が元の世界に戻ってから、二日が経った。
目を開けたら愛しい男が居る、などという甘いシチュエーションは最早過去の夢でしかなく、一人分の温度しかないベッドの上で、はぼんやりとペンダントを見つめていた。

「…リュウガさん」

もう、会えないのだろうか。
そんな絶望的な言葉を思い浮かべては、は何度も頭を振った。

(そんなの、やだ)

(初めて大好きな人ができたのに)

(このままお別れなんかしたくない)

「…やだ…」

いっそ夢であれば諦めもつくかもしれない。
けれど手のひらから感じる冷たい温度が、それを否定する。
あれは夢なんかじゃない。
本当に自身が、今いる世界ではない別の場所で体験したことなのだ。

(でも、もしそうなら)

(あれは一体何処で起きたことなんだろう)

核で滅んだ場所なんて、チェルノブイリくらいしか思い当たらない。
しかし、あれはが生まれる以前に起きた事件で、しかも原因は原子力発電所の事故だ。
それにあそこは今も放射性物質が残っていて、立ち入ることなんてできない。
あんな荒野を、は生まれてから一度も見たことがなかった。
アメリカやアフリカなども色々な事情で一通り回ったことがあったが、明らかに発達した現代の文明が一度破壊されている場所は見たことも聞いたこともない。
そして、消えた傷のこと。
傷跡が薄くなっていたのなら理解できるが、傷そのものが消えてなくなるなんてことが有り得るのだろうか。
まるで初めから傷一つなかった肌のように元に戻るなんてことがあるのだろうか。

「…ペンダントが無くなってたら、夢で説明がつく…、けど」

リュウガと一つずつ持つことにしたペンダントは、実際にの手の中にある。
握った拳を開いても、確かに存在するのだ。
幻覚だとしても、友達に見えていたのだからそれは無い。
この、"夢の世界と仮定する場所"で手に入れたペンダントは、間違いなく存在している。
だとすれば。

「……平行世界…なのかな」

今生きている世界の他にも、無数の世界があるとか言う話を聞いたことがある。
理論的には可能であるし、ただの空想じみた説ではないことはも知っている。

「んむむ……うえええええ…?」
ー!ちょっと降りてらっしゃい!」

が悶々と頭を抱えて考え込んでいると、母親がを呼んだ。
仕方なく降りていくと、母親はにっこりと笑ってをリビングに手招きした。

「ん…何?」
「お話があるのよ。座りなさい」
「う、うん」

有無を言わさぬ高圧的な言い方をされて、はびくりと身を竦ませた。
母親は、幼い頃からを教育することに情熱をかけてきた。
ピアノをやらせて、才能があるといわれたらパリに。
知能指数のテストで、数値が高かったからといってはアメリカに飛び級させた。
その母親が、はどうも苦手だった。
嫌いなのではない。
ただ、怖いのだ。
暴力を振るわれるわけではない。
けれど、母親の威圧的な態度が精神的に重く圧し掛かってくるのだった。

「…何、かな」

リビングのソファで、向き合う形で座ると、母親は言った。

。あなた、マサチューセッツ大学の院に入る気は無い?」
「え…な、なんで」
「ふふ、実はね…」

母親の話はこうだった。
が以前世話になった教授が先日電話をかけてきて、奨学金を出すから院に入らないかと誘ってきたのだそうだ。

「先方はのこと、とっても気に入ってくださってるのよ。どうせ高校なんて形だけで通っているみたいなものだし、どう?。冬からでも行ってきたら?」
「で、でも…私、こっちの学校好きだし…」
「好き嫌いを聞いてるんじゃないの。あなたの為を思って言ってるのよ」
「そ、それは、嬉しい、けど」
「大体、あなたから勉強を取ったらピアノくらいしか残らないでしょ。それもプロにはなれなかった中途半端な腕前じゃないの。そんなので社会に出て行けると思ってるの?」
「でも、」
「運動神経も無いし、ぽーっとしてるし。あなたが評価されるのは勉学の道だけなのよ。高校のほうには明日にでも話をつけてくるから、あなたは冬休みまでに向こうから論文を取り寄せて、鈍った頭を働かせておきなさい」
「……!」
「いいわね、

反論する余地も与えない母親の言葉に、はぎゅっと膝を掴んで俯いた。
母親はいつもこうだ。
自分が思う方向にを連れて行こうとする。
の意見は聞かない。
自分が正しいと信じているからだ。

どうしてこんなに勝手に、娘の道を決めてしまうのだろう。
はそれが重くて仕方がなかった。

「返事は?」
「う……わ、わたし」
「いいわよね」

ちらりと母親の顔を見ると、なかなか首を縦に振らない自分に苛つき始めたのか、先ほどの笑みは消えていた。
このままだと怒られる。
けれど、譲りたくなかった。

「………や、」
「返事をしなさい!」
「っ!ぅ……や、やだ、よ!」

思わず口をついて出た言葉に、がはっとして母親を見ると、恐ろしい形相でを睨む母親が目に映った。

「…なんですって?」
「あ、」
「なにが嫌なの?もう一度言ってみなさい」
「…あ、あの…、」
「母さんに口答えするなんて、なんて馬鹿な子なのかしら…晩御飯は抜きよ。どこかで一人で食べてらっしゃい」
「…ッ…はい」

母親の射殺さんばかりの眼光に怯えながら、はよろよろと立ち上がって、部屋に戻った。
そして適当に服を着替え、おもむろに旅行用のボストンバッグを引っ張り出して、制服と何着かの着替えを詰め込んだ。
それから小さめのバッグに財布と携帯電話を入れると、首にペンダントをしっかり掛けて、母親が台所で背を向けているうちに逃げるように家を飛び出した。

あの世界に"行った"時は早く帰りたいと思っていた。
一番最初に会った彼は当時は怖い人だったし、周りはいつも殺し合いばかりで、もその手を血に染めた。
けれど、帰ってきたって幸せを感じられるわけじゃなかった。

(もう、やだ)

こんな世界に戻ってきても、苦しいだけだ。
母親が嫌いなわけじゃない。
この世界を憎んでいるわけじゃない。
"向こう"の人々の生活を見てきたのだ、そんな贅沢なことは言えない。
けれど、ただ、悲しかった。

母親はどうせ、外食に行ったとしか思っていないだろう。
薄闇に包まれかけた道を走りながら、は昔を思い出した。

『ねえ、あの子結構上手いわね』

『そうねえ。でも、ピアノって顔じゃないよね』

『あはは、言えてる言えてる』

『なんでパリになんか来たんだか』

『似合わないわよねぇ』


(そんなの知ってるよ)


『何だあのガキ』

『ほら、この間話しただろ。飛び級の子だよ』

『あーあ、あれか。ジャップのガキが、調子こいてんじゃねーよ』

『やめろよ聞こえるぞ』

『どーせ意味なんかわかっちゃいないさ。スラングで喋ってやろうぜ』

『それもそうだな、ははっ』


(私だって、来たくて来たんじゃない)


『勉強くらいしか取り得が無いくせに』

『口答えするなんて』

(たすけて、)

(誰か助けて)



―――


―――愛している。


「助けて、リュウガさん…!!」


悲鳴にも似た嘆きは、暗い路地に吸い込まれて、誰にも拾われること無く消えた。



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