よく知りもしない男を家に上げて、食事まで作って食べさせて帰した。
平素ならば何があろうとやる事じゃない。確かにトキという優男はの猫の怪我を治療してくれて自身も助けてくれたけれど、恩を売ってから後で痛い目に合わせてくる人間はこれまでに何人も見てきた。彼がそうでないと言える根拠などどこにもない。
平和だった時代はとうの昔に過ぎ去り、生き抜くためには親切すらも疑わなければならないのが今の実情だ。
十分理解していたはずなのに、自分の口から出た言葉は彼を再び招き入れることを是としてしまった。
トキは食事を平らげた後、片づけを手伝って帰ったけれど、きっとまた訪れるだろう。

「なんなのよ全く…」

胸がモヤモヤする。ただイラつくのとはまた違った重さだ。
自分の気持ちがわからない。
あの男の所為だ、とは髪をかきあげてイラついた目で虚空を睨んだ。

優しい男なんか嫌い。期待させるだけさせておいて裏切るから。
強い男も嫌い。すぐに力で女を捻じ伏せるから。

でも、万が一にも、あの人がそうでないなら。
裏切りもせず、捻じ伏せもしない、ただの優しくて強い人だったら――?

(だったら、どうだっていうの)

どうもしないじゃないか。単に失礼なことを言って申し訳ないと謝罪すればいい。それで事は全て片付く。

「おいで…

狭い部屋の中、ボロボロのカウチソファに座って、は仔猫を抱き上げ柔らかい毛並みに顔を埋めた。洗って綺麗になった仔猫は温かく、陽だまりの匂いがした。



ブルー・ローズに微笑を

11. Gentle Voice.


トキの診療所はいつも多くの人間が訪れている。とはいえ、食事を作ってやると言ってしまった手前。普段どうしているのか気にならないわけでもない。そんな理由ではトキの診療所に足を向けてみたわけだが、朝は混んでいた。仕方なしに昼間に行ってみたものの、昼間も混んでいる。なら夕方、と思っても、夕方を過ぎても人は絶えない。これでは話をする暇がない。慕われているのはわかるが顔すら見られない。

「…ふん。いつでもダメじゃない…」

列に並べば会えたかもしれない。しかしの体は男性恐怖症以外は健康体だ。医者にかかる理由はない。
だからと言ってあの人の波を掻い潜って時間を作ってもらいに行く勇気はない。結局3日続いて、はトキの診療所を訪れては引き返していた。

そして今日――4日目もまた、何も出来ないまま過ぎようとしている。

「……帰ろ…」

少し離れた場所の廃車の上に腰掛けて診療所を見ていたが、トキの手は今日も空きそうにない。それほどに多くの患者を診ているのだ。彼に悪気があるわけでもない。頭では理解できているが、自分ばかり無駄に時間を浪費したことが癪で、は廃車のタイヤを蹴って踵を返した。

さん…?」
「!」

突然後ろからかけられた声に驚いて振り向くと、トキが立っていた。

「なんで…」
「患者さんが教えてくれたのだ。診療所をじっと見ている女の人がいるから、患者かもしれないと…」
「……あっそ。生憎別にどこも悪くないし、帰るところだから」
「えっ…」

しまった、とは思った。4日も連続で遠くから診療所を見ていたら、中に居るトキはともかく外の患者達には見られたに決まっている。もう少し時間を置いて来れば良かった。用も無いのにここにいた理由を聞かれたら答えようがない。気まずくて、は再びトキに背を向けて歩き出そうとした。

「待ってくれ!」
「!?」

追いかけるトキの手が咄嗟にの手首を掴んで引き止める。
次の瞬間、の体は瞬間的に緊張し硬直して足が止まった。

「!すまない。強く掴んでしまったか……?」

動きを止めたの様子にトキも気づき、慌てて手を離す。しかし、一度恐怖に囚われた彼女の体は簡単に言う事を聞いてはくれない。は青ざめて震える手を自分で押さえ込んで無理矢理に深呼吸をした。
話をするだけなら、震えは顕著に出る事はない。けれど接触されると話は別だ。
特に急に手を掴んだり動きを阻むような触り方をされると、の体は彼女の意思に関係なく緊張してしまう。

「…本当にすまない……怖がらせたかったわけではないんだ」
「…………いい。放っておいて」
「だが、」
「面倒な女だって思ってんでしょう!?わかってるわよそんなの……自分が一番わかってるの!!」

自分の男性恐怖症が周知すれば、これまで追い払ってきた男達が付け上がるのは目に見えている。
弱みに付け込んで組み伏せられて好き放題に暴かれる。それだけは何が何でもさせたくなかった。
けれどもう彼には知られている。今更どう強がりを言おうと、知られた事実は変わりない。
それでもトキという男に弱みを見せたくないのは、対等だと思ってほしいからだ。

惨めな弱者だと思われたくない。

何故そう思うのか、認めたくない感情がの中で渦巻いている。
叶う筈もない事を願うのはやめたはずだった。

俯いて涙を流したの両頬を、トキの大きな手のひらがそっと包んで持ち上げた。
反射的に強張る筋肉をコントロールする術をは知らない。故に勝手に震え出す身体が憎くて堪らない。
自分の体なのに自分で制御できない弱さが憎いのだ。悔しげに唇を噛んだ彼女に、トキは言った。

「――治そう。少しずつ」

の目を真っ直ぐに見つめて、ゆっくりと、一つ一つの言葉を限りなく優しく紡ぐ。

「私は君を、面倒だなんて思っていない。全力で治療に協力するつもりだ」
「……っ……治りっこない……諦めたの……!」
「いや、治すんだ。絶対に治してみせる」
「あんたが……?」

猫のようなぱっちりした瞳から流れた涙がトキの掌にじわりと滲む。温かい涙に詰め込まれているのは自身の絶望と、救いを求める声泣き叫びそのものだ。自分をシェルターに導いてくれた彼女が未来に絶望して嘆いているのを黙って見ている事などトキには出来るわけがなかった。

「そうだ。だからもう二度と、自分を貶めるような事は言わないでほしい」

こんなにも激しく誰かを恋想うのは生まれて初めてだ。ユリアへの淡い想いとは比べ物にならない、強く心を揺さぶる感情。蓋をすることは出来ない。

「君は、素晴らしい女性だ」

体裁もいらない。伝承者の座も不要だ。欲しいのは彼女の笑顔ただ一つ。
空が紫とオレンジに染まる頃、小さく頷いた女の震えは静かに収まっていった。

 

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