その日、
は一人で散歩に出かけていた。
トキから治療のために受けたアドバイスの中に、家の中に籠りきりにならないようにする、というものがあったからだ。
本格的に治療を始めてから、
はなるべくトキの助言に従うようにしている。
それは彼が医者だから、ではなく、数年ぶりに“信用するに値する男性”だと理解できたからである。
加えて、
は少しずつ、自分の身体がトキに慣れてきていることを感じ始めている。
勿論それも常ではない。
なんとなく調子の悪い時はトキが相手でも身体が竦むこともある。
ただ、その頻度が減っているような気がするのだ。
安定した状態で接することのできる男性が、今はトキに限られていても、いつかもう少し、せめて片手で数えられるくら
いにでも増やすことが出来れば、と思い始めた。
他者から見れば、彼女の目標は簡単に思えるかもしれない。
けれどトキに出会う前の彼女にとっては大きな進歩だ。
彫り師の仕事だって、いつも緊張と恐怖と戦いながらこなしていた。
客が男だと、冷や汗を浮かべながら仕事をした。
何もされていないのに、ただただ、怖かった。
無意味な恐怖を感じてしまう自分が弱くて嫌いだった。
そんな自分に手を差し伸べてくれた人が居る。
彼もまた、
の恐怖する男だった。
けれど、
の思うような男ではなかった。
信用に足る人物だということは出会って数日で隣人から聞かされていた。
彼女がそれを実際に感じたのは、治療を受け始めてからだ。
とても優しい、根気強い、誠実な男。
は素直に、トキに対する自身の評価を受け入れた。
世の中には優しい男だってまだまだ沢山いる――頭では理解していても体が拒絶していた事実を、彼女の身体を縛り付け
る恐怖を、トキはゆっくりと解してくれる。
彼は大丈夫だ。
裏切らない。
自分を傷つけたりしない。
だからこそ、
はもう一度賭けることにした。
これで治らなかったら、諦めてこの憎たらしい心の病と付き合っていく方法を考えよう。
治らなくても改善できれば御の字だ。
それで少しでも、日常生活が楽になるなら。
はトキと出会って、前向きになることができた、筈だった。
だからこそ、彼女は目の前にある現実を受け入れるのに時間がかかった。
数十メートル先、傾いたビルの瓦礫に座ってているのは、彼女の信じる優しい男だった。
その彼が、見知らぬ女の髪に触れ、微笑んでいる。
「――……!」
急に胸が軋み、居た堪れなくなった
は静かにその場を去った。
胸の奥が冷えたように軋むのを感じて、彼女は首を振り、駆けだした。
枯れた木の葉が風に乗り、音も無く彼女の居た場所に舞い落ちた。
*
ユリアと話をした翌日、トキは診療所でいつものように患者を診ていた。
彼の診療所には毎日多くの人々が診察を希望して訪れる。
半分は常連で、半分は彼の噂を聞いてやってきた人々だ。
診療所を開けると彼は忙しく何十人もの患者を診る。
その中に、最近は恋想う女性が混ざっている。
週に2度。
不謹慎だとはわかっているが、トキは彼女の来訪を心待ちにしている。
が彼を医者として頼ってくれているだけだということはわかっているが、大切に思う女性の力になれるというだけ
でも嬉しいのだ。
しかし、予定であれば来ているはずの彼女の姿が、患者の列の中に見当たらない。
不安を覚えながらも、トキはひたすらに患者を診ることに専念した。
やがて列に並ぶ患者が一人減り、二人減り、そしてついに最後の一人になった。
太陽が傾いて夕焼け空に変わっても、
は姿を見せない。
「おかしいな……」
「どうしかましたか?トキ様」
「いえ、なんでもありません。腕の状態を見せてください」
最後の一人となった年老いた老婆は、腕が曲げられない病にかかっていた。
肘の関節が硬くなり、曲げると痛みが走るのだ。
その痛みは軟骨の異状によるもので、秘孔を押せば一瞬で治る類の病ではなかったため、彼女の診察は5回目である。
しかし治療の度に経過は良くなり、次は様子を見るだけで十分な段階まで回復している。
「痛みはありますか?」
「いいえ。トキ様のおかげで、もうすっかりこの通り!」
元気よく腕を曲げて見せる老婆に微笑みを返して、トキは次回も念のために来て下さいと告げると、その日の診療を終了
した。
礼を言って去っていく老婆を見送り、診療所を片付けて、トキは足をスラムに向けた。
「
さん……!」
体調を崩しただけかもしれない。
また妙な男に言いがかりをつけられているのかもしれない。
けれどそれなら、それこそ自分の出番だ、とトキは自分に言い聞かせて彼女の家のある方向に歩いていく。
ほんの一日会えなかっただけ。
たったそれだけのことが、トキの心をかき乱す。
*
「……
。おいで」
拾った時よりも少しばかり大きくなった飼い猫は、
の声に耳だけを向けてその場から動かない。
勝手気ままな飼い猫に、なによ、と呟いて、
はクッション材が飛び出したソファに座って膝を抱えた。
トキの診察を休んでしまった。
行かなければと思っても、足が動かなかったのだ。
昨日の光景が頭から離れなかったからだ。
(……恋人……なのかな)
きっとそうだろう。
あんなに優しい誠実な男に、恋人がいないわけがない。
大体、彼に恋人が居ようと居まいと、
には関係の無いことだ。
(そう、関係ない)
(関係ないのに)
胸が痛む理由を、
は知っている。
この痛みを、人が何と呼ぶのかも。
ただ認めたくなかったのだ。
認めてしまったら、もう二度と患者として彼に治療を受けることができない気がした。
患者と医者。
とトキの関係はそれだけだ。
それ以上の何かに変わるわけがない。
彼は親切心の塊のような人間だ。
その親切心に甘えてはいけない。
自分のような厄介な病を抱えた人間が、誰かを特別に想うなんて、想われた方は迷惑でしかない。
迷惑だと思われるのは嫌だ。
面倒な女だなんて思われたら、死にたくなる。
一睡もできないまま朝を迎えて、
は一日中、トキの元に行くかどうか悩み続けた。
そうしているうちに、日が暮れた。
今までとは違う恐怖で、家から出る事すらできなかった。
長い溜息をついて、
は抱えた膝に顔を埋めた。
良くなってきたのに、こんな理由で治療を諦めることになってしまった自分を恥じた。
親切にされたから好意を抱くなんて馬鹿みたいだ。
やりきれない気持ちでソファに身体を預けて十数分。
「――
さん?」
「……っ!」
彼女が今一番会いたくて、一番会いたくない人の声が、粗末な扉の向こうからはっきりと聞こえた。
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