君は覚えているだろうか。

初めての二人の出会いを。

覚えているだろうか。

あの運命の日を。


願わくば、今の自分をただ、静かに見守っていてほしい。

そして、彼女を――


ブルー・ローズに微笑を

1. A Man and A Woman.


全く持って、皮肉な話だ。
薄曇の空を見上げて、トキは深い溜息をついた。

核の炎が地を灼き、舞い上がった死の灰が全てを穢してしまっても、この身は未だ健康なままで居る。
理由は簡単だ。
ケンシロウとユリアを助けるためにシェルターを閉めた後、奇跡的にまだ余裕のあるシェルターに案内されてそこに滑り込むことが出来たからだ。
全く以って奇跡としか言いようがない運の良さに、トキは正直驚いた。
弟と、そして想いを寄せる女を助けることが出来れば、この身が朽ちても惜しくないと覚悟しての行動だったからだ。
しかし同時に、一度はあきらめた人生が偶然手元に戻ってきたというのに、心は重く沈んでいた。


――どうしたものだろうか…。


死の灰を被らずに済んだことは、喜ばしいことだ。
当然である。
おかげで健康体でいられるのだから。
ケンシロウやユリアに心配をかけてしまったのに、いざ再会すればぴんぴんしていました、というのは聊か恥ずかしいものもあったが、良い事に変わりはない。
誰も病にかからずにいられたことは幸福だ。
拳法家として己を磨く道も、同時に病に苦しむ人々を長く助けて行けることも素晴らしい。

何一つとして嘆くことなどないだろうと、今の彼を見れば皆がそう思うだろう。
旗から見ればその通りだ。
足がある、健康であるということは、死の灰で弱った人々や核の衝撃で怪我を負った人々からすれば大いなる幸福だ。
こんな世の中だ、五体満足で健康に生きていられること自体が財産なのだから。

何も嘆くことなどない。
何も心が沈むことなどないはずなのだ。
それでもトキは、ただ溜息をついた。


――駄目だ、不毛すぎる。


最近ずっとこんな調子だ。

あの日、あの運命の分かれ道で、彼女に会ってから―――。



――ああ、胸がむしゃくしゃする。

行きつけのバーのカウンター席で、若い女が足を組んで不満げに眉を歪めて頬杖をついていた。
なんとなく飲みたくて来たのだが、以前までは活気があったこの小さなバーも、すっかり寂しくなってしまった。
グラスの水を少し口に含んで乾いた口内を湿らせ、先日の出来事思い出し、彼女は憂鬱な気持ちになった。


――なんであんなのがいるのよ。


文句を言う相手は全くのお門違いなのだが、それでもそう思わずにはいられなかった。
特に、彼女――には。

は可愛らしい顔立ちの娘だった。
年齢を鑑みれば女性と呼ぶほうが適切だが、ぱっちりと大きく、少し釣りあがった猫のような双眸に高めの弧を描く眉、ふっくらとしたチェリーピンクの唇が二十歳という実年齢よりも彼女を幼く見せていた。
しかし真っ直ぐに背を伸ばした佇まいが凛とした空気を纏わせ、幼い外見を上手くカバーしている。
そんな容姿をしているから、彼女はよく異性に声をかけられる。
それは良い意味で言えば魅力的であるということなのだが、皮肉にも彼女はそれを嬉しいと感じたことは一度も無かった。

むしろ、その逆である。
不愉快極まりないのだ。

異性に肩を叩かれると一瞬身体が硬直する。
話しかけられると冷や汗が出てくる。
胸がざわついて、理由も無く身体が震えて不安になる。

は、男性に対して強い不安障害を持っている。

自らの身体的な拒絶反応を、はどうにか抑えることが出来るほどには回復している。
しかし、それは見た目にわからないように表面上取り繕うだけで、実質彼女は男性恐怖症そのものを克服してはいない。

男は怖い。
視界に入らなくていい。
いっそ、自分に話しかけたり自分を見たりしないで欲しい。

しかし、いくら願ってもの容姿は目立ったし、だからといって身なりを整えるのを止めることは彼女のプライドが許さなかった。
男性は嫌いだが、自分を汚く見せるのも厭だ。
結果として彼女はやはりそれなりに人の――特に男性の目を引くことになり、よく声をかけられた。

男は鬱陶しくて、不愉快な生き物だ。
ちょっと見た目がいい女を見つけると、すぐに容姿ばかりを褒めちぎって自分のものにしようとする。

彼女の中の男性像というのは、いつも決まってくだらない話ばかりでいやらしい目で自分を見てくるものだった。
それが覆されたのは、皮肉な事にある男に会ってからだった。


見た目にも中身も実に誠実で、非の打ち所の無い、冗談かと思えるほどに聖人君子のような男に。



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