“愛を妨げるものは何もない。 (…何故…) ふと手の甲の温もりに気づいて仰向けのままで視線を移すと、寝台に突っ伏して毛布もかけずに眠っているが映った。 (こいつはどこまで…) 彼女の左手には、握られたままのタオルがあった。 「…ぅん……………………」 の視線が緩やかに横たわっているリュウガの胸元から上に向けて移動する。 「…リュ」 リュウガさん、と名を呼ぼうとしたの頬をリュウガは何故か反射的に、 「いひゃいいひゃいいひゃーいぃぃ!(痛い痛い痛ーい!)」 (やはり…夢ではない) 「にゃにひゅるんれひゅはぁー!!(何するんですかぁー!!)」 一方、目を覚ますなり突然頬を抓られたは目を白黒させて喚いた。 「ひゃめへふひゃひゃ、へぶ!」 存分にの頬を抓ったリュウガは、よく伸びた彼女の頬の感触を確かめるように自分の指を見つめ呟いた。 「なっ何で私で確認するんですかぁ!」 ついって。 「…と、とにかく、目を覚ましてくれて良かったです」 「……トキは…どうなった…」 溜息交じりのリュウガの質問を耳にして、は言葉に詰まった。 「…トキさんは………」 リュウガが倒れた瞬間最悪の事態を予想して青褪めたは、彼の背後から伸びた逞しい腕とその指先を視認し、恐る恐る顔を上げた。 「…トキ…さん…?」 意識を失ったリュウガの後ろに震える足で立っていたのは、彼に傷つけられ血を流すトキだった。 「トキ…その傷は…!」 焦ってトキに駆け寄ったケンシロウは、トキの微笑みに言葉を呑んだ。 「それに、私とて己の命一つで世を平和に導けるのならば、本望だった」 トキはケンシロウにゆっくりと今回の事の経緯を話すと、気を失ったリュウガを不安げに見つめるに言った。 「、心配はいらん。血止めの秘孔を突いた…意識が無いのは、私が仕返しをしたからだ」 ケンシロウの腕に支えられ、苦しげに息をつきながらも冗談交じりに話すトキの眼は、これ以上リュウガとケンシロウが戦う必要が無い事を物語っていた。 「ケンシロウ…」 トキはゆっくりとに手を伸ばすと、涙で濡れた頬をそっと拭い、優しい笑みを浮かべた。 「……!」 トキの微笑みの美しさに、はぎゅっと唇を噛んだ。 これは。 涙声で頷いたを見て、トキは満足そうに小さく笑い、最後の祝福の言葉を紡いだ。 「…幸せに」 それ以上は言葉にならず、は溢れ出す涙を手の甲で拭って声を殺して泣いた。 「ケンシロウ」 徐々に浅くなり始めたトキの呼吸を聞きながら、ケンシロウはトキの言葉を心の中で反芻した。 呟いて、リュウガはシーツの上の拳を強く握った。 「…そうか」 繰り返し言い聞かせるように呟いて爪が食い込むまで拳を握るリュウガの手を、の掌が不意に覆った。 短い沈黙が落ちた後、がおもむろに口を開いた。 「リュウガさん、あの…」 リュウガが顔を上げると、は物言いたげな目をしながらも笑顔を見せた。 「ちょっと、お水を取り替えてきますね!」 呼び止めようと手を伸ばしたリュウガに背を向けて、は颯爽と部屋を出て行った。 は負い目を感じているのだろう。 「…盗み聞きとは悪趣味だな」 リュウガの言葉に、声を掛けられた人物――ケンシロウは気まずそうな表情で姿を現した。 「…すまん」 短い沈黙の後、先に口を開いたのはケンシロウだった。 「…傷は?」 ケンシロウの答えに、リュウガは納得した。 しかしトキの温情を受けたからといって、簡単に赦されて良いはずが無い。 「ケンシロウ」 「トキを殺したのは俺だ」と言外に匂わせたリュウガを、ケンシロウは静かな哀しみに満ちた瞳で見つめた。 「トキは全て承知の上だった。お前もそのはずだ。ならば俺がお前を憎む道理はない」 ケンシロウの短い答えに、リュウガは長い溜息をついて苦笑した。 「…全く、敵わんな」
愛は戸口もかんぬきも知らず、すべてのものの中を貫いて通る。
愛にはじめなく、永久にはばたきを続ける”
マッティアス=クラウディウス 「詩」より
頬を撫でた風の冷たさにリュウガはゆるりと瞼を持ち上げた。
生きている。
止まっていた思考が働き始めると、今までの出来事が瞬く間に脳裏に蘇った。
記憶はを前にした後でふつりと途切れている。
おそらくあの後、意識を失ったのだ。
それから手当てを受けたのだろう。
これ夢であれば、腹部に感じるじくじくした痛みなどないはずだ。
天井の模様が自分の居城のものであるところを見ると、場所は移動せず城のどこかの部屋に寝かされているらしい。
右手に感じた温もりはが重ねていた手だった。
ずっと自分についていたのだろうか。
酷い仕打ちを受けたと言うのに。
どうやら彼女は看病をしている途中で眠ってしまったようだ。
僅かにのぞく目元には隈ができている。
疲れが溜まっているのだろう。
傷の痛みを堪えて左手を動かし、眠っているの頭を撫でると、寝息を立てていたはもぞもぞと身を捩り、ゆっくりと顔を上げた。
そして意識を取り戻したリュウガが自分を見ている事に気づくと、の目が大きく開かれた。
「んぎゃん!?」
抓った。
(…柔らかい)
何もしていないのに抓られるなんて。
意味がわからない。
「…現実か」
傍らで頬を押さえて涙目になっているにとっては良い迷惑である。
「つい」
「うぅー…」
他人の頬で確認しないで欲しい。
しかも起き抜けに。
ともすれば感動のワンシーンだったのに、台無しだ。
リュウガが目を覚ましたことを喜ぶタイミングを逃したは、嬉しいやら痛いやらで複雑な表情をリュウガに向けた。
対して、リュウガはまるで観察するかのようにをじっと見つめた。
視線の意味を理解できないは、居た堪れなくなりそわそわと目を泳がせる。
「…」
「えっと…タオル…替えましょうか?」
の問い掛けには答えず、リュウガは睫を伏せて尋ねた。
トキは死んだ。
リュウガも想像はついているはずだ。
それに、ベッドの上で伏目がちに答えを待つ男の攻撃がトキの死を早めた事はも良く理解している。
だからこそ言葉にするのが辛いのだ。
の答えは、彼の心を傷つける。
膝の上で両手の拳を握って緊張気味に姿勢を正したを、リュウガはじっと待った。
「…」
「………あの後、すぐに…亡くなりました」
*
「…間一髪、だな…」
トキはに微笑みかけると、辛そうに膝をついた。
胸に走った深い傷と血の痕に、ケンシロウが思わず目を見開く。
「何も言うな。この男なりに、悩み抜いての行動だったのだろう…」
酷い傷を受けてはいるものの、トキはリュウガを恨んでいる様子は全く無い。
胸に走った裂傷の深さに眉を顰めた弟に、トキは静かに告げた。
「ではリュウガは…」
「ああ…この男はあえて魔狼となり、ラオウの覇業のため、そして北斗を戦場に導くために宿命を全うしようとしたのだ…腹を切るほどの覚悟でな」
「…なぜ、そこまで」
「この男はユリアの兄…思うところがあったのだろう…」
「…!」
「仕返し…?」
「女性を泣かせる男は、一度痛い目を合うくらいでいい。そうだろう…?」
しかし、その眼も徐々に、だが確かに、輝きを失っていく。
「トキ!あまり喋っては」
「いいのだ。リュウガに襲撃されなくとも、あと数日も持つかどうかわからなかった…」
「でも、トキさん私、っ」
「…」
「君のせいではない」
「…ッ、…!」
悟る。
―――死に向かう人の微笑だ。
「リュウガには、私の分も生きろと伝えて欲しい」
「……はい…!」
「あ…ありがとう…ございます…!」
彼もまた、逝ってしまう。
ゆるゆると首を動かし、トキはケンシロウに語りかけた。
「うむ」
「哀しみを怒りに変えて生きよ。この悲劇を…繰り返してはならぬ」
リュウガを赦す事、そして世を平和に導く事。
それがトキの願いだ。
尊敬する兄の最期の願いを、ケンシロウは何も言わず、ただ飲み込んで力強く頷いた。
弟が自分の意思を受け取ってくれたことを確認し、トキは緩やかに目を閉じた。
「…トキ」
ケンシロウが名を呼ぶ。
しかしトキがその声に応える事はない。
「ッ……!トキ、さ…!!」
「………」
星が煌く静かな夜、北斗の次兄・トキは、穏やかにその生涯を終えた。
全てを己の弟に託して、彼は逝ったのだ。
老いも病も無き天へ―――。
*
「…最後まで優しくて…穏やかな顔を、されていました」
「…そうか」
宿命のためとはいえ、リュウガも本心では昔から見知っていたトキに手をかけたくはなかった。
だがあの時は自分も死を覚悟していた故に、どこか割り切れていた。
しかし、今は違う。
自分は生き延びてしまった。
リュウガの体にこれ以上傷が増えるのを見たくなかった。
辛そうに視線を落とすを見て、リュウガは拳の力を抜いた。
黙って彼女の掌の温もりを感じていると、ささくれだらけの心が穏やかになる気がした。
「…」
その笑顔が彼女の偽の「完璧な笑顔」だと言う事にリュウガはすぐに気づいたが、は有無を言わさぬ仮面でそれを跳ね除ける。
水を張った洗面器を抱えてリュウガが口を開く前に椅子から立ち上がると、は元気よく笑って見せた。
「お前、」
「リュウガさんは目を覚ましたばっかりなんですから、動いちゃだめですよ?すぐ戻ってきますから」
部屋を出たの残像を思い出し、リュウガは悔しそうに眉を顰めた。
あの目は、自分が悪いと思って謝ろうとしている時のものだ。
長いとは言えないが、互いを知るには十分な時間を過ごしたリュウガにとって、の態度は読み安すぎる。
明るい笑顔と後姿が余計に痛々しいという事に、彼女は気づいていない。
深い溜息をついて眉間を押さえ、リュウガは部屋の外に声をかけた。
「謝る必要は無い。聞く気はなかったのだろう」
「……通りがかったら、話し声が聞こえた」
「そうか」
「多少痛むが、動けぬほどでは無さそうだ。…トキが、これを?」
「ああ。果てる前に、貴方の秘孔を」
「…そうか」
トキはあの時、自分との関係を知ってしまった。
拳法家としての使命を果たさなければならない自分の想いは彼とて重々承知していたのだろうが、最後まで追いかけてきたの想いも蔑ろにはできなかったのだろう。
あの男も穏やかな気性で、争いごとや女の涙を好まない性質だった。
トキの死を導いたのはリュウガなのだ。
「何だ」
「…恨まぬのか」
そして、目を伏せリュウガの質問に答えた。
「…それでいいのか」
「済んだことだ」
← →