「……しに、」
「え?」
「何しに、来たの」
トキの眼差しと、彼の不思議な行動について困惑しているは、質問した後で内心自分を叱咤した。
何しにも何も、彼は私を助けてくれたのだ。
この言い方は流石になかった。
それでもトキはイヤな顔一つせずにに答えた。
「ああ……治療が終わったから、この子を君に返しに来た」
「……そう」
トキの足元を見れば、つい先日預けた猫が尻尾をゆらゆらと左右に振って嬉しそうにに擦り寄ってきた。
仔猫の仕草に心が少し落ち着き、は頬を緩ませる。
すると、の様子を見て問題ないと判断したのか、トキが再び口を開いた。
「顔を見たかった、というのもあるのだが。おかしいだろうか」
その言葉には再度硬直した。
「……何、それ」
顔を見に来た?
治療目的だろうか。
そうに決まっている。
あれだけきつく言ったのだから、好意などは抱いていないだろうし。
しかしそれにしてもこの笑顔はなんだろう。
この男、神経が鉄柱並みに図太いとしか思えない。
は一瞬にして考えを巡らせ、呆れたように溜息をついた。
「アンタ、ほんっとワケわかんない」
「そうかな」
「そうよ」
こんな性格きつくて男性恐怖症の女のところにまでわざわざ治療など来なくてもいいのに、と言いそうになって、はまだ口を閉じた。
助けてもらっておいてこれは、ない。
言ってもいい場面と良くない場面があるということくらい、彼女も理解はしている。
「……とりあえず礼だけ言っとく。今回は、ほんとにやばかったし」
「こういうことは頻繁にあるのか?」
「普段はないけど、時々。ほとんど馬鹿な客しか来ないからね」
「……そうか……」
の返答に、トキはしばらく黙って視線を落とし逡巡していた。
そしておもむろに立ち上がると、の家の外に向けて踵を返した。
「…帰るの?」
「ああ。あまり長く居ても迷惑だろう。貴方も一人で落ち着きたいだろうし」
トキの言葉は最もだった。
もこれ以上彼と共に居てはまた何を言ってしまうかわからないため、タイミングとしてもちょうどいい。
「ふん、わかってんじゃな」
い、と言おうとした瞬間。
ぐぅう。
誰かの腹が鳴った。
「……」
ではない。
勿論猫でもない。
「今の……もしかして」
「あ、ああ!…その、実は昼食を食べ損ねてしまって。…その、つい。すまない、情けない所を見せてしまった」
が居た堪れないような気持ちで確認しようとすると、トキが顔を赤くして弁解した。
男は嫌いだ。
だが、トキの慌てる様子があまりにも、予想外で――
「…………あーもう…!」
世話したくなってしまったのは、どういうことだろうか。
ブルー・ローズに微笑を
10. Small
World.
「……ご飯。食べてけば」
誘ってから、は自分がついにトチ狂ったと感じた。
何を言い出しているのか、この人物は男で、自分は男性恐怖症なのに。
それはトキも同様に感じたことだった。
「……え?」
「なっ何よ、文句あるなら帰りなさいよ!」
「い、いや!頂いていこう、是非!折角申し出てくれたのに断るわけにはいかない」
なんだか妙な空気になってしまったものの、も言い出してしまったからには後には退けず、トキもせっかくの彼女の誘いを断りたくないと言う気持ちから、お互いに変に強気になってしまう。
その空気がまた妙で、これ以上何か口を開くとよりわけのわからない空間になってしまうと思い、は気を取り直して狭い流し台の隣にある棚から食料を取り出した。
「本当に構わないのか…?」
つい食事を頂くと言った手前帰ることも出来ないため、トキも焦っていた。
意外すぎてうっかり誘いに乗ってしまった。
しかもかなり軽い感じに。
これでは彼女の事情に全く気遣いのない男と思われるのではないだろうかとの様子を伺いながら、何か手伝ったほうがいいのだろうかと部屋の中をうろうろする羽目になるという、北斗神拳伝承者候補にあるまじき落ち着きのなさを曝け出してしまっている事にも気付かない。
しかし、背後でトキがおろおろしていることにも気付かないほど混乱しながらジャガイモの皮を剥いていた。
何をしているのか自分。
早くこんな男、外にほっぽり出せばいいというのに、何故手料理なんて作ってあげているのだろう。
そもそもあのタイミングでお腹を鳴らすって、真面目なのか天然なのか。
わけがわからない。
おかげで緊張感も何も無くなってしまった上に、こんな妙な展開になってしまった。
「勘違いしないでよね!これはその、の手当てしてくれたお礼なんだから!」
奇妙な空気を掻き消そうと言い訳の様な言葉を口走るが、より気が抜けた状態になってしまい、トキもまた何をどう返せばいいのかわからず、所在なく部屋の隅でただ待っている。
結局、よくわからない微妙な空気はが料理を作り終えるまで続いてしまったのであった。
*
「!…美味しい…」
「…お世辞ならもっと上手いこと言えば」
「お世辞だなんて、そんなことはない。本当に美味しいものを美味しいと言っただけだ」
の作った料理は簡素なものだった。
ジャガイモとトマト缶を使ったスープと、塩漬け肉をはさんだパン。
しかし、シンプルながらも丁寧に調理されたそれらは充分にトキの腹を満たした。
絶妙な塩加減になるように塩抜きされた肉の量は多くなかったし、スープの具も充分とは言えなかったが、それでも手を抜かずに作っているのが伝わる味だった。
加えて、好意を抱いている相手の手料理となれば、喜ばない男はいない。
「そんな大したもんじゃないし。気に入ったなら持ってけば」
「…!しかし、食糧不足のこの時にそこまでしてもらうわけには」
「あそ。要らないならいいけど」
「そういうことではないんだが、その…」
の答えは変わらずに冷たく、トキの言葉はまるで届いていないかのようだった。
しかし優しい味のする料理に彼女の気遣いは充分に表現されており、それがトキの気持ちを少しばかり強くさせた。
「その……さん」
「何」
「自慢ではないが、診療所の患者さん達が…食料をくれたりするのだ。ほとんどはお断りしているのだが、どうしてもと診療所の外にこっそり置いていってくれる人も居て」
「ふーん」
「しかし私はその、さんほど料理が上手いわけではないから、どうも上手く調理できなくて。だから…」
自分が何を言い出そうとしているのか、トキも正直よくわかっていない。
ただ胸の中から突き上げる気持ちを美味く表現できずに、心のままに思いついたことを口にしてしまっている。
「ここに、その食料を持ってくるから、よければ貴方が調理してくれないだろうか!?」
「…はぁ?」
言葉にしてからトキ自身も思った。
何を言っているのだ私は。
落ち着け。
平静を取り戻せ。
見ろ、彼女も困惑しているではないか!
慌てて状況を把握し、トキもまた先ほどののように弁解を試みる。
「あ……!いや、深い意味はないのだ。ただその、美味しく調理された方が食材も喜ぶだろうと、そういうわけで、あの」
「……す……好きに、すれば」
しかし、トキの弁解に対して帰ってきたの答えはトキにとってはさらに予想外だった。
「え……?」
「持って来たけりゃ持って来なさいよ。その代わり、あたしも貰った食料は食べさせてもらうからね」
「で、では。またここに来てもいいということだろうか?」
「そーよ」
「しょ、食事も……?」
「ああもう、何度も聞くな!食べたけりゃ材料持って来れば!?好きなだけ作ってやるって言ってんの!これでいい!?」
「…………!」
トキの胸に希望の火が灯った瞬間だった。