北斗神拳の秘孔術は医に通じ、実際に多くの人々の病や怪我の治療に役立っている。
しかし心の病ばかりは、きっかけを作るほかに出来ることがなかった。
トキとて正規の医師ではない。医学の知識が豊富なだけで、心の病の治し方など知らない。
どんなに効果のある治療をしても、目に見えない心の傷を治すのは時間と環境、そして患者自身だ。
秘孔術で魔法のように男性恐怖症がぴたりと治るという事は有り得ないのである。

トキが最初に行ったのは、 自身が拒否反応を制御できるように気脈の流れを変えることだった。男性に対して極端に拒否反応を示すのは腎経気脈の澱みが原因と考え、まずはこの気脈の 流れを良くする試みから入ることにしたのだ。

腎気脈はいつも不安感を覚えるなどの精神障害に効力を示す気脈であり、とりわけ女性に多い病気の大半は この気脈を治療することで改善が見られる。
ここを正常な状態に近づけて恐怖心や不安感を和らげ、緊張状態になりにくくする。
こうすることで に自分を制御できている達成感を感じさせ、回復しているという意識改革に繋げる。
地道に自信を回復していけば、心はやがて強くなる。
過去と向き合うのに十分な心の強さが戻れば、 自身の力で過去と決別できるようになるはずだ。
そうしてトラウマを克服する準備が完了する。

根気の居る治療になることは間違いない。しかしトキは諦めようとは思わなかった。 の笑顔を見たい。そしていつか、自分だけにその笑顔を向けて欲しい。ただそれだけのために、トキは寺院の地下書庫にある精神医学の資料を漁った。

もまたトキの熱心で丁寧な治療を受け続けた。 自身、本当にこのどうしようもない身体が治るかどうかなど半信半疑の状態である。それでも藁にも縋る思いでトキの治療を受けることにしたのは、忌々しい 自分自身と決別したいと強く感じているからだ。

全ての男が彼女の心を傷つけた野獣のように凶暴なわけではない。 とて頭では理解しているのだ。それでも体は相手がどんな男であろうと勝手に拒否反応を示し、怯えている自分を見せたくなくて威嚇するかのように冷たく当 たってしまう。そんな自分が嫌いでどんどん自分の殻に閉じこもっては、また同じ事を繰り返す。悪循環だという事は 自身が誰よりもわかっている事だった。

変われるなら変わりたい。
戻れるなら、昔の明るい自分に戻りたい。
傷など無かったあの頃は、笑い方なんて意識しなくても笑えていた。
昔できて今できないはずなんて無いのに、どうしてできないんだろう。
自分はなんて弱いんだろう。

自責の念に喘ぎ苦しむ の心に小さな明かりを灯してくれたのがトキだった。
はその明かりに、もう一度手を伸ばしているのだ。

週に2度、3日おきに は診療所を訪れてトキの手で治療を受ける。
は最初、トキの温かな指先にすら触れられるのを躊躇った。
治療だという事は理解している、理解しているのに緊張した体は中々解れず冷や汗を流して、時には涙すら滲ませた。けれどトキはそんな を決して急がせることなく、落ち着くまで待った。

今が駄目なら、少し休んで後でもう一度挑戦しよう。先に他の患者さんを診るから、お茶でも飲んで君の猫 を撫でていればいい。

包み込むような優しい声で、トキは の心を宥めすかして治療に当たった。
焦らずじっくり、一歩一歩進もうと。

トキの根気強い治療によって、効果は徐々に現れた。4週間治療を続けた結果、 の精神状態が出会った当初に比べて安定してきていることをトキは確実に感じていた。

「やあ。調子はどうかな」

治療を始めてから一月が経ち、予定通りに診療に訪れた に、トキは優しく問いかけた。
を接するにはコツがいる。

まず、急に激しく動かないこと。怯えている動物が急に触れられると怖がって威嚇するのと同じで、彼女も 男性が速い動作をすると身体が緊張してしまう。
次に、大きな声を出さないこと。
男性が声を荒げるとただでさえ周囲に威圧感を与える。繊細な には少し声を張り上げただけでも強い刺激となるので、遠くの人に呼びかける時も要注意だ。
そして一番重要なのがこれだ。

「触るよ?」
「うん………いいよ」

体に触れる時は必ず断りを入れて、 が頷いて息を整えてから。
距離をゼロにしてしまうボディタッチは慎重でなくてはならない。
トキにとって優しく触ったつもりでも、彼女にとっては強く触られたと感じることすらあるのだ。
故にトキは治療の時には最善の注意を払いながら の診察を行う。

「大分緊張しなくなったな」
「…慣れてきただけ。他の男だと、多分無理…」
「……心配はいらない。ゆっくり焦らずに行こう。状態が良くなっているのは、君自身が良くわかっているはずだ」

諭すように言い聞かせると、 は小さく頷いてトキを見上げた。アーモンド型の大きな双眸がトキをじっと見つめる。

「本当に…治ると思う…?」
「…治るか治らないかじゃない。治すんだ。 さん」

トキの真っ直ぐな視線を受けて、 が目を逸らす。彼女には自信が無いのだ。他の患者の腹痛や頭痛など軽い体調不良ではなく、時間と根気のいる治療を受けているからこそ、「治った!」と喜 んで帰っていく患者を診る度に彼女が羨ましそうな目をしているのをトキは気付いている。視覚的に改善がわかりにくいから不安なのだろ う。
しかし、こればかりはどうしようもない。忍耐強く治療を続けるほかに術はないのだ。

「たった一月でこんなに良くなったじゃないか。必ず治る。…手に触れるよ」

トキは頷いた の手をそっと握って思いを込めた。
早く良くなるように、笑顔が見られるようにと。

「なに?」
「良くなるおまじないだ」
「医者がおまじないって、どうなの」
「い、いやあ、それは…」

もっともらしい の指摘にトキが焦る様子を見せると、 の口元が僅かに綻んだ。
一瞬ではあるがかつてないほど尊く見える僅かな微笑みは、トキの心まで明るくするのに十分だった。



の治療を開始してから一月と二週間が経った。

師父が死んだ。

長年トキを含む4人の弟子達を育てた養父を葬ったのは、長兄であるラオウだった。伝承者を強引にトキに しようとした所、ラオウが力で捻じ伏せて倒したのである。伝承者の座はそのままトキに移ったが、トキもそれを辞退し、現在弟であるケ ンシロウにその地位は譲られている。

トキとてラオウに伝承者になってもらいたいとは思っていたが、あの兄はあまりにも強大すぎる力を持って いる。平和のために力を奮いたいトキにとって、ラオウの価値観は受け入れがたいものがあった。

自分が伝承者にならずに済んだことは喜ばしい。ケンシロウもこれでユリアと一緒になれる。あの心優しい 弟は伝承者に相応しい才能を持っていると、トキ自身が認めているのだ。優しすぎるところが玉に瑕だが、何とかなるだろう。

ラオウについては、最早何も言えない。ラオウは師父を殺した後すぐに行方をくらましてしまった。鬼神の 如き強さを持つ兄だ、天を目指すなどと言い残して去ってしまったが、何を考えているのか。

三男のジャギはケンシロウに食って掛かって返り討ちにあって、こちらも姿を消した。あれはあれで哀れだ が、多少自業自得なところもあるので放置しておいても特に問題はないだろう。

しかし身内のごたごたというのは神経を削るものだ。北斗神拳の使い手であろうとなかろうと心は人間であ る以上、トキもまた例外ではなかった。
瓦礫の上に腰掛けて、流れる雲を見上げては溜息をついていると、背後から誰かの気配がした。

「トキ」

掛けられた声は聞きなれた女性のものだった。
振り返ると声の主が瓦礫に腰掛けているトキを見下ろしていた。

「ユリア……」
「……大丈夫?」

ユリアは美しい髪を靡かせてトキの隣に腰掛けた。
かつて淡い想いを恋だと思った時期もあるが、彼女に対する感情は親愛だった。それを認識してからは、トキのユリアに対する気持ちに は、ケンシロウに対する引け目も消えて、余裕が生まれた。
最早要らぬ見栄を張らなくていいからだろう、多少の愚痴もこぼせる程度になったのだ。

「いや……そうだな。少し疲れてしまったようだ」

素直に吐露したトキの心情を、ユリアは気の毒そうな表情で受け止めた。

「…お父様の事ね…残念だったわ」
「ああ…」

無論それだけではないが、何もかも吐き出すのもどうかと思い、トキはそれ以上何も言わなかった。ユリア は直にケンシロウと旅に出るつもりらしい。弟とその恋人の門出を無用な心配で鈍らせることも無いだろうと考えたのだ。

トキはゆったりと雲が流れる様子を見つめ、ユリアもまた遠くで聞こえる子供の声を聞きながら目を閉じていた。風が二人の髪を攫って巻 き上げる。不意に巻き込まれた木の葉がユリアの髪に引っかかったので、トキはなんとなしに手を伸ばして木の葉を取り払った。ユリアも また、トキの行為を信頼のおける人間のそれだと理解しているので甘んじて受け、にこやかに微笑む。

二人にとってこの行為には何の意味もない、ただの親切と感謝のやりとりだった。
但し、他者から見れば十分に誤解を受ける可能性もあるということを、トキは失念していた。
故に見落としたのだ。


トキの視界の端から走り去る の姿を。




ブルー・ローズに微笑を

12. Small misunderstandings.

 

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