極楽鳥花の幸福
バケットのはみ出した紙袋を両手で抱えて、はエレベーターのスイッチを肘で器用に押した。
上手く行かずに一つ下の階のボタンまで押してしまったが、とりあえず自分の部屋がある階には行けるので、まあ良いかと壁に凭れる。
エレベーターには他には誰も乗っていない。ポン、と軽い音がして一度扉が開き、乗る者も降りる者もいないまま再び扉が閉まった。
すぐに同じ音が鳴って再び扉が開くのを待ち、はもう一度紙袋を抱え直してエレベーターを降りる。
歩く度に青いウェッジソールのエナメルのミュールの踵がコンクリートとぶつかり、こつこつと音を立てる。
そろそろゴムが磨り減ってきたらしい。
お気に入りのミュールだから、シューズショップでもう一度ゴムを張り直してもらおうか。
そんなことを考えながら自分の部屋の前で立ち止まり、重い紙袋を片手でどうにか支えて、空いた方の手をポケットに突っ込んで鍵を探す。
上手く引っ張り出せず、買い物袋を落とさないように体を傾けながら、ポケットの指をキーリングに無理矢理引っ掛けようとしてもたついているその時、部屋の内側からドアが開いた。
「…何をやっとるんだお前は」
「…」
玄関から顔を出した金髪の男は中途半端な姿勢で固まった彼女を見るや、開口一番に尋ねた。
見ればわかるだろうとその問いにはあえて答えず、ポケットから手を出して咳払いを一つすると、紙袋をもう一度両手でしっかりと抱いて部屋に入った。
「来てたんなら電話してくれたらいいのに」
「何で俺がわざわざそんなことせねばならん」
「ここ私の部屋なんですけどー」
「バカめ。お前のものは俺のものだ。だからここも俺の部屋だろうが」
堂々と無茶苦茶な理論を口にする男の名はサウザーという。
容姿性格共にまるで帝王学を形にしたような男であるが、この天上天下唯我独尊男がごくごく一般的な彼女、の恋人だと言うのだから、事実は小説より奇なりとはよく言ったものだと彼と彼女の友人は口を揃える。
「ったくもう…ご飯、食べてくの?」
「食べて行ってやらんでもない」
「ああそう」
要するに食べていくわけね、とが慣れた様子で返すと、サウザーはふんぞり返ってリビングのソファに座った。
彼の扱いは、最初こそ難しく感じるものの慣れてしまえば簡単であるという事にが気づいたのは一年ほど前のことである。
コツはというと、要するに何を言われようが「流す、気にしない」。これだけだ。
しかしながら、それでも普通の人間ならばそのうち参ってしまうサウザーのチョモランマよりも高いプライドと大陸よりもデカイ態度にが上手く付き合っていけるのは、もはや彼女の器用さと大らかさの賜物であるとしか言いようがない。
「あれだ、今流行のツンデレってやつでしょ」と軽々と言い放った彼女に、サウザーの友人各位が尊敬の念を抱いたのは言うまでもなかった。
もちろんサウザーもがそう簡単に流される性格でも媚びる女でもないということは理解している。
そしてだからといって彼女が我を通し続ける性質でもないということもだ。
自分の我侭を媚びることなく受け止めて、尚且つ上手く衝突を避けてくれる彼女の存在をその他大勢とは別のものとして意識し始め、いつの間にか気がつけば一緒にいる時間が増えた、気がついたら世間的には恋人と言える関係になっていた。
サウザーにとってのは言わば稀有な存在であり、にとってサウザーは気難しく見えて扱いやすい個性豊かな恋人であった。
「そういえば仕事は片付いたの?いつになく早いよね」
「あんなもの、この俺様にかかれば昼で終わる」
「そう。お疲れ様」
さりげなくコーヒーを二人分淹れてソファの前のガラステーブルに置く。
何を口にするにも味に煩い彼の文句を右から左に受け流しつつ、密かに改善を試みてきたが淹れるコーヒーはサウザーのお気に入りの一つになりつつあった。
勿論サウザーがそれを口にすることは天と地がひっくり返っても有り得ないが、は無自覚に頬を緩める男の表情でそれらを読み取る。
傍から言わせれば、素直になれないサウザーには、カンが鋭く察しのいいが上手くかみ合っている、というわけだ。
今日も僅かに表情が緩んだサウザーを見て、は小さく笑った。
「何をじろじろと見ている」
「別に。美味しそうに飲んでくれて嬉しいなって思っただけ」
「ば、馬鹿かお前は!お前のような庶民が淹れたコーヒーなど旨いわけがあるか!」
「あれ、勘違いだった?」
「………不味くはない」
旨いわけがない、と言ってしまった手前、今更修正がきかずにぼそぼそと呟いたサウザーには肩を竦めて見せた。
正直なところ、は8割の確立で彼の心情を察することが出来ると思っている。
例えば、サウザーが考えたことや思ったことを今のように口にすると、確かにすぐに否定されるが後で必ず無理があるフォローが来る。「不味くはない」「悪くはない」等等。
しかし、だからといってそれで十分満足しているわけでもないのだ。
時には言葉が欲しいと思う。
食事を作ったりコーヒーを淹れたり、そんなことは彼女が好きでやっているのだから感謝などされなくても構わない。
それでも、寂しく思うことがないわけではない。
サウザーはに対して、愛してる、とは一言も言わない。
好きだ、とも。
そういう言葉を言えるような性格ではないのだ。
それはとて理解している。けれど、あまりにも何も言われないのは嬉しいものではない。
もしかしたら、自分は体のいい召使程度にしか思われていないのかもしれない。
既に肌を重ねたことがあっても、抱きしめられたことはない。
口付けを重ねても、愛を囁かれたことはないのだ。
本心を聞かずに我慢しているのは、肯定されるのが怖いからだった。
上手くかみ合っているように見えて、微かにずれている。
二人の関係は実際には恋人と定義されても、未だにどこか齟齬があるようにには思えていた。
「おい」
「ん?」
「どうした、神妙な顔をしおって」
この俺様の前で何の不満がある、と眉根を寄せたサウザーに、はしまった、と慌てて表情を取り繕う。そして同時に思う。いつも気づきもしないくせに、急に気が付くなんて反則だ、と。
「別に、なんでもないよ」
「ほう?俺様に嘘が通用すると思っているのか」
「嘘じゃないってば」
「……」
大丈夫、と手を振ると、サウザーは怪訝な顔をしつつ、それ以上追求することを諦めた。
思ったよりも追求されなかったことには胸を撫で下ろし、空になったコーヒーカップを片付けにキッチンに向かう。
その後姿を、紫暗の瞳がじっと見つめていることには気づかずに。
「今日は泊まってくの?それとも帰る?」
「帰る。明日の会議で使う書類を取りに戻らねばならんからな」
「そっか」
食べるだけ食べて相変わらず旨いとも有難うとも言わない男に背を向けてが食器を洗っていると、いつもならさっさとリビングに戻って難しそうな雑誌を読み始めるサウザーが、何を思ったのかに近づいた。
「どしたの」
「代われ」
「……………………えっ?」
一体なんだろう、デザートでも出せといわれるのかと思いきや、予想を大幅に裏切る言葉に、の思考は一瞬停止した。
どういうことだろう。手伝おうというのだろうか。まさか、そんなわけがない。
サウザーが家事の手伝いをするなんて、まるで上空一万メートルの飛行機をミシン針で打ち落とすくらいの確率だ。
つまり有り得ない。
「何を呆けた顔をしている。どけ、邪魔だ」
「え、あっ、ちょっと、」
無理矢理シンクを奪われてどう反応すべきか戸惑っているに、サウザーは不機嫌そうに眉を寄せた顔で言った。
「鞄の中から会議用の資料を出しておけ。後で読む」
「う…うん」
意図はよくわからないが、今日はどうしたことかサウザーが洗い物をしてくれるらしい。
それならばそれで文句は言うまいと、が言われるままにサウザーの仕事用の鞄を開けて会議用の資料らしきものを探っていると、指に何か硬いものがぶつかった。
「えっ、何これ…?」
資料を取り出してから手にしたものを見て、は目を瞬かせた。
その手には明らかに女性向けであろう装飾のされた小さな小さな袋があり、更には――
「サ、サウザー…?あの、これ…」
「そいつはお前にくれてやる」
背中越しに聞こえた声に振り向けば、どう見ても耳まで真っ赤になっているサウザーが無駄に水を勢いよく流して洗剤を落としていた。
驚いたやら嬉しいやらでいそいそと中身を取り出すと、そう考えてもネックレスが入っているとは思えない正方形の箱が滑り出てくる。
ぱかり、と恐る恐る開いたその箱の中身を見て、はキッチンに走って背を向けているサウザーの背に飛びついた。
「!おい、離れろ邪魔だ!」
全く迫力のない赤い顔のサウザーが言う事には耳を貸さず、は既に皿は綺麗に洗い流されているのに出しっぱなしになっている水を手を伸ばして蛇口を捻り止めた。
広い背中に顔を埋めると男の匂いがふわりと香る。
抱きついた男の身体の体温がぐんぐん上がっていることが、何よりもを感動させた。
「…どうしよう、ねえ」
「な、何だっ」
箱の中身は、きらりと輝く一つの指輪。シンプル且つ愛らしい、シルバーリングだった。
こんなもの、貰えるだなんて思っていなかった。
こんなものを、選んでもらえるとも。
「すごく嬉しい…!」
ぎゅっと背中に顔を押し付けるを、サウザーの太い腕が引き剥がしてぐっと前に引っ張った。
前を向いた男の胸に抱き込まれて、は驚いて目を瞬かせる。
もう一年以上一緒にいても、こうして強く抱きしめられたことなどなかったのに、こんな時に、こんなタイミングでして欲しいことを次々とやってのけるだなんてやっぱり反則じゃないか。
嬉しさと戸惑いで眼を潤ませるの頭の上から、サウザーの声が降った。
「……お前が何を勘違いしているか知らんがな。俺はどうでもいい女の部屋で飯を食うことも、寝ることもない」
「…気づいてたの?」
「ふん」
俺様を誰だと思ってる、と答えになっているのかなっていないのかわからない言葉が返ってきて、は顔を上げて気づいた。
シャツのボタンを寛げた太く逞しい首元で、小箱に入っていたそれと同じ指輪が鎖に通されて揺れている。
「あ…」
「…ちっ。じろじろ見るな!」
「だ、だってそれ、」
「ええい喧しい!おい、目を閉じろ!!」
「えっ、は、はい」
「俺様が許すまで開けるなよ。絶対にだ」
「わ、わかったってば」
言われるがまま目を閉じたは、耳元でダイレクトに響いた声に硬直した。
「一度しか言わん。よく聞け」
―――あいしてる。
目を開けそうになったのと、唇が塞がれたのはほとんど同時だった。
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