数回目の逢瀬で彼女からその場所を見せたいと言われた時、ラーハルトは特に反論なく頷いた。彼としても静かな場所は好ましい。戦場こそ死 に場所と考えてはいるものの、別に彼は戦闘狂ではない。当然無駄に好戦的なわけでもない。何も無ければ平和な方がいいに決まっている。 その上、ただでさえ はラーハルトの気持ちに添って、目立たずに済む時間の過ごし方を日々考えている。少しくらいは二人で外出して 街を歩きたいだろうに、 は彼が嫌がることを知っているから誘わないのだ。ラーハルトも恋人の気遣いを知っているので、人目の少な い場所ならば連れたって外出したいという彼女の願いを叶えてやりたいと思わないでもない。 そんなわけで4回目のデートとなるこの日、ブランケットと水筒、それに大きめの布にパンとチーズとオレンジを包んで持ってきた は、木漏れ日の差す木々の下で傍にあった岩に腰掛けて二人で軽めの昼食を摂った。隣で適当に腰を下ろした恋人に切り分けたチーズとパンを 手渡して静かなランチタイムを過ごす。食事の時はあまり会話をしない彼に合わせて、 ものんびりとチーズを齧る。 「ね。いいでしょ、ここ」 簡単な食事の後、 はラーハルトの隣に座って肩に寄りかかり、首を動かして無口な男の顔を見上げた。ラーハルトは口に出して返事は しなかったが、代わりに寄りかかってきた恋人の頭を数回撫でた。性格的に大っぴらに恋人を可愛がれる男ではない上に恋人ができたことも初 めてなので、ラーハルトの愛情表現は言葉ではなく主に行動だ。二人きりの時にだけ頭を撫でたり抱き寄せたりというスキンシップをする。ま かり間違っても人前でキスなど一切しない。 はそれはそれでいいと思っている。口を開けば愛の言葉が出てくるような男は大抵バカだったし、愛していると都合の良い事を言う割 には行動が伴わないことの方が多かった。そういう軽い男の目的は女を手に入れる過程であって、手に入れた後で大切にはしてくれない。色々 なパターンで失恋を4回も乗り越えた彼女にとって、恋人とは軽々しく愛してるよなんて連発せずに、ここぞという時に言うべき事さえ言って くれたらそれでいいのだ。 木々の匂いの混ざった微風が二人の頬を擽る。時折聞こえる鳥の声に耳を傾けて黙っていた は、ふとどこからか香ってきた花の香りに 気付いて何気なく口を開いた。 「……知ってる?異性の匂いに惹かれるのってね、本能的に相性が良い相手だって感じてるんだってさ」 ラーハルトは を怪訝な面持ちで見下ろした。なんだそれはとでも言いたげな表情に笑いながら は話続ける。 「なんかね、自分の子孫を進化させるために最適な相手を匂いで判断するんだって」 「はっ。香油に誤魔化されてハズレを引く方が多そうだがな」 「……私、ハズレ?」 途端に不安気な表情になった恋人を見て、ラーハルトは言葉を間違えたと口ごもる。香油を使っているのは彼女も同じだが、無論ラーハルトは 香油で誤魔化されたつもりも無ければ彼女をハズレなどと思ったこともない。が、 は で、相手によって香油を変えたりなんか したからこんな風に言われるのかと不安になってしまった。 「…………別に、そうは言っとらん」 素直に謝れない性格が災いして、どう取り繕うべきか逡巡した結果ラーハルトは言葉で説明することを諦めた。 代わりに の両足を抱え上げ、膝の上に座らせて抱き込むようにする。言い繕うようなみっともない真似はしたくないが、せっかく苦労 して捕まえた女に嫌われたくはない。より密着する形で触れてきたラーハルトに、 は頬をぺたりと男の首元にくっつけて尋ねる。 「じゃあアタリ?」 「くだらん事を」 「……なにそれ」 ラーハルトにしてみれば、問答そのものの内容が妙に気恥ずかしいので話題を変えたいが為に出た言葉だった。しかしそこは男女の考え方の 差、 は話を無理矢理終わらせようとしたラーハルトに鬱陶しがられているのかと思い、ムッとする。たった一言「アタリだ」って言っ てくれれば済む話なのに、と瑞々しい桃色の唇を尖らせてつんと機嫌を損ねて見せた。 「意地悪な人にはキスしてあげない」 「おい、」 慌てたのはラーハルトの方である。さっきまでニコニコしていた可愛い恋人が何故怒リ出したのかさっぱり原因が思い当たらない。戸惑った様 子のラーハルトに は肩を竦め呆れながら彼の膝の上を降りて言い返す。 「アタリだって言ってくれないからでしょ」 「拗ねるようなことか?」 「じゃなきゃ拗ねてないです」 「ワケがわからん」 「っ……!!」 は脳内で「一言で済む話だっつの!」と叫んだが、これ以上ここで揉めると互いに意固地になりそうだと考えて、ブランケットを畳ん でさっさと帰り支度をした。ここで『悪かった』などの一言くらい出てきたならば矛を収めても良かったが、ラーハルトはラーハルトで自分は 悪くないと思っているので謝らない。むしろ何でこれくらいで怒るのだと言いそうなのを我慢しているくらいである。 「もういい。先に帰る」 こうして二人の初めてのピクニックデートはケンカで終わりを迎えた。 は足を止めることなく家に向かってずんずんと歩いていく。プ ライドの高さから森の中に消える恋人を走って追いかけることもできす、ラーハルトは歯噛みしながら細い背中を見送ったのであった。 * 「……ああ、何やってんだろ……!」 怒りに任せて家まで歩いて戻ってきた は荷物を荒っぽくベッドに放り投げ、椅子を引いてテーブルに突っ伏して座った。彼女はただ、 自分たちが最高のカップルだと言いたかっただけである。 は彼の匂いが好きで、ラーハルトもそうならば、きっと相性が良いんだねと 言うつもりでいた。それがたった三文字に拘ったせいでケンカになってしまった。 喚き散らす前に帰ってきたものの、あんな子供っぽい拗ね方をして呆れられたかもしれない。最悪嫌われたかもしれないと落ち込んで髪を弄 る。デートの前にはいつもの倍気合を入れてボディケアをして準備して、髪から爪先まで一切手を抜かずにどこから見られても魅力的だと思っ てもらえるように頑張った。肌の調子も良かったし、服装だって質素だけれどスタイルの綺麗なものを着て、今日一日を素敵な日にしようと 思っていたのに、まさかのケンカだ。 にとって、ラーハルトが追いかけてきてくれなかったこともショックだった。彼女は恋人相手だと、頭に来るとさっさとその場を去る 癖がある。これまでの恋人にも怒った時はそんな態度をとってきた。そうすると大体の男はちゃんと追いかけてきて謝るからだ。ごめんな、機嫌直してくれよ、何でもするからさ、と。彼らはロクでもない男ではあったけれど、その場限りのご機嫌取りは上手かったのだ。けれど ラーハルトは元恋人たちとはタイプが大きく異なり、プライドが高いので簡単に謝ることが無い。 やってしまった、あれは不味かったと後悔してもやらかしてしまった事はどうにもならず、 は頭を抱えて彼が戻って来てくれることだ けを祈った。 彼女がノックの聞こえないドアを見詰め続けていい加減泣きそうになってきて、太陽が西に傾き始めた頃、小さな家のドアの向こうで誰かの足 音が止まった。 * 「ちっ……!」 時間は少し遡る。 が怒って森の中に消えた後、ラーハルトは忌々しげに舌打ちをして岩にドスンと腰かけ直した。そもそも、この男の 性格からして「お前はアタリだ」などと言えるわけがないのだ。甘い言葉など言い慣れておらず恥ずかしいのもあるし、竜騎衆の筆頭格たる自 分が女一人に振り回されては情けないという思いがある。恋人の御機嫌取りに追いかけて謝りなどしたら女に骨抜きになっているのを認めるよ うなものだ、恥ずべきことだと彼は考えている。 しかしだからと言って恋人の機嫌を損ねるのは不本意だ。ラーハルトとて口下手が災いして彼女を怒らせてしまった事についてはそれなりの申 し訳なさを感じてはいる。些細な事で腹を立てた にも原因はあるが、自分が素直に謝れないから拗れたのもわかっているのだ。ただ、 いかんせんそこからどう盛り返せばいいのかわからないので苛立っているのである。 気を静めようと湖の周囲を一人歩き始めたラーハルトは、そこで視界の端に白いものが揺れたのに気付いた。湖のほとりの林の中をのぞき込む と、白い花がちらほら咲いている。しかしラーハルトを更に驚かせたのは花の可憐さではなく、微風に揺れる花から立ち上る微かな芳香だっ た。 白い野花の放つ甘やかな香りは、恋人の好んでつけている香油のそれによく似ていた。爽やかな甘さの、さっぱりした蜜のような芳醇な花の香 りだ。ヒュンケルの事を忘れると決めて以来、 はヒュンケルに好かれたいがために使っていた甘酸っぱい果実のような香りを使わなく なり、初めて出会った頃に使っていた甘やかな花の香りに変えた。 好きだった他の男のために用意した香りを捨てて、 はラーハルトだけの女になった。香りが記憶を呼び起こすスイッチになり得ること を は知識としても経験としても知っていた。だからこそ、辛い恋を吹っ切るためにそうしたのだが、潔く、どこか艶っぽさもある彼女 の行動をラーハルトは好ましく感じた。その日から はずっとこの香りをつけてラーハルトを出迎えている。部屋の中に満ちる香りもこ れだけだ。 気付けばラーハルトは、林の中で光を浴びながら仄かに香りを放つ白い野花を一本、二本と手折っていた。自分でも何故このような事をしたの か彼自身上手く説明できないが、“女は花が好き”という俗説を無理矢理言い訳に持ち出して花を摘んだ。もとより言葉で伝えるのは不得意な ので、追いかけたところですんなり謝れる自信は無いのだ。 「……くっ、何故オレがこのような事を……!」 グチグチと吐き捨てながらも花を摘んでいき、気付けばラーハルトの腕いっぱいに真っ白で可憐な花束ができていた。 こんなもんでいいだろうと緊張しながらそれらを束ねた彼は気付かない。 怒らせた恋人の為に花を贈るという行動自体が既に、女に骨抜きにされている男のそれであることに。 * 扉の前の気配は動く様子が無い。名前を呼べば自分で開けてくれるだろうかと はしばらく待ったが、これで恋人でなかったらショック が大きすぎる。沈黙したままの来訪者が恋人であることを願って、 は恐る恐るドアを開けた。 途端、いきなり視界いっぱいに白い野花の花束を押し付けられて、 は慌ててそれを両腕で受け取った。小さな百合のような花がいくつ も咲いている初めて見る花だった。驚きながら花の向こうに目をやると、ラーハルトがばつの悪そうな表情で腕を組んでそっぽを向いて立って いた。花と不愛想な恋人の顔を交互に見て は慎重に声をかける。 「あ、の……これ…………」 腕の中で咲き乱れる花からは自分が使っている香油とよく似た香りがする。嫌われてないはず、という思いが の胸の中に湧き上がっ た。嫌っている相手に花なんて贈るような器用な事などラーハルトにはできない。だからこれは仲直りの為にわざわざ用意してくれたのだと 思っていいはずだ。しかし万一お別れだとしたら、という懸念も無くは無い。けれど の不安は、仏頂面で答えた恋人の台詞で消えた。 「――ハズレに惚れるわけがあるか」 「……!!!」 不機嫌そうな声ではあったが、恋人がくれた言葉で の胸の中は一瞬で喜びに満ちた。ハズレには惚れない、じゃあ、つまりそれって、 アタリってことだよね。その言葉だけで良かったのに花までこんなに沢山摘んできてくれるなんて。しかもこの花、私と同じ香りがする。ねえ これってそういう事でいいんでしょ、私と私の香りを一番にしてくれてるってことでいいんだよね? 色々な想いが彼女の喉で絡まって、高鳴る鼓動と湧き上がる衝動を抑えきれず、 は花を片手で落とさないようにしっかり持つと、腕を 組んだままのラーハルトに体当たりのように抱きついた。格好をつけてみっともないところを見せまいとしていたラーハルトは勢いのついた の身体を受け止め、文句に偽装した照れ隠しを口にする。 「っおい!」 「ごめん。ついムキになって、子供っぽいことしちゃった」 驚くほどすんなりと謝罪を口にした恋人に、ラーハルトはフンと鼻を鳴らし、満更でもない様子を隠しながら彼女の頭を乱暴に撫でた。これで 形としては先に折れたのは ということになる。 は既にラーハルトから謝罪を貰おうなどと言う気もなく、ラーハルトもこれで 手打ちだと言わんばかりにさっさと身体を離して勝手知ったるとばかりに の家に入る。 「もういい。腹が減った、何か作れ」 「あっ、うん!待っててね、お花生けたらすぐに作るから!」 ぶっきらぼうな恋人の亭主関白さながらの台詞にすら嬉しそうに答えて、 は花を抱えてラーハルトに続いて家に入る。彼女が花を生け るために適当な大きさの瓶を見繕って抱えて、水を汲みに行こうと踵を返した時、伸びてきた手が瓶をひょいと取り上げた。 「あ、」 「オレが行く」 それだけ言い残して瓶を持って大股で外に出て行ったラーハルトの顔はいつもより色が濃い。もしかして、いや、もしかしなくてもあれは照れ ているのか。何も知らない人が見たら怖がられてもおかしくない、一見すると機嫌の悪そうな彼の様子が不思議と可笑しくて、 は吹き 出しそうになったのを慌てて堪えた。照れ隠しの口実に水を汲みに行くなんて子供みたい、でも口にしたら彼はまた機嫌を損ねるだろうな、と 的確な予想をする。 裏手から微かに聞こえた舌打ちが意地っ張りの彼らしくて可愛らしくて、 は腕の中の花の香りを深く吸い込み、テーブルに花を置いて 食事の支度を始めた。水を満たした重い瓶を持たせないようにしてくれたのだと気付いてからは、一層愛情を込めて。 White Bouquet |