。違う。…でも、さ…」

でも、と繰り返す彼女は、いつもの飄々とした空気などもはや持ち合わせておらず、ただ一人で静かに震えていた。
そのまま黙り込んだは、思い溜息を一つ吐くと、なんでもない、と言って振り返った。

「君には言わなくてもいいことだった。…忘れてくれるかな」

はそういって、明らかに無理矢理作った笑顔でラオウに笑いかけた。
それがやけに痛々しくて、ラオウは眉根を寄せるとを見つめた。

「何?私の顔に何かついてる?」
「何故笑う」
「何故って、私はいつもこんな感じだよ」
「嘘をつくな。その作り笑い、気味が悪い。やめろ」

ラオウの言葉に、は一瞬瞳を揺らせ、それから答えた。

「…君って本当、痛いトコばっか突いて来るよね…」

その声は今にも泣き出しそうに酷く震えていた。
のいつになく珍しい反応に驚きながら、ラオウはただ漠然と、本能的にの頭を撫でた。
予想外の男の行動に、の身体が少し跳ねる。

「!」
「…泣くな」
「…っ、泣いて、ないよ」

俯いて答える彼女の声は既に十分泣き声だ。
そして思った。
が泣くのを見たのは初めてだと。
いつも強気な彼女の震える肩がこんなにも弱弱しいものだと、ラオウは知らなかった。

「俺は死なん。信じてついてくるといったのはお前だろう」
「…うん、」
「ならば泣くな、鬱陶しい」

俯くの顔を無理矢理起こさせて、親指で涙を雑に拭ってやると、はぽかんとした顔でラオウを見上げた。

「なんだ」
「…いや…ちょっと、どきっとした、っていうか…見直した。今、君がめちゃくちゃイイ男に見えた」

そんなことを口走る彼女は、既にいつものペースを取り戻していた。
それを確認するとラオウは、阿呆か、とだけ返すと、寝室に向かって踵を返し、ふと足を止めた。

よ」
「うん?」
「お前は他人に幸せにしてもらうような女ではないだろう。おかしな歌を歌うな」
「…!」

ラオウの言葉を聞いたは、それこそ鳩が豆鉄砲を食らったような顔で固まった。
それを見て、いつもの借りを返した気分になり、ラオウはまた寝室に戻った。








"Las auch dir die Brust bewegen,
 Liebchen, hore mich,
 Bebend harr ich dir entgegen!

 Komm, beglucke mich,
 Komm, beglucke mich,
 Komm, beglucke mich!"


"愛しい人よ、貴方も胸を開いて、
 私の心を聞いておくれ、
 貴方を待ち焦がれ
 震えていることを!

 来て、私を幸せにして、
 来て、私を幸せにして、
 来て、私を幸せにして!"


北斗兄弟はみんな何気に2,3ヶ国語ペラペラだといいなぁと思って勝手にドイツ語とかわかっちゃう設定に。
拳王様がニセモノくさい。

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