ブルー・ローズに微笑を

3. How do you think, How do I think of you?




「そりゃあお前、恋だろう」
「…そう、かな」
「そうそう。ん、コーヒー無くなっちまった。おかわりある?」
「…そこにある、好きに飲んでくれ…」

診療所の休憩室で、片手をひらひらと振っていい加減に答えたジュウザに、トキは額に手を当てて溜息をついた。
やはりこの男に気になる女性がいるなどと相談などしたのが間違いだったのだろうか。
しかし、彼以外に誰に相談する相手がいないのも確かである。

ラオウに相談すれば「奪い取ればよい!」などと、相談もクソもない答えが返ってくるのは目に見えているし、だからといって末弟に尋ねてもいいとこトキと一緒に頭を抱え込むのが落ちだ。
ジャギはやり方が卑劣そうで、おまけに初めから下ネタに走りそうだから却下である。
見目も女受けがよくて年の近いリュウガなどはどうかと思ったが、彼の場合は真剣に聞いてくれても、真面目ゆえに思考が回りまわって最終的に「なんとか頑張れ」と言われてオシマイな気がする。
それはつまり相談しても意味がないということである。

南斗の知り合いも考えたが、どの男もアウトだった。
シンは一直線すぎて玉砕しそうな案ばかりが出てきそうで困るし、シュウは子持ちだし何らかの参考になりそうだが、悲しいかな彼は恋の駆け引きは下手そうだ。
サウザーはもってのほか。
知り合いや友人などをリストアップして結局行き着いたのがジュウザだったのだが、やはりこの人選も無謀だったかと、トキはまた深い溜息をついた。

所詮友人の話よりもコーヒーらしい。
自分は彼にとってはそんなに下の位置づけなのかと、ほんの少し泣きたくなった。
どうしてこうもまともに恋の話を聞ける人間がいないのか、拳法家はみんなこうダメダメなのかと、つい自分を棚に上げ、そんな失礼なことすら頭をよぎってしまう。
トキが、この役たたず!!とついつい黒くなって罵りたくなったところで、ジュウザがトキに顔を向けた。

「で?」
「…?」

コーヒーのおかわりを飲みながら脈絡の無い問いかけをしてきたジュウザにトキが首を傾げると、ジュウザは、だから、と面倒臭そうに言った。

「死にそうになってるところを助けてくれた女が妙に忘れられなくて、そんでその話は終わりか?」
「…まあ。そうなんだが」
「だーッ!!なっちゃいねえ!!」

トキの答えを聞いて、先ほどまではいい加減に話を聞いていたジュウザはコーヒーを一気に飲み干すと、空のカップをガン、とテーブルに叩きつけた。

「あのなぁ、何でそこで終わりなんだよ!?普通そこまで気になるんなら名前くらい聞くだろう!?」

いきなり熱くなり始めた友人に、何だ真面目に聞いていたのかと少しばかり感心して、トキは答えた。

「ああ…名前は…聞いている」
「よしでかした!で、なんて名前の女だ?」
「確か…、と」

記憶と遡って、忘れもしない彼女の横顔を思い浮かべながらトキが言葉を終える前に、ジュウザの表情が固まった。

「どうした?」
「あ…いや…」

先ほどの勢いはどこへやら、妙に歯切れが悪くなったジュウザにトキが訝しげに眉を寄せると、ジュウザは頬を掻いて気まずそうに頬を引き攣らせて尋ねた。

「そのってやつ…茶髪で緑の目の女?」
「ああ…そうだが」
「ちょっと唇がセクシーめで、見た目カワ綺麗系?」
「カワ……まあ、そう…だな…どちらかと言うと美人ではある」

頷いたトキに、ジュウザは苦々しく言った。


「手強いやつを選んだもんだ」



オレンジ色に店内を染める照明の下、狭いバーのカウンターで、は苛ついて親指の爪を人差し指の腹に擦りつけた。
親指の爪を人差し指の腹に擦り付けるのは、苛立っている時の彼女の癖だ。
半ば勢いで飲んだウイスキーは不味くてむかむかして来るし、その上この間の男の事が頭を離れないのが尚悪い。

あの日がその場の勢いでシェルターに引きずって行った男は、トキと名乗った。
シェルターに滑り込んだ時に半ば放り出される形で男の腕から開放されて尻餅をついたに、トキは手を差し伸べ柔らかい声で、大丈夫か、怪我はないかと問いかけた。
普通の女性なら手を取って、ええありがとう大丈夫、とでも返すものだろうが、はもう男に触るのはごめんだとばかりにその手を無視して一人で立ち上がって、出来る限り冷たく彼をあしらった。
だがトキは気を悪くするかと思いきや、ただ苦笑して先ほどと全く変わらない穏やかな声でに声をかけた。

『失礼だが、名前を聞いてもいいだろうか?』
『私の名前なんて聞いてアンタに何の徳があるの?』

ばっさりと切り返したに対して、トキは言った。

『命の恩人の名前くらい知りたいじゃないか』

命の恩人。
それはアンタでしょ、と切り返そうとして振り向いて、は変わらずに微笑む男の表情に脱力して、根負けした。


さんか。…いい名だな』

の名を繰り返して、また一段と柔らかくなった男の笑顔に、 は心地の悪い気分になった。
なんだかこれでは、自分が捻くれた根性の悪い女のようではないか。
理不尽に冷たく当たられたのだから怒ればいいものを、何だこの男は。
聖人君子でも気取っているのか。
機嫌の悪そうなを、男は微笑みながら見つめた。
それでつい、こう返してしまった。

『それで、人の名前を聞くだけ聞いて自分は名乗らないわけ?』

だが、ほとんどケンカ腰といってもいい口調にすらトキは平静に笑みを保ったまま答えた。

『ああ、すまない。私はトキという』
『…ふうん』

数々のナンパや告白をこんな風に冷たくきつくあしらって来ていたにとって、トキの態度は理解できなかった。
普通、気遣ったのに無視されたらムカッと来るだろう。
名前を聞いただけなのに嫌味な返し方をされたら腹が立つだろう。
少なくとも、今までに近づいた男は、無差別に言葉の刃を向けられて敗退して行った。
しかし、トキは違った。

怒る様子もなと話している。
懐が大きいにもほどがあるのではないか。

「…何、あいつー」

自分が器の小さい馬鹿な女に思えてしまって、はまたウイスキーを飲んだ。
美味しいとも思わないし、喉だけがアルコールで焼かれて熱を感じるだけだったが、とにかく酔ってしまいたかった。
こうでもしなければあのイライラする不可解な男、トキの事がの脳内の大半を占めてしまって、苛立ちばかりが募るからだ。

彼は、どうして微笑っていたのだろう。
あんな風に冷たいことを言われて、何故それを受け流せるのだろう。
明らかに悪いのはこちらの態度なのに。

グラスは既に汗をかいて中のウイスキーは溶けた氷で大分薄くなってしまった。
バーのカウンターには、もう人は居ない。
こんな時世に酒など飲んでいるほうがおかしいのだ。
片付けを始めていたマスターがを見遣って溜息をついた。

ちゃん、飲みすぎじゃなァい?」
「たまにはいーでしょぉ…」

グラスの中の氷が、からん、と音を立てた。
マスターの言うとおり、少し飲みすぎたかもしれない。
気分も悪くなってきた。

「…やっぱ帰る…」
「そうしなさいな。お勘定は?」
「…」

くらくらし始めた頭を抑えて、片手でポケットを漁り小さな指輪を取り出すと、はそれをマスターに投げてよこした。

「…18金のリング。今までのツケの分も、それでチャラにして…」
「…オーケイ」

首を少し斜めにして答えたマスターに片手を上げて別れると、はバーから地上に向かう階段をゆっくりと昇った。
コンクリートの冷たい温度が肌に心地いい。
吐き気がするのは変わらないが、ほんの少しばかり気持ちが楽になった気がした。