「はああああああああ…………」 トロイメアの姫君は落ち込んでいた。 月が高く昇る夜、はアポロの城の庭の東屋のベンチに座りこんで頭を抱え、ずっしりと重い空気を背負って、それはそれは落ち 込んでいた。 月明かりに照らされた庭園の美しい花々すらも今の彼女には目に入っていない。 彼女は夢王国に来る前日まで現役の自衛隊員だった。 陸上自衛隊、普通科連隊重迫撃砲中隊員である。 たまたま休暇を貰って一人でのんびり出かけた先で眠りに落ち、自分を姫と呼ぶ生き物がいる世界に来た。 高校卒業後、そのまま自衛隊に入隊して女性隊員として日々キツイ訓練に耐えてきた。 のんびりしているように見えて根性のあるタイプだった。 更に、友人の祖父に友人とともに叩き込まれた合気道の腕もあって、彼女は危機を感じた際はおっとりと可愛らしい見た目にそぐわぬ行 動を反射的に取ることがある。 そう、例えば―― フレアルージュの第一王子、アポロの兄・ダイアに、無理矢理腕を掴まれて頭に来た時などは。 「はあっ !!」 無理矢理に連れ去られそうになったは、抜身の剣を手にした男を相手に怯むどころか、掴まれた腕を合気道の要領で華麗に振 りほどき、彼の胸元を素早く掴んで地面に投げた。呆然とした様子で姫君を見上げるダイアに対して、努めて冷静に彼を見下ろした彼女は、思わぬ反撃を見せられて驚く兵士達に 鋭い視線を投げかけた。 地面に無様に投げ飛ばされた兄王子は羞恥で顔を真っ赤にして彼女を睨みつけたが、生憎自衛隊にはもっと強面で鬼のような教官や先輩 が大勢いた。 それに見るからにアポロよりも弱い男の眼光など彼女には子犬のそれのようにしか思えなかったので、は動じる事もなく答え た。 「まだ、やりますか?この通り私は少々手癖が悪いので、お顔に傷がつく前にお帰りになった方がよろしいと思いますが」 もちろんハッタリである。 さしもの自衛隊員とて、抜身の剣を持った大人数相手に一人で立ち向かって勝てる見込みはない。女に投げ飛ばされた男がこれ以上恥の 上塗りをすまいと判断してくれるよう、あえて大げさに言ってみたものの、客人として招かれている身の彼女には城の主の帰りを願うこと しかできないのだ。 しかし、背後の気配に振り向いて、元自衛隊員の姫君は蒼白になり動きを停止させた。 「とんだ暴れ馬だな」 「…… !!?」 振り返るとそこには城の主であり、彼女を婚約者だと言って憚らない、威厳に満ちた王子が立っていた。 以上が、つい六時間前までの出来事である。 「ダメ、もう詰んだ。最悪すぎる……!」 この世界で初めて姫と呼ばれたあの日、成り行きで目覚めさせた王子に混じって、うっかり戦闘に入ってユメクイを素手で男前に 撃退してしまったは、その後散々自称執事のナビに言い含められた。 何がどうして武術を使えるようになったのかは知りませんが無茶はおやめください、ましてや相手に立ち向かうなんて危険すぎま す、せっかく王子達が守ってくださるのに姫が戦ってどうするのです、云々。 要するに姫らしくないから大人しくしててくださいということだ。 その件について、彼女は全面的に合意した。 確かにナビの言う通り危険だし、男性のお株を奪うのは良くないし、自分の女子力に問題がある事も自覚していたからだ。お姫様 は男性をぶん投げたりしない。 だから彼女はアポロに王族らしく振る舞えと言われた時も、言われて当然、仕方ないとも思ったし、出来る限り女性らしく姫らしく振る 舞った。 というのに、だ。 「よりによって目の前でお兄さんをぶん投げるなんて……!あああ私の馬鹿ーー!」 あの後、アポロは床に這いつくばる兄を愉快そうに見下ろし、をこれ見よがしに引き寄せて見せ、喚き立て始めた兄を炎で威嚇して 追い返した。 力を使ったため苦しげにしながらも、何故かに満足げな笑みを浮かべていたアポロは現在、部屋で休息を取ってい る。 そんなわけで彼女はやらかした事を一人で思い返してどんよりと沈んでいるのだ。 「なかった事に……って無理だよね……白昼夢だと思って忘れてくれない か な……」 「生憎あんな強烈な光景をすぐに忘れるほどボケた頭はしておらんが」 「いや、でも仮にとはいえ婚約者が男性をぶん投げたりしたら普通は引いちゃうでしょう?ねえそうでしょアポ……ロ!!?」 「喧しい。貴様は静かにできんのか」 数時間前まで苦しげにしていたアポロは既にすっかり調子を戻し、いつものように堂々たる態度で、東屋の低い壁越しにを 見下ろしていた。 てっきり休んでいると思っていた彼が起きていて背後に居て、しかもごく自然に会話していた事に気付いて、彼女は飛び上がった。 「なっ、お、起きていたんですか !?」 「ふん。この俺が城を占拠されかけた当日の夜に呑気に休むような阿呆だ と?」 「う……」 実に冷静なアポロの返答に、は黙り込んだ。確かに全くもって彼の言う通りで、既に深夜だというのに城は未だにざわついてい る。たとえ疲れていようと、この地の領主であるアポロがいつまでものんびり寝ているわけにはいかないのだ。 「その、身体は……」 「何度も言わせるな。案ずる必要はない」 「……はい……」 兄に自分の城を奪われかけたアポロにどのように言葉をかければいいのかわからず、は彼が東屋に入って自分の隣に腰掛ける様子を 黙って見ていた。体調の事も勿論だが、彼の父親と兄との関係は非常にデリケートで軽々しく話題にできない。 そのデリケートな問題に直結する兄上をぶん投げてしまった、というのが、今の彼女の最たる不安である。 正当防衛とはいえ客人の身分で他国の王子をぶん投げて恥をかかせたなんてまずいことをしてしまった、これでアポロの立場が不 利になったらどうしよう。 自分を強制的に婚約者に仕立て上げた男の味方をするような思考になっていることには気づかず、は恐る恐るアポロに問いかけ た。 「……何も言わないんですか?」 「何をだ」 「だって私、貴方のお兄さんを……」 「構わん。良い薬だ」 そういう問題じゃなくて、と食い下がった彼女の手首を、アポロの手が不意に強く掴んだ。 「ちょっと……!」 「どうした。投げてみろ、」 「えっ」 「兄は容赦なく投げ飛ばしたではないか」 確かに思いっきり地面に投げた。そこを否定する気はない。が、だからといって見境なく暴力を振るう女のように言われるのは彼女とて 心外だ。命令するかのようなアポロの物言いに、は負けじと言い返した。 「わ、私は誰彼構わずあんな事したりしません!」 「ならいい」 がきっぱりと言い返すと、意外なまでにあっさりとアポロは手を放して、彼女の眼を真っ直ぐに見つめて言葉を続けた。 「節操なく暴れる女なら不要だが、そうでないなら問題ない。そもそも一 国の妃に迎え入れる女が弱くては話にならん。この俺の隣に立つ女であれば尚更だ」 アポロの口から紡がれる言葉の数々は相変わらず尊大で遠慮の欠片も無かったが、不思議とそれらは彼女の不安を取り除いた。力強い瞳 の持ち主に、個として認められているという事実が、いつの間にかあのアポロに対する苦手意識を消し去っていた。 「貴様が兄を見下ろしていた時の眼は悪くなかった」 意地悪そうに笑みを浮かべたアポロを目にして、つい六時間前に彼に強く抱き寄せられた事を思い出し、は微かに頬を染めた。 そして彼女は思い出した。 目の前で自分の兄を無様にぶん投げた女を、彼が躊躇なく引き寄せた事を。 出会ってまだ数日とはいえ、アポロという男の性格を彼女は幾度となく思い知らされている。 フレアルージュの王子・アポロは気に入らない者は傍に置かない。 答えはそれが全てで、悩む必要など初めから無かったのだ。 一連の出来事を思い出して、途端に早鐘を打ち始めた鼓動を誤魔化すようには目を逸らした。 その手をアポロは再び、今度は丁寧に取って、手の甲に口付けて見せる。 「せいぜい淑女らしく振舞うがいい……婚約者殿」 「っ……か、からかわないでください!」 「喚くな。腹が減った、食事にするぞ」 「こんな時間に食べては……」 「付き合え。」 「……はい(寝る前に腹筋しよう)」 手の甲に落とされた口付けの甘い痺れに気付かぬふりをして、トロイメアの姫君は、月明かりの下でもわかるほど耳まで赤くなった顔を 隠すために頷いて俯いた。 彼女を見つめる気高く強い赤い瞳の持ち主が、満足げに微笑んだことには、まだ、気付かない。 |