「……なんか違う……」

猫耳男子ならぬヒュンケルが私の前から姿を消してから、あっという間に一年が経過した。
あの後すぐに、いつも彼がいる路地裏に走ったけれど、ヒュンケルが座っていた段ボールはキレイに消えていた。 まるで彼自身が、最初から存在しなかったかのように。

“これ以上は一緒に居られない”

ヒュンケルが口にしたのは別れの言葉だった。何がどうなって猫耳なんだとか、 何で猫が人間になるんだとか、そんなこと本当はどうでも良かった。 いい年の男が猫耳と尻尾なんてものを素で引っ付けているのに、妙に違和感が無かったこともどうでもいい。 あの綺麗な銀猫の傍に居るだけで、なんだかほっとした。彼の存在に癒されていた。

母親からの強引な見合い話が精神的に辛くて沈んだ時、彼は猫の姿になって静かに寄り添ってくれた。
通り魔に襲われた時は、身体を張って助けてくれた。
出会ってからずっと私を癒してくれる存在だった。
だけど彼は何か事情があって、もう会えないと言っていなくなった。

猫が急に姿を消すなんてのはよくあることだし、そもそも見た目からして訳ありなのは明白だったんだ。
きっと彼にも事情があるに違いない。

そうして、もやもやした気持ちを誤魔化そうとして猫カフェに訪れてみたりもしたけれど、どうもしっくりこない。

違う。猫カフェの猫に癒されたいんじゃない。いや猫に癒されるのはいいんだけど、って言うか肉球ぷにぷにで可愛いからこれはこれでいいん だけど、私が癒されたいのはヒュンケルであって普通の猫じゃない。

けれどかれこれ一年経ってしまい、未だにこうしてヒュンケルの姿を目で追いかけている自分が情けなくもある。
もやもやを誤魔化すどころか倍増させてしまって、やりきれない気分のまま外に出た。
今日の天気は快晴、強い日差しが眩しい。
街へ出てフラフラとウィンドウショッピングをして居たところで、側溝に足を引っ掛けてしまい、ヒールが折れた。

「最悪……!」

私の不運はどこまで絶好調なんだ。
不運を司る神様が居るなら言ってやりたい、いい仕事してますねと。

「――大丈夫ですか?」

どこまでも運の無い私だが、どうやら神様は私を見捨てるまでには至らなかったらしい。誰かが手を差し伸べてくれた。
顔を上げてお礼を言おうとして、言葉が出てこなくなった。

「……!?」

目の前で手を差し伸べてくれているのは、通りすがりのサラリーマンでもなければ、心優しいジェントルマンでも、主婦でも、高校生でもな かった。
さらさらふわふわの銀髪と、印象的な深い穏やかな声の青年。
ただし、その頭には猫耳がなく、後ろに尻尾もついていない。

「……ヒュン、ケル……?」

なんで。
どうして。
どうやって。
質問は山ほどあるのに、声にも言葉にもなってくれない。

「な、なん、で」
「押し通したんだ」

ヒュンケルは蹲ったままの私の手を引っ張って立たせると、手を握ったまま微かに笑みを浮かべて続けた。

「人間のルールを勉強して覚えた。それで、守りたい人がいると言って無理矢理押し通したら、通った。だから――」

長い指が、私の頬にかかった髪をそっとなぞって除けた。



「オレを傍に置いてくれないか。ずっと を守りたい」


「……!」


の隣が、一番いいんだ」




考えてみて欲しい。
通り過ぎる女の子たちが次々に振り向くような素敵な男性に手を握られて、囁くような声で傍においてくれと、守りたいと願われたら、果たし てノーと言える独身女性(彼氏無し)が、一体どれほどこの世にいるだろうか。
想いの籠った瞳で見つめられて、君の隣が一番いいのだと蕩けるようなテノールで告げられて、駄目ですなんて断れる独身女性(彼氏無し) が、何人いるというのか。
100%とは言わないまでも、80〜90%はイエスと言うだろう。
否、言わないはずがない。


「っ……殺し文句まで覚えてきたの……!?」
「……?よくわからない、今の単語の意味は……」
「あ、いやあの、わ、わすれて」
「!駄目……なのか……?」
「違うの!駄目なわけない、だって私もあんたに……!」


あんたに、傍に居て欲しい。


それだけの言葉を告げるのに、心臓が鳴りやまない。
ようやくわかった。

私は、この綺麗な銀猫に、恋をしていたんだと。


「…… ?」

自覚した途端顔が熱くなって俯いた私の頭に彼の手が触れる。
初めて彼に頭を撫でられた、そのことが不思議なほど嬉しい。いつも、私が撫でる側だったのに。

。家に帰ろう、靴が壊れている」
「あ、」

ヒュンケルはそういうと、ひょいを壊れた靴を拾い上げて私に持たせ、何でも無いように私を抱き上げた。
それも、お姫様抱っこで。

「!?!?ちょちょちょ、ちょっと待って!なんで、えっ!?」
「靴が壊れたら歩けない。だから俺が を家に連れて行く。じっとしていてくれ、道はわかるんだ」
「そうじゃなくてこんな格好恥ずかしいって!お、おろして、何とか歩くから!」
「何故だ?俺が怪我をした時、 は同じように抱き上げてくれただろう」
「あれは猫の姿だったから……!」
「変わりない」
「だ、だめ!せめておんぶで、おんぶでお願い!!」

慌ててぎゃあぎゃあと喚いた私に、ヒュンケルは渋々従って、私を広い背に負ぶってくれた。
それだけでも既に恥ずかしいけれど、ヒュンケルは周囲の目など気にする様子はなく、温かい背中に私を背負い、歩き出した。

「あ、あのさ」
「なんだ」
「耳とか、どうしたの」
「隠してる。隠せるようになったから」
「そ、そうなんだ……猫にもなれるの?」
「いつでもなれる」
「へえ……」
「ところで、靴屋に寄った方がいいだろうか」
「あー……ううん、家に帰れば別の靴があるし、これは仕事用じゃないから今度また買いに来るよ」
「食事はどうすればいい?」
「えと、昨日食材買い出しに行ったばっかりだからそれも平気。何か食べたいもの、ある?」

他愛無い会話の中で、ヒュンケルは前を向いたまま答えた。


「おにぎりがいい。 の作った物が、食べたい」


おにぎり。
初めて出会った日、私が爆買いして、二人で食べたもの。


「……いいよ。いっぱい作るね」


胸が熱くなって、ヒュンケルの背中に顔を埋める。
猫の彼が、前を向きながら笑った気がした。

人間なようで人間ではない彼との未来がどうなるかなんてわからない。

けれどきっと、どうにかなるだろう。

だって、綺麗で優しい銀猫の彼が守ってくれるなら、私は何があっても笑顔でいられるだろうから。



END