静かな住宅街にパンプスのヒールがコツコツと音を立てている。
時刻は夜10時半。

その日の私はダメだった。忙しいのに茶を入れろと上司にいびられ、「若い子は笑えば許して貰えるからいいわね〜 さん」と お局さんに嫌味をきかれ、うっせークソババアこないだ書類直してやったのに、とイライラしていたら帰りの駅の階段で 足を踏み外して転んだ挙句、はずみでバッグの取っ手が壊れて、ここ数か月で一番むしゃくしゃしていた。

だからなのだ。

私の片手に、10個もおにぎりの入ったビニール袋がぶら下っているのは。

「……やらかした。」

むしゃくしゃしていた上に、仕事帰りの空腹も相まって爆買いしてしまった。一人暮らしでこんなにおにぎりを買っても、冷蔵庫に入れた ところで米が乾燥して美味しくないおにぎりを量産するだけだ。今日食べきれるのはせいぜい3つ、明日の朝に頑張って2つ食べて、 保冷剤で腐らないようにしてお昼にも3つ食べるとしてそれで8個、残り2個をどうすればいいのか。ちなみにおにぎりの消費期限は明日の昼だ。 ダメになって捨てるのはもったいない、かといって一人で食べきれない。

帰路の途中で足を止めて、ビニールの中をのぞき込む。おかかに野沢菜2個に明太子に梅2個に鮭にツナマヨにチャーシュー、わかめ。 どう考えても買いすぎだ。全部美味しそうだけど、絶対に食べきれない。食欲以上にストレスを発散するためにやってしまった。 途方に暮れて溜息をついた時、ふと狭い路地裏に人の足らしきものが見えた。

足は動かない。誰か倒れているんだろうか。一体何事かと思って近づいてみると、切れかけた蛍光灯に照らされた長い足が見えた。 暗い路地を目を凝らして覗き込むと、男がぐったりとした様子で倒れている。酔っ払いか、危ない人か、ヤの人だろうかと思って 一瞬見ない振りをしようかと思ったものの、これで明日ここで死体が発見されたとかニュースになったら気分が悪い。 意を決して、倒れている人に声をかけてみる。

「あの……大丈夫ですか……?」

恐る恐る声を出すと、男の足がぴくりと動いた。生きてはいるようだ。男は身体をゆっくりと起して、地面に座った状態でこちらを 振り向いた。綺麗な銀髪の若い男で、相当なイケメンだが、その頭についているものを目にして思考が止まる。

猫耳。

「……へ?」

思わず変な声が出た。だって猫耳。え、猫耳?いい歳の男が猫耳?似合うけど…この人すごいイケメンだから似合うんだけど、え、猫耳? 何この人 やっぱ頭おかしい系だった?

猫耳の青年は無言で私の顔をじっと見つめていて、眠そうに目をぱちぱちと瞬かせた。本当に、猫みたいな仕草だ。 どう声をかけるべきか迷って固まったままでいると、青年はすん、と鼻をひくひくさせて、私の手にぶら下がっているビニール袋に 顔を寄せてきた。

「わ、わ」

なんだこいつ、もしかしておにぎりの匂いを嗅ぎつけたのか。猫耳のイケメンはこちらをじっと見て、立ち上がると中腰で少し後ろに 下がった。その腰から伸びている、これまた綺麗な銀の長い尻尾を見つけて、私は絶句した。マジか。この男尻尾までついてやがる。 なんて怪しげなイケメンなんだ。

猫耳男子はこちらに害を加えてはこない様子で、じっとおにぎりの袋を見ているだけである。その様子を目にして、 ふと一つの案が思い浮かんだ。 こいつ、おにぎり食べたいんじゃないの?あげちゃうか?どうせ食べきれないんだし。

「……よし」

おそらく私は疲れ切っていたのだろう。普段の自分ならば、こんな怪しげな男に飯を恵んだりはしない。けれど今日は疲れている上に、 消費期限の近いおにぎりを爆買いしている。どうにか消費しなければ私のお金とお米が無駄になる。食べ物は粗末にしてはいけないと 小さい頃に教わったのだ。あげちゃえ。

ビニール袋に手を突っ込んで、おかかと鮭、そしてチャーシューのおにぎりを取り出して、透明なラップで巻かれたそれらをそっと 地面に置いてみる。

「これ……食べる?」

猫に呼びかけるように、優しめの声で話しかけて、ちっちっ、と舌で音を出す。まるっきり猫扱いしている自分は傍から見たら 相当おかしいのだろうけど、こんな時間では誰も気にしないだろう。構わずに猫耳男子の様子を伺っていると、しばらくおにぎりと 私を警戒するように見つめていた彼は、ゆっくりと近づいてきて、おにぎりに鼻を近づけ、くんくんと匂いを嗅いでいる。 本当にまるっきり猫だこいつ。なりきりプレイ的なアレなのかな。イケメンだからもういいや。私も相当疲れている。

猫耳くんはしばらく匂いを嗅ぐと、おにぎりを手にし、ラップを解いて食べ始めた。食べた。食べ方は普通に人間だ。 そりゃあ流石に地面に置いて食べるような事は無いよね。イケメンは地面に正座の状態で、尻尾をゆらゆらとさせながら両手で おにぎりを持ってもぐもぐと食べている。シュールなんだけど、妙に可愛い。

「おいしい?」

青年は無反応で、おにぎりをあっという間に3つ平らげた。そして、私の顔をしばらく見つめてから、再び立ち上がって路地裏の闇 に消えていった。銀色の長い尻尾が路地裏に消えるのを見届けて、不思議なものと出会ってしまったと強く感じた。 だって猫耳のイケメンって。気づけば時計は既に23時を指しており、早く帰って食事を済ませてお風呂に入らなければと焦る。 猫耳の彼がどこに消えたのかなどを考える事は無く、家路を急ぐ。

何の変哲もない静かな夜のこと。
これが私と彼の、奇妙奇天烈な出会いだった。