父親は既に他界、母親は戦争で行方不明。 特技:往復ビンタ 「…往復ビンタ?」 道場の縁側に座って煎餅を貪ってさらりと言ったジュウザを、トキはじろりと無言で見遣った。 「…まぁその、なんだ、ちょっと声かけたらビシバシッ、と、こう…」 の情報が書かれた紙を受け取り、トキは礼を言うとジュウザに茶を勧めた。 トキは北斗神拳伝承者の第一候補である。 北斗神拳は一子相伝、他の者に万一にでも奥義を奪われるわけにはいかない。 「ま、なるようになるだろうさ」 北斗南斗の事情に聡いジュウザはトキの心中を察したのか、茶を啜って最後に煎餅をもう一枚手にすると、ごっそさん、と言い残して帰っていった。 「…つかみ所のないやつだ…」 菓子入れの中の煎餅は、もう1枚しか残っていなかった。 戦争が終わっても、人々の暮らしは豊かになどなっていない。 は刺青師だ。 彼女にはこれしかないのだ。 がらん、と錆びた缶が転がって音を立てた。 「あ…」 子猫はの視線に気がついたのか、顔を上げて微かな声で鳴いた。 「にゃぁ」 硝子玉のような両の眼がを捕らえた。 「…お前、ひとりぼっち…?」 聞いても返事など返ってこないとわかっていても、はなんとなく子猫に尋ねてみた。 「…おいで」 自分で立つのも億劫そうな子猫を抱き上げると、は数十メートル先にある塒に向かって歩き出した。 「お前、怪我してんの?」 腕の中の子猫はごろごろと喉を鳴らしているだけだった。 (手当てしてやらなきゃ…) 考えたの脳裏に、ふとトキの言葉が蘇った。 ここ最近、腕の立つ医者がいる診療所が出来たと聞いたことがある。 「ね、痛い?」 今度は素直に応えた子猫に、聊か複雑な気分になりながら、は塒に向かっていた足を止めた。 あの何故だかイライラする男に借りを作るのは気が進まないが、実際見てもらうのはではなく子猫である。 どうせどこまで行っても瓦礫の街では路地裏のような饐えた匂いがしているけれど、表通りに出ると少しだけ気分が晴れた。 ついでに猫を洗うのも任せてやろう。 不機嫌そうに歩くを、子猫は丸い目でじっと見つめてもう一度鳴いた。 「にゃあ」 と。
名前は、心身共に性別は女性。
21歳、ちょっと猫目の美人。
付き合った男は今までに3人ほどいるが、最初の男以外は長く続かなかった。
最近は男と交際している様子は無い。
顔は可愛いが口調は冷たい。
言い寄る男が多いが、今は全員振っている。
好きな食べ物はエビ、嫌いな食べ物は茄子。
廃ビルのバーでよく飲んでいる。
「おう。しかも結構痛いぜ」
「…」
何故痛いとわかるのか。
というか、食らったのか、往復ビンタ。
トキが生暖かい目線を送ると、ジュウザは遠い目をしながら言った。
「状況はよくわからんが、多分それは君が悪いな」
「なんだよ、せっかく情報持ってきてやったんだから礼くらい言えや」
「はは、すまん。確かに嬉しい。ありがとう」
あの日会ったきり顔も見ない彼女の凛とした眼差しを思い出し、トキは曇り空を見上げた。
できれば今日も診療所に行きたかったが、師父・リュウケンに出て行くところが見つかって止められたのだ。
まだ伝承者になったわけではないが、師父は既にトキを伝承者にするつもりでいるらしい。
それで彼が北斗神拳を医療に使う事に難色を示しているのだ。
北斗神拳は暗殺拳、次の伝承者に相応しい者が現れるまで、その拳の極意は他に漏らしてはいけない。
そして伝承者として一番に名が挙がっているトキが、誰よりもそれを自覚していなければならない。
師父の意見はこういったものだった。
「…そうだな」
飄々とした後姿を見ながら、トキは小さく笑った。
ブルー・ローズに微笑を
4. His matter, her matter.
路地裏の空気は饐えて吸い込む度に胸がむかつく。
しかし塒が路地裏にあるものだから、はいつもこの饐えた匂いを吸い込みながら帰路につく。
貧しさばかりが膨らんで、残ったのは怪我人や病人、瓦礫と砂漠、そして無法地帯のみだ。
はそんな世の波を上手くすり抜けて生きている。
女一人でも生きていけるのは、彼女が特殊な職を持っているからである。
彼女の家は母親の祖父の代からずっと刺青師である。
幼い頃から匠の技を叩き込まれた彼女の腕は祖父や母親を唸らせ、何度かその手の連中の肌に刺青を彫ったこともある。
それがこの時世、どういうわけか徒党を組む連中に受けが良く、腕が立ち気の強いはどうにか人の肌に色を入れることで雨露を凌いでいるというわけだ。
勿論男性が超がつくほど苦手なにとっては、できれば早く辞めたい仕事なのだが、それが出来ていればいつまでもこんな仕事をやってはいない。
だから我慢している。
それだけだ。
ふと目をやると、の足元に茶色っぽい毛玉が蹲っていた。
痩せて今にも死んでしまいそうな、小さな子猫だ。
がしゃがみこんで手を出すと、子猫はごろごろと喉を鳴らして、薄汚れた頭を擦り付けてきた。
母親はもういないようだった。
すると猫は、にゃぁ、と応えた。
つれていって、ひとりにしないで。
痩せた猫の声は、の耳にはそんな風に聞こえた。
確か粉ミルクがあったはずだ。
猫にも飲めるだろうか。
そんなことを考えながら、はふと子猫の右前足に血がこびり付いている事に気づいた。
去り際に、彼はなんと言っていただろうか。
確か、そう――
『近くで診療所を開いているんだ』
『怪我や病気をしたら、いつでも来てくれ』
「……診療所って、アレよね」
この辺りの人間に聞けばすぐに場所はわかるだろう。
だが、トキに世話になるというのが少し癪で、は子猫にまた尋ねた。
「にゃ」
「あ、そ…」
四の五の言っている場合ではない。
餅は餅屋、というではないか。
子猫だろうが人間だろうが、怪我をしたら医者に見せるのが道理だ。
だからこれは借りになんてならない、と無理矢理自分に言い聞かせると、は路地裏を抜けて表通りに出た。
こうなったら”お医者様”に頼りきってやる。