(ヒュンケル視点)

夜の街を走る。
思い違いでは済まされない。馬鹿はオレだ。 の何を見ていた。彼女はいつでも笑顔だった、その笑顔の裏でどれほど苦悩しようとも、 いつだってそれを隠していた。あの夜も涙を見せることなく去った。しかし彼女も傷つけば涙する。いつも変わらず強い女性だったのではな い。 はただ、弱さを見せないだけだ。

愛した男に見放されて一人になった彼女の心はどれほど深く傷ついていただろう。幸せになってはならないと思い込んで勝手に彼女の心を踏み 躙って逃げたのは、自分が臆病だったからだ。傍に居る事で彼女の夢を壊してしまえば最愛の人にまで憎まれるかもしれない、それを怖がって いた。共に乗り越えようと言ってくれた言葉の意味を理解していなかった。

今ならわかる。 は誰にも涙を見せないために姿を消したのだ。こんな愚かな男に捨てられて惨めに泣く姿を、美しい踊り子は見られた くなかった。誰よりも美しくあろうと自身を磨き続ける彼女が、自分の最も惨めな瞬間を人に見せたいと思うはずがない。ましてやこんな馬鹿 な男に泣かされた涙など。全てオレの心の弱さが招いた事だ。幸せを願って離れたつもりが、身勝手な願望で傷つけてしまった。

。まだロモスにいるのだろうか。手元にキメラの翼は残り一つしかない上に路銀もそろそろ底を付きかけているが、迷っている暇はな い。

まだこんな情けない男でも覚えてくれているなら。

まだ、間に合うのなら。

もう一度あの細い手を、魔法のように優しい料理を作るあの手を、掴むことを許してくれるだろうか。



(夢主視点)


ロモスの舞踊学院の最終日はベンガーナで終わる。この街の舞踊大会に出場して、得た評価で未来が決まるのだ。私が目指しているのは優勝し かない。学院の育成コースでは、今のところ自分と、もう一人の女の子がほとんど互角の評価を得ているらしい。技術は私が勝っているけど、 彼女は17歳と若くあどけないカンジがものすごく可愛らしい。若さも重要な要素としてカウントされる踊り子業界では、私の年齢は本当にギ リギリなのだ。ムカつくことに。

けれど負けない。一年かけて身体に叩き込んだこの世界の踊り。それに加えて、これまでやってきたバレエやコンテンポラリーで培った技術と 不動の体幹。こればっかりは年数と練習回数がものを言う。なんとしても上に行く。優勝以外は負けと変わらない。

踊り子が集まるイベントという事で街の酒場はどこも混んで賑わっていた。可愛い女の子をゲットしたい男が集まっているのだ。顔見知りが多 いこの街では流石に多少の変装が必要で、伊達眼鏡をかけて外に出た。アバンさんみたいで楽しい。

ホットサンドを買いに行くとまた目立ちそうだったので、近くの酒場でパンとチーズとオレンジを買って宿の部屋で食事を済ませた。夕食を 買った酒場の店主はなにやら妙に機嫌が良く、どうしたんですかと聞いたら、ついさっき失恋したっぽい若い兄ちゃんを送り出してやったとい う。世話好きなんだなこの人。実際ベンガーナは意外に人情家が多いのだ。私もそれで、いつの間にかこの街を好きになったんだっけ。

以前はドラゴンを倒したダイを怖がって迫害しようとした人もいたけれど、あれは一方的に彼らを責めるようなことでもない。というより、誰 も悪くないのだ。関わって家族に危害が及んだら、とみな無知ゆえにあの子を怖がってしまった。ダイもまた、強いからこそ、弱い人間の考え 方を知らなかった。魔族に対する差別だって同じ。みんな臆病だから、知らないものを怖がるだけだ。もちろん過剰に相手を攻撃するというこ とがあってはならないのは当然だけど。


食事を終えて一休みしたら、部屋に眼鏡を置いて、半袖のシャツにホットパンツというラフな格好で魔翔脚を履いて外に出る。夜のベンガーナ の街の空中散歩をすると、ヒュンケルとの思い出が蘇る。一緒に歩いた坂道、ホットサンドを食べたときのこと、腕を引かれたあの日の胸の高 鳴り。1年も過ぎた今、ただ傍にいられなかったことを残念だと思う。

きっとお互いにタイミングが悪かったんだ。私は夢を追いたくて、彼は自分自身を見つめる時間が必要だった。今になって考えれば、ずっと人 間社会から隔離されて、自分の生き方すら突然変えなきゃいけなくなった人が、そう簡単に誰かと一緒になれるわけなかったのかもしれない。 気持ちの整理がつくまでに時間がかかるのは当然だ。私だってこの失恋で気持ちが落ち着くまで半年以上もかかってしまったんだから、彼の ペースに合わせるべきだった。

元気にしているかな。ヒュンケルは料理なんかロクに出来ない。時々料理を手伝ってくれたけど野菜の皮剥くくらいしか出来なかったから、適 当な食生活してるんじゃないだろうか。兎獲って焼いたり、魚獲って焼いたり。あいつ直火かスープくらいしか調理法知らないもんな。一つく らい簡単な料理を教えてあげればよかった。私が作るものはいつだっておいしそうに食べていたっけ。

流石にもう私のことは忘れただろう。でもあの恋を後悔してほしくはない。あれはあれで、彼の人生経験の一つになってくれたはずだ。人間と してお互いに成長できたなら、悪くない恋だったと考えるほうがいい。私にとっても、最後まで実らないまま終わる純愛は初めてだったから、 良い経験になった。もちろんラーハルトとの関係もだ。

そう、良い経験。こんな風に強がるから、失恋しても平気そうな女だと思われるんだろうな。
だから逃げられちゃうんだってことくらい、これまでの経験でよくわかっていたはずなのに、つい強がりを言ってしまう。せっかく私を甘やか してくれる人がいたのに、その彼にすら強がりを言ってしまった。これじゃあ嫁の貰い手なんて付きそうにない。地上最強の槍使いまでソデに したんだから、彼以上の人なんかもう見つからないよね。

「……はは。ほんとに、バカだ……」

泣きたくなって、ちょうど1年前にデートに誘った坂の塀の上に座った。今宵は満月だ。月の光のおかげで街の景色がよく見える。青白く照ら された町並みを眺めていると夜風が頬を撫でていく。視界がじわりと滲んで、俯くと涙がぽたぽたと膝に落ちた。

気持ちが落ち着いたなんて嘘だ。寂しくて堪らない。今までこんな事なかったのに、失恋なんて慣れてるはずなのに、どうして忘れられないん だろう。おかげでせっかく私を愛してくれた人が居たのに、ダメになってしまった。諦めなきゃいけないって何度自分に言い聞かせても、カー ルで聞いた言葉が繰り返される。

傍にいて欲しいのは私の方だ。
どこに行っても何をしても、顔も声も何もかも、全部覚えてる。
思い出も消えないし、記憶は今も鮮やか。

ねえどこ行っちゃったの。
あんたも旅に出たんでしょ。
追いかけてきてよ。
私ハイヒールばっかり履いてるから、歩くの辛くてキツいんだよ。
隣で支えてよ。
あんたじゃなきゃ嫌なの。
まだ私を好きなら、私だって、

「……っ、ダメだ、もう行こ……」

ヒュンケルが私を探し出せるはずはない。ベンガーナに来る前にロモスの家は引き払った。舞踊学院の終着点がここだと聞いて、結果がどうあ れ、この街から再スタートしようと考えたからだ。ラーハルトには落ち着く場所が決まったら伝えると手紙で連絡した。

どんなに好きでも会えない。
だからもういい。
もう、いいんだ。

燃え残った恋の残骸は、今夜ここに置いていく。きっといつか涙が出ないようになる。いつか笑顔で再会できる日が来る。月が煌く星空を彼が どこかで見ていればいい。どこに行っても空だけは繋がっているのだから。涙を拭いて立ち上がろうとして、不意に誰かの視線を感じて坂の下 に目を向けた。


月光に照らされた石造りの坂道の下、サラサラとした銀髪を靡かせた若い男が立っていた。



(ヒュンケル視点)


手持ちのキメラの翼は羽根が欠けていて使えなかった。今すぐにでも を探しにロモスに行きたいというのに、今ある路銀だけでは船に すら乗れない。この時刻では道具屋は閉まっている。やり場のない苛立ちを溜息にして吐き出し、再び街に足を向けた。いつもこうだ。肝心な 時に彼女の下に行けない。ようやく自分が成すべきことがわかったのに、何かが行く手を阻むように立ち塞がっている。

「くそっ…!」

まるで見えない壁が出来てしまったようだ。人と人の間に糸が存在するのなら、きっとオレと彼女の間にあった糸は切れてしまったのだろう。 二度と逢えない、理解していたはずの事だった。時間を戻せるならばあの夜に戻って を抱きしめたはずだ。

既に誰か他の男と新しい人生を歩み始めているのではないかと考えなかったわけではない。ラーハルトも を愛していると打ち明けてく れた。しかし今の彼女が誰を愛していようと、あの夜伝えられなかった言葉だけはせめて届けたい。たったそれだけの事すら出来ない事が、こ れほど胸を締め付けるものだとは思わなかった。

夜の街を歩きながら、もう一度だけ彼女と見た街並みを目に焼き付けようと、かつて二人で下った坂道に足を向けた。月明かりに照らされた道 を進んでいくと、誰かが坂の縁の石段に座っているのに気づいた。暗くて顔がよく見えないが、揺らめく長い髪と体格から女性だと解る。

女性はあの日 がいたのと同じ場所に座っていた。背格好が愛しい人によく似ていて、まさか、と淡い期待を抱いた自分を嗤う。彼女は ロモスに居るのだ。想いが振り切りすぎて幻覚を見ているに違いない。だとしたら、叶わない恋の所為でいい加減に頭がおかしくなりかけてい るのかも知れない。しばらく見ていると、女性が立ち上がりこちらに気付いて振り向いた。


月光に照らされて立っていたのは、恋焦がれ続けた愛しい女。


……」


思わず名を呼ぶと、彼女もまた驚きに目を見開いて呟いた。


「……ヒュンケル?」




ロモスにいるはずだ。

これは幻なのだろうか。

カールの時のように、夢現の出来事なのか。



弾かれたように坂道を駆け上がり、手を伸ばして勢いのまま細い身体を引き寄せ抱き締めた。
腕の中に捕らえた彼女が息を呑む。
変わらない髪の匂いと温もりが、幻ではないことを確信させてくれる。
夜風で少し冷えたのか腕の表面がひやりとしていた。

「……幻ではないと言ってくれ……どうか……!」

抱き締めた女の両手がそろりと伸び、懐かしい掌で頬を包んだ。柔らかい手から感じる温かさが答えだった。驚きに目を見開いた の形 のいい唇が、戸惑いながら囁くように言葉を搾り出す。

「なんで……ここに……?」
「オレが聞きたい……お前はロモスにいると聞いていた」
「わ、私は明日、この街で踊りの大会があるから。っていうかそれ、誰から……!?」

困惑している の言葉を遮って強く抱きしめる。
甘い香りがふわりと漂い、傍に居た時の思い出が溢れ出す。

「……このまま聞いてくれないか」

拒絶の言葉はなく、代わりに細い手が両肩にそっと置かれた。

「……あの夜、お前の気持ちを聞いた時……オレは同じ想いでいてくれた事が嬉しかった。だが、自分の罪がお前を不幸にすると考えて、お前 の気持ちを受け止めることができなかった……遠くから幸せを願うのが最良の選択だと思った……」

胸の鼓動が速くなり、声が上ずりそうになる。

「……だが、今になって理解したのだ。オレがお前の気持ちに応えることが出来なかったのは、たった一人を愛し抜く勇気が無かった為だ。犯 した罪を言い訳に、真っ直ぐに愛を貫こうとしてくれたお前から逃げただけだと」

は静かにじっとしたまま、腕の中で動かない。
情けない事実を聞かされて不快に思っているのだろうか。
だとしても、今を逃せば二度と彼女に想いを伝える機会は無い。

「一年も経って何を今更と思われることも承知しているが……どうかあの日、告げたかった言葉を聞いてほしい」

ゆっくりと身体を離して柔らかい頬を両手で包み、視線を捉える。
の瞳が真っ直ぐに見つめ返してくる。
その瞳も、髪も、彼女の全てをずっと想い続けていた。


「……愛している」


胸に堪った想いを詰め込んで吐き出すと、 は俯いて肩を震わせた。

その肩の頼りなさに一瞬、泣いているのかと思ったところで、



「――っ、この唐変木ッッッ!!!」



顎に、頭突きが、来た。



「ぐっ!?」

突然の攻撃でよろめいた所で胸倉を掴まれ足払いをかけられて坂道に引き倒された。非力と思っていた女性の不意打ちと馬鹿力に当惑しながら 受身を取って身体を起こそうとすると、今度はオレの動きを封じるように が馬乗りになって圧し掛かってきた。マウントポジションを 取られて焦りながら顔を上げると、踊り子は泣きそうな顔でオレの胸を拳で叩いた。

「両想いだったのに引き止めようともしないで、探そうともせずにフラフラして、あんたなんなの一体っ、」
「す、すま」
「うるさい!おまけに酔った勢いで、傍にいてって、どういうつもり!?なにが夢でもいいだよ、都合のいい事言ってふざけんな!私はねえ、 私は……っっ!」

拳が胸を叩く力は徐々に弱くなり、 の額が胸元に押し付けられた。俯いた顔は見えないものの鼻を啜る音が聞こえる。恐る恐る頭を撫 でてみると、涙まじりの切ない声が耳を打った。

「寂しかった……!」

泣きながら訴えかけてくる声には、胸が張り裂けんばかりの悲痛な思いが籠っている。

「聞き分けのっ、いい女のフリ、して、でも私、辛く、てっ、忘れよ、て思、たのに、っ」

しゃっくりあげながら言葉を繋ごうとする一生懸命な姿に心が痛む。身を引いて幸せを祈るのが正解なのだと信じ込んでいた結果、彼女をここ まで傷つけた。穏やかで滅多に感情を表に出さない が、涙声でありったけの感情をぶつけてきている。

「全然っ、忘れらんなくて、バカみた、にっ、引きずって、情けなくって、もうやだって、思って、」
「…… 。気の済むまで罵倒していい、もっと殴ってくれて構わん。全て受け止め……」
「嫌!!」

傷つけた分だけ彼女の傷を受け止めたい。代償として自分を差し出すのは当然だと思ったが、彼女にはそれですら受け入れてもらえなくなって しまった。

「……そうか。すまない」

何もかも手遅れだった。
愛しい踊り子は二度と笑いかけてくれないのだ。
こんな男のことなど嫌いになって当然だろう。
想いを告げる機会が貰えただけで十分で――――

「ちゃんと守ってよ……私のこと、ずっと……男として傍で……!」
「……!」

子供のように涙を流す彼女の口から零れた言葉にはっとする。
鮮やかに蘇る、戦いの中、空の上での胸を締め付ける一時。一年以上も前に告げた言葉を、彼女はずっと覚えていたのだ。傷つけた上に一年も 一人にして、守るどころか傍にすら居てやれなかった自分の弱さが憎い。涙を見せることも出来ずに気丈に微笑んで去るしか無かった の心には、どれほど深い傷が刻まれたのだろう。彼女の心を踏み躙って壊したことすら正当化して、目を背けていた間、何度こうして泣いたの だろう。

「ッ……何か言え馬鹿男!!」
「すまん……」
「アホ、ダメ男!」
「返す言葉もない」
「顔だけ野郎っ」
「……」
「……好きなの」

罵られる事を覚悟はしていたが流石に辛くなって目を逸らすと、細い声がこれまで生きてきた中で最も愛しい言葉を紡いだ。

「好き、燃え尽きて死にたくなるくらい愛してる。あんたと一緒じゃなきゃ、いや……!」
……!!」

死にたいくらいに愛しているのはこちらのほうだ。彼女の傍でなければ、何処に行っても何処にも行かないのと変わらない。毎日彼女の面影ば かりを探して、忘れようとしても忘れられずに、今日まで記憶の残像でしかない笑顔を追い続けていた。背中と首の後ろに腕を回して強く抱 く。

「……離さない。二度と一人にしないと誓う」

細い腕が首に回って息苦しさすら感じるほどにきつく抱き合う。
求め続けた愛する女性は腕の中で嗚咽を漏らして頬を濡らしている。

丸く輝く月が闇を照らして、坂道で抱き締めあう二人を見つめていた。





胸元がじわりと濡れて冷えているのは、抱き締めた の瞳から溢れた涙が落ちて染みたからだ。一年も経った今も尚、泣くほど愛してく れていることを申し訳ないと思う以上に喜ばしいと感じてしまう自分に呆れる。抱き締めて撫でた髪からは、一年前のベンガーナの思い出と変 わらない果実のような甘い香りがした。

その なのだが、オレが抱きかかえたままの状態になっている。彼女は自分の泣き顔を恥ずかしがって、オレの首に手を回して横抱きの 状態でしがみついているのだ。何とも可愛らしい理由だが、屋外で密着した状態が長く続くのはいただけない。どうにか聞き出した宿に着く と、宿の主人が訳知り顔で鍵を渡してきた。普段ならば何かしらの弁明をするところだが、今は最早どうでもいい。部屋の鍵を開けて をベッドに下ろそうとするもごねるように頭を振ったので、仕方なく膝の上に抱えたままでベッドに腰掛ける。

。部屋に着いたんだが」
「ヤダ下りない」

細い両腕を首に回して子供のようにだだをこねる仕草が新鮮で可愛い。これまでの記憶にある彼女はわがままを言わない大人びた女性だった。 もっと早くこうしていれば、これまで知ることのなかった彼女の愛らしい一面を知ることが出来たのかと思うと、ここまで来るのに一年も費や したことが悔やまれる。とはいえ、いい加減この状態を抜け出さなければならない。

「……少しだ、少しでいい。一度下りないか」
「ヤダ泣き顔ブスだもん」
「いや、とても綺麗だ」
「主観的な話だからヒュンケルがどう思うとか聞いてない。」
「……」

バッサリだ。
可愛い、などと思っていた自分がいかに彼女の見た目に騙されているのかよくわかる。そうだ、 はこういう性格だった。他者の評価で はなく自分の評価を元に行動する。信じる己のために何処までも走れる眩しさもまた、彼女に心惹かれた一つの要因だ。

「……しかし、これでは二人とも動けん」
「じゃあ目瞑って動かないで。下りるから」
「わかった」
「私が良いって言うまで目、開けないでね。動いてもダメだからね」

言われるままに目を閉じて手を離せば、 がゆっくりと膝から下りた。離れていく温もりに一抹の寂しさを感じる。暫くそのまま待って いると衣擦れの音が聞こえた。着替えているのだろうか。それならば外で待てと言ってくれれば良いものを、と気恥ずかしい気持ちでいると、 不意に頬に の手が添えられた。

何をしているのだろうと思った瞬間、唇に温かく柔らかいものが触れて深く重なった。口付けられていることを理解して目を開けようとする も、一瞬早く視界を彼女の優しい手のひらで覆い隠される。

「……!?」
「だめ、じっとして……」

一瞬唇が離れ、囁かれた甘い声で脳髄が痺れる。再び唇が塞がれて、幾度も角度を変えて深く食むような大胆な口付けに堪らず手を伸ばすも、 するりとその手を捉えられてベッドの縁に縫い止められる。動くことも目を開けることもできずに座らされた状態で愛しい人からの口付けをた だひたすらに受ける。下唇の縁を舌でなぞられて理性が音を立てて崩れ落ちそうになった瞬間、唇が離れて小悪魔が囁いた。

「……残念ながら今日はここまで。」
「っ…… 、」
「そんな顔してもダメ。明日踊りの大会があるから余計な体力使いたくないの。あ、目はもう開けていいよ」

の手が目元から離れて視界が開ける。彼女は夜着に着替えており、艶やかな髪を櫛で梳きながら、悪戯っぽく微笑んで言った。

「女を待たせて泣かせるようなワルイ男には相応しいお仕置きでしょ?」
「っっ〜〜〜〜〜!?」
「さ、寝よ。はいヒュンケル、荷物おろしてマントとか脱いで、ベッドの奥行って。後ろからぎゅって抱いてね」
「なっ」
「これもお仕置きの一部です」
「オ、オレは別の部屋を」
「今日はどこも満室」
「では椅子で、」
「それ私以上の体重は多分壊れる」
「ならば床に」
「だーめ。ほら諦めて、こっちおいで」
「くっ……!」

必死の抵抗も空しく、最後は の手招きに誘われて強制的にベッドの奥に寝かされた。無防備に男に背中を晒すところは初めてこの街を 二人で歩いた日と同じだ。しかも今夜はつい先ほど恋人関係になっている上に、彼女を抱きしめて眠らなければならない。オレの恨みがましい 視線などものともせずに、 は上機嫌だ。彼女の機嫌が良いのは悪い事ではないが、今は可愛さ余って憎さ百倍という表現がうってつけ だと言える。この事態を招いたのは確かに自分であれど、 で本当にいい根性をしている。

「おやすみヒュンケル」
「……おやすみ。

柔らかい恋人の肌の温もりと、理性を焼き切る魔性の甘い香りに対抗するのは己の精神力しかない。腕の中から寝息が聞こえてきたと同時に心 の中で父と師の名を念仏のように唱えながら、気づいた。


そうか。
これが、生殺しというものか。



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