昼間は血の匂いの中に居たというのに、日が暮れて夜になれば風は穏やかで涼しい。 かろうじて一命は取り留めたものの、その拳で数知れない人々を傷つけトキまでも襲撃したリュウガを、治療のためとはいえ受け入れてくれる村など無いことは火を見るより明らかだ。 それから今まで、は付っきりでリュウガの看病に勤しんでいる。 「。リュウガならば大丈夫だ」 いくら休むように言っても頑として聞かないに、ケンシロウは小さく溜息をつき無言で部屋を出た。 「…さん…」 居た堪れなくなって、部屋に残ったリンはに声をかけた。 「…………リンちゃん。好きな人、居ますか?」 いきなり何を言い出すのだろうとリンが怪訝な顔をすると、がぽつり、ぽつりと話し出した。 「…この人ね、私の一番大事な人なんです。だから死んで欲しくなかった。…何が何でも」 静かに胸の裡を明かすの声を、リンは黙って聞いた。 「でも…この人は命を捨てる覚悟をしていました。私が一番嫌なことを、たくさん悩んで心を決めてた。 そんなこと無い、と言おうとして、リンは俯いた。 「ねぇリンちゃん」 弱弱しい声で問いかけてきたの声に、リンは初めての心に触れた気がした。 「大丈夫よ。さん、こんなにこの人を想っているんだもの」 リンはがにっこりと微笑むのを見ると、おやすみなさい、と言って部屋を出た。 「リュウガさんの寝顔を見るの、久しぶりです。…少し…痩せましたね」 答えを返す者など知っていて、夜の空気を縫うような声で囁く。 「私ね、お料理、ちょっと上手くなったんです。前みたいに食べたらお腹壊しちゃうようなのじゃなくて、ちゃんと食べられるご飯、作れるようになりました。リュウガさんが起きたら、ちゃんとおいしいって言ってもらえるように、気合入れて作りますね。きっとびっくりしますよ。ぎゃふんと言わせてみせます」 気合を入れて中毒を起こすつもりかお前は。いい度胸だ、全く。 そんな答えを待ち望む自分をどこかで哂う。 「それとね、髪も少し伸びました。あ、それはもう気づいてましたね。リュウガさん、結構よく見てるから。 言葉を続けていたいのだ。 「…話したいこと、いっぱいあるんです。きっと、一日じゃ全部話しきれないくらい」 今にも閉じられた瞼が開いて――
瓦礫が散らばる城の中、運良く崩壊されることがなかった部屋の一室で、は水で濡らした布を絞った。
暗い部屋に松明の火を灯し、ベッドに寝かせたリュウガの傍らではひたすらに彼の血や汗を拭った。
ならば下手に動かすより、物資が揃っている城で手当てをしたほうがいいと判断したのはだった。
ケンシロウもそれに同意し、意識を失った彼を静かで清潔な部屋に運んだのだ。
ベッドに横たわり眠る男を見つめるの瞳は真剣そのもので、彼女の様子を見ていたケンシロウとリンは全く休もうとしない彼女を見兼ねて肩を落とした。
「…」
「看病なら交代ですればいいでしょう?さん」
「………」
「休んだほうがいい。リンもバットも心配している」
「大丈夫…気にしないでください」
言っても無駄だと言うことを早々に理解したのである。
彼女は何時倒れてもおかしくないほど疲労困憊し憔悴しきっている。
その証拠にの目の下にはうっすらとクマができ、席を立つ度に足元がふらついている。
こんな状態で徹夜になるかもしれない看病を続けるのは無謀なのだ。
しかし言い辛くてリンがおろおろとの顔色を伺っていると、不意にが口を開いた。
「え?」
なのに私は物分りのいい子じゃないから…我侭をいっぱい言って、傷つけて…怪我させちゃった。
きっと怒ってます」
夜の闇の中、松明に照らされたの眼があまりにも辛そうで、何を言っても傷つけてしまいそうなほどに脆く感じたからだ。
黙り込んだリンには尋ねた。
「?」
「わたし…仲直りできるかな…?」
「さん…」
彼女はいつも明るい人だと思っていたが、こんな風に弱くて儚い所を見せることもあるのだ。
いつも強いわけではない。
リンはの手をそっと握ると、を見上げて言った。
「…」
「わたし、もう行くけど…あまり無理はしないで。わたしだってさんが心配だから…」
「…うん…。ありがとうございます」
今はただ、彼女が大切に思う男が早く目覚めることを祈って。
*
深く眠る男の傍らで、は椅子に腰掛けてひたすら看病を続けた。
食事をと声をかけてくれたリンに首を横に振ったのは何時間前だっただろうか。
気遣わしげに扉から顔を覗かせるバットに気づかぬ振りをしたのは少し前だったか。
誰にも代わりなどさせたくなかった。
ここにいるのは自分だけで良い。
独占欲に似た感情がいつもの自分をかき乱す。
それを誤魔化し取り繕うつもりも無い。
息をして彼が眠っている。
それだけでもこの空間を独り占めするには十分な動機になった。
少なくとも、今のには。
何を言っているんだか。
意識不明の人にこんなこと言ったって、何も返ってきやしないのに。
ああ、でも、知っているけれど、わかっているけれど。
あと、背は…あんまり伸びてなくて…ほんとは髪よりも背のほうをもっと伸ばしたいんですけど、なかなか伸びなくて…」
話しかけていたら、今にも目を覚ましてくれるような気がして。
「だから…リュウガさん」
名前を、呼んでくれる気がして。
「…起きて…くれますよね………?」
祈りにも似た静かな嘆きは、満天の星空に溶けて消えた。
銀の月が輝いている。
静かな夜の廊下で北斗の男だけが優しく強く臆病な娘の切ない呟きを拾っていた。