海底国、アクアリア。 揺らめくイソギンチャクや珊瑚、彩もあざやかな魚達、そして周囲に果てしなく続くターコイズブルーは一度目にすれば虜になってしまうほどに美 し い。 その巨大なシャボンに覆われた深海の国は、選ばれた人間以外立ち入ることができない。 近隣国・コラリアよりも厳しく人間の立ち入りを禁じているアクアリアに足を踏み入れられるのは、彼の国の者と特別な関係でなくてはならない。 ここ で言う特別とはすなわち、アクアリアの者との婚姻関係だ。 図らずもアクアリアの王子・オリオンに言われるがまま海底国についてきてしまったトロイメアの姫・ は、簡単に地上に帰れないという緊急事 態に 見舞われた上に、オリオンに強く(それはもう有無を言わせない勢いで)求婚され、すったもんだで色々あって、最終的にはオリオンの想いを受け入れ る形で彼の婚約者の位置に収まった。 ここまではいい。 も最初は横暴に思えたオリオンの想いが真剣なものだと理解したし、彼女もそんな彼を愛してしまったのだから大団円ではある。途中で一発ビ ンタ を入れてしまったけれど、彼も彼でやりすぎなところはあったのだからお互い様だ。 しかし海底国は前述のとおり、人間の立ち入りが非常に難しい場所で、外界と連絡を取るのも時間がかかる。 その上彼女は次の王妃となるために、現王妃からは海底国の妃として恥ずかしくないようにきっちり教育を受けさせられており、毎日勉強と読書を 繰り 返す日々だ。 つまり一言で言うと、少々窮屈なのである。 勉強の合間にオリオンと共に海底を散策したり、彼が勉強に付き合ってくれたりしてくれている時はまだ心が安らぐけれど、オリオンも王子として の公 務があるので毎日暇なわけではない。 そうなると、 は一人で時間をやり過ごす必要がある。 勿論毎日表情を変える海底は眺めているだけでも楽しくて時間を潰せるし、今の彼女は地上に出かけようと思えばそれも可能だ。 ただ、それをやるとオリオンは拗ねる。 5000%拗ねる。 数日前も、たった2時間だけ地上に出ただけなのに機嫌を直させるのに4時間もかかった。どう考えても割に合わないので、次からは彼を伴って地 上に 出るようにしようと決意したくらいだ。 そんなわけで は、午後の明るい日差しが差し込む海底で、じっくりとヒマの潰し方を考えていた。 読書は正直、飽きてきた。 妃になるための勉強も順調だ。 部屋から見えるイソギンチャクの数は数え終わった。 オリオンが一日にキスをしてくる回数は平均14回、回数の割になかなか慣れないのは、わかりやすく女性扱いしてくる相手ができたこと自体初め てだ からだろう。 自衛官だった頃はむしろ女だからって甘えていたら腕立て100回後の全力ダッシュが追加されているところだ。 ちなみに筋トレはダメだ。 海中だから浮力の関係で体が軽く思えて張り切ったら水圧の負荷の関係で翌日ひどい筋肉痛になり、オリオンに無駄な心配をかけたのは記憶に新し い。 理由が理由だけに恥ずかしすぎる。 ひとしきり唸って30分。 彼女は視界の端に揺れる、オリオンがくれたネックレスを目にして名案を思いついた。 「ううん……なかなか見つからないなあ……」 30分後、 は城の庭付近で身を屈めて砂の上に目を凝らしながら歩いていた。 オリオンに贈られたネックレスとよく似た色の貝殻を使って、お返しにブレスレットを作ろうと思い立ったのだ。 しかしいかんせん、肝心の貝殻が見つからない。 夕焼けを溶かしたようなオレンジの美しい貝殻のネックレス。 彼女が贈られたそれは女性用なのでオリオンに同じものを贈るのはおかしいけれど、シンプルなブレスレットなら身に着けてくれるのではないかと 考え た。けれど貝殻が見つからなければ贈る以前の問題だ。 オリオンさんたら、無茶な注文をしたんだな、と は苦笑する。 きっとこれを注文された人は彼に夕日を指差されて、あれと同じ色の貝殻でネックレスを作れ、なんて言われたんだろう。 海底の装飾品が地上のような宝石よりもサンゴや真珠、貝殻を中心としたもので作られているのはオリオンや彼の母の装飾品を見ればわかる。だか らお そらく彼の注文も、海底の職人が様々な色の貝殻を持っていたから対応できたのだろう。けれど、海底に来て一月も経たない ではどこに行けばその 貝殻があるのかわからない。 でも、これはこれでいい、と は思う。 苦労して見つけたものの方が愛着が湧くし、すぐに手に入ってしまったらなんだかありがたみが薄れてしまう気がするのだ。 一息ついて伸びをした は、背後から自分を呼ぶオリオンの声が聞こえて振り向いた。 見れば公務を終えたらしいオリオンが に向かって近づいてきている。 その彼の足元、1メートルも満たない場所に、彼女は見つけた。 「……あ!」 夕焼けの色と同じオレンジの、美しい貝殻を。 しかし が気付いた時には、彼は貝殻に気付かず足を踏み出し、そして―― 「オリオンさん、止まっ……」 「?」 彼女の制止も空しく、彼の足の下で、パキッ、と嫌な音がした。 その音で、 はげんなりと肩を落とした。 「こんなところで何をしている」 オリオンは自分が何を踏んだのかも知らずに に近づいた。 彼が通り過ぎた後に無残にも割れて砕けた貝殻が見えて、 は溜息をつく。 「おい、どうした?気分が優れないのか」 「…………なんでもないです」 明らかに落ち込んだ声で答えた に、オリオンは優しく問いかける。 「なんでもなくないだろ、その顔は。何かあったのか」 恋人の優しい気遣いを嬉しいと思う半面、残念な、やるせない気持ちがこみあげてきて、 は上手く笑えなかった。今回ばかりは事故で、彼に一 切の 非も無いのはわかっているけれど、せっかく見つけたのに、という思いが嬉しさを半減させている。 けれど流石に不可抗力の事故で彼を責めるわけにはいかないので、 は表面上の理由だけを口にした。 「……このネックレスと同じ色の貝殻を探していたんですけど、なかなか見つからなくて」 見つかったと思ったら貴方に今踏まれまして、と言いたいのを飲み込んだ に、オリオンは悪意なく言った。 「なんだ、そんなことか。言えばいくらでも用意してやるのに」 そう、悪意なくだ。オリオンにとっては普通の事を言ったに過ぎない。 けれど彼女にはすんなりと受け流せるほどの余裕が無かった。 「そうじゃなくて……自分で探したかったんですっ!」 「なっ、おい!?」 は怒りを含んだ声で一言だけ残すと、オリオンの隣をすり抜けて城の中に走り去った。 オリオンにしてみれば話しかけたら何故か怒られたという不可思議な状態である。 「……なんなんだ」 わけがわからず、ふと足元に視線を落としたオリオンは、一瞬の後、ぎょっとして目を見開いた。 ほぼ間違いなく彼女の機嫌を損ねた原因と思われるものが、足元に無残にも散っていたからである。 速足で自分の部屋に向かっていた は、後ろからオリオンが自分を追いかけてきたために更に足を速めた。 頭を冷やしたくて一人にしてほしいと思ったからだ。落ち着いたら、貝殻が見つからなくてイライラしたんだとでも言って謝るつもりでいた。 けれどそんな の手を、更に急ぎ足で追いついたオリオンが掴んで引き止める。 「待て、怒るな」 「怒ってません」 「怒ってるだろ」 「だから、怒ってなんか……っ!」 ついムキになって言い換えした だったが、オリオンが差し出した掌の中のものを目にして言葉を飲み込んだ。 恋人の掌の上で、彼女のネックレスと同じ色の貝殻が割れていた。 「……これを探していたんじゃないのか」 「……!……いいんです。オリオンさんに悪気が無かったのはわかってますから……」 気まずそうに貝殻から目を逸らした に、オリオンはかける言葉を探して、彼女の手をぎゅっと握った。 不注意で悪気が無かったとはいえ、せっかく見つけたと思ったものを目の前で壊されたら落胆するのは当然だということは彼なりに理解はできた。 けれ どオリオンには、ここが謝るべき場面なのかどうかわからない。というか謝るのは変な気がする。それに も彼に悪気が無いのはわかっているとい う、ではどうすべきか。 居心地の悪い沈黙の後、オリオンは彼の愛する人が口にした、“自分で探したかった”という部分だけを汲んでみることにした。 「……貝殻なら、もっと沢山落ちている場所を知ってる」 「えっ……」 「どうしても自分で探したいなら連れて行ってやる」 「オリオンさん……」 ばつが悪そうに視線を彷徨わせながらも、恋人の願いをどうにかして聞こうとしてくれたオリオンの言葉を聞いて、 の心は凪いだ海面のよう に静 まり、穏やかに落ち着いた。 「いえ……私こそ、ごめんなさい。理由も言わずに拗ねるなんて、子供みたいな態度を取ってしまって……」 の謝罪を受けて、オリオンは安堵した。どうやら彼の提案で恋人は機嫌を直してくれたらしい。 「この貝殻は残念だったけど……きっとまた似たものが見つかりますよね」 はオリオンの掌から砕けた貝殻の欠片を摘んで、細い手にそっと握り込み、彼に向かって微笑んだ。 その頬を、オリオンの指先がするりと撫でる。 「お前が望むなら、すぐにでも貝殻を拾いに連れて行ってやる」 「えっ……そんな、悪いですよ。今日は諦めます。オリオンさんも午後から公務があるじゃないですか」 「だが……」 「こんなことで無茶を言ったらお妃様に怒られちゃいます。それにほら、今日は光が翳ってきましたし」 王子であるオリオンが大事な公務を放って女のワガママに付き合うようなことがあったら、彼の母であるお妃様に申し訳が立たない。自分だけな らい いけれど、彼の評価まで悪くするわけにはいかない。 はオリオンの提案をやんわりと断って、代替え案を出した。 「確か三日後は終日空いていると仰ってましたよね。なら三日後、晴れていたら、改めて連れて行ってください。私もそれまでに海底の料理を幾つ か覚 えて、お弁当作ります」 恋人の提案を受けて、オリオンは悩んだ。三日後は確かに空いている。だから、その日はひたすらに彼女を可愛がるつもりでいたのだが、手作り の弁 当も捨てがたい。彼は可愛い恋人の手料理をまだ食べたことがなかった。 「ね、そうしましょう?」 「……わかった」 逡巡した結果、オリオンは恋人の提案を呑んだ。恋人の手作り弁当の誘惑に負けたとも言える。 「では、今日はもう部屋に戻れ。お前の言う通り日が陰ってきた。身体を冷やしては事だからな」 「はい……あの、オリオンさん」 はその時、何故そうしたのか自分でもわからなかった。 ただなんとなく、いつも俺様を地でいくオリオンが彼女の希望を聞こうとしてくれた事が嬉しかっただけかもしれない。 彼女はオリオンの肩に手を置いて背伸びをして、背の高い恋人の頬に幼子のようなキスを贈った。 ちゅ、と可愛らしい音を立て、オリオンの頬に柔らかい唇が触れて、離れる。 「こ、公務、頑張ってくださいね」 「……」 挨拶のようなキスの後、いつも仕掛ける側のオリオンと目が合って急に恥ずかしくなり、 はさっと身体を離して、頬を赤く染めて俯いた。 「……足りん。もっとだ」 「えっ、あ、」 オリオンが恋人を再びその腕に捉えて抱き締めて、可憐な唇を甘く深く奪うまで、あともう一秒もかからない。 |