衝撃の後、地響きと共に崩れていくビル群の間をすり抜けて、トキは走っていた。
後ろに続くのは弟のケンシロウと、そしてその恋人でありトキ自身の想い人でもあるユリアだ。
核の炎が世界を灼熱地獄に変えた後、間髪居れず人間を襲ったのは死の灰である。
有害な放射性物質を含んだ残留物は、浴びただけで人間の身体を蝕む、まさに恐怖そのものだった。
終わらない悪夢から逃れるため、人々は地下壕に避難し、トキたち3人もまた地下壕に入るべく走っていたのである。
「は…早く地下壕へ!!」
ケンシロウとユリアを急かしながら、トキはようやく地下壕に辿りついた。
しかし、その中には既に多くの子供達が年老いた女性に連れられて泣きながらごった返していた。
「ご、ごめんなさい、ここはもう一人…いえ、どうつめても二人までです!!時間がありません、すぐに死の灰が押しよせてくるわ!!」
女性が叫んだ。
二人までなら入れる、しかし二人しか入れない。
それを聞いたトキは瞬間的にケンシロウとユリアを押し込んでシェルターを封鎖した。
これでいい。
二人は幸せになるべきだと、死の灰を浴びるのは一人でいいと思ったからだ。
それに、トキは知っていた。
自分が伝承者になれば、必然的にユリアと結婚させられるということも。
けれど、ユリアの気持ちはケンシロウにある。
真実の愛無くして、彼女と結ばれるのは嫌だった。
ケンシロウが伝承者になれば、その問題も解決する。
だから、
―――これでいいんだ。
中からケンシロウが扉を叩く音がした。
その音を聞きながら、トキは目を閉じて扉に寄りかかり、最後の瞬間を待とうとして――
「ちょっと!!何やってんの!!!」
「…!」
突然かけられた声に顔を上げた。
見れば、息を切らした若い女性が一人、封鎖された地下壕の扉にもたれかかるトキの前に立っていた。
ぱっちりとした双眸の女は、トキを睨むと、生を諦めた男の手を掴んで早口で言った。
「ここ、もう閉まったんでしょ!?なら別の場所に行くよ!!」
「え、」
「立ちなッ!!」
二の句を告げる余裕も無く腕を引かれて、トキはただ言われるがままに立ち上がった。
往生際が悪い事に、すんなりと腰を上げた自分に驚きながらも、女性に握られた手は振りほどけずにトキは走った。
これではケンシロウとユリアをシェルターに押し込んだ意味が無くなる。
それなのに、走ってしまう。
自分がどうしたいのかすらもわからなくなって、トキはただ足を前に出した。
がらがらと瓦礫が落ちてくる音がする。
トキの手を引く女が叫ぶ。
「ここを真っ直ぐ行けばもう一つ小さな地下壕がある!!知り合いのバーの主人とこだから、知ってる人も少ない!!行けるね!?」
「ああ、もちろ…」
ふと横を見て眼に飛び込んだ女の横顔に、トキは一瞬我を忘れた。
ハニーブラウンの柔らかそうな長い髪が靡いて、汗ばんだ額に少し張り付いている。
ただ前を見つめて凛と輝く、萌黄の瞳。
緊張気味に寄せられた眉、きつく引き締められた瑞々しい唇。
全てが、まるで映画のワンシーンのようにきらめいていた。
「…!」
「ちょっとアンタ、聞いてんの!?」
「あ、ああ!」
返事をしないトキに苛立ったのか、己を見上げて睨みつけた女に、トキは慌てて首を縦に振った。
それを見ても、女は苛立った様子で眉根を寄せた。
「ッたく、何だってまたこんなやつ…!」
土煙が舞い上がって、背後に迫る死の灰は今にも二人を飲み込みそうだ。
迫り来る死の灰を見たその瞬間、トキは失礼、と形だけの断りを入れて女の身体を抱き上げた。
「ひっ!?」
「急ぐぞ!!」
それだけ言うと、トキは見る間にスピードを上げて、真っ直ぐに地下壕目掛けて疾走した。
先ほどはケンシロウがユリアを連れていた上に、彼がユリアを抱き上げる余裕も無かったので必然的にケンシロウがユリアの手を引いて走っていたが、実際は女性一人と逃げるのならばこうして抱き上げた方が速く走れるのだ。
むしろ、彼女に合わせていたら確実に共倒れである。
自分一人が死ぬのならば構わない。
しかしもう一人、それも自分を助けようとして声をかけてくれた女性まで道連れには出来なかった。
彼女の身体はかすかに震えていた。
怖いのだろう。
当然だ。
ならば尚更、死なせるわけにはいかない。
一瞬でそう判断すると、トキはぐんぐんスピードを上げた。
真後ろにまで迫っていた瓦礫の音が少し遠ざかった。
「ちょっ、下ろし…!!」
「この方が早い!!シャルターはあそこだな!?」
「う、うん、」
前方に見えてきたシェルターは、今にも封鎖されようとしていた。
しかし、遠くから見てもまだ余裕があるようだ。
その扉が閉められかけた瞬間、トキの足は道場で鍛え上げられた全てを証明するかのごとく、瓦礫と土煙が踊る中を走り抜けた。
扉の3分の1が閉まる。
あと5メートル。
「しっかり捕まっていろ!!」
叫ぶや否や、トキは更に加速をつける。
3メートル、
1メートル、
そしていよいよ扉の3分の2が閉まるその時、抱き上げた女性と共にトキの身体は横倒しになり、そのまま見事に扉の隙間に滑り込んだ。
タックルよろしく滑り込んだトキが彼女を下ろして身体を起こしたと同時に、扉とラスト1センチの隙間が綺麗に塞がり、雪崩のような死の灰の衝撃が響いたのだった。
*
は世界の終末のようなあの日、とにかく生きたくて走っていた。
男が苦手なのは相変わらずだったが、それでも死にたいとは思わなかった。
むしろ、その逆だ。
こんなところで死んでたまるかと、ただそう思ったのである。
それは、走っている途中で瓦礫に押し潰された人の死体を見たからじゃない。
ただ、嫌だった。
男を怖がる自分のままで死んでしまうなんて真っ平だと思ったのだ。
その所為だろうか。
全てを諦めたような清清しい表情で閉まった地下壕の扉に凭れかかる男を見て、は無性に腹が立ったのである。
こんなに生に執着している自分の前で、そんな顔をするな。
まるで自分が惨めで浅ましい人間のようじゃないかと胃がむかむかしてきて、気がついたら彼女は男の手を引いて走っていた。
触れるのも嫌な"男"の手を引いて、自分が何をしているのかすら理解できずに、はとにかく男に最後の望みである地下壕の場所を口にした。
しかし返事が無いので走りながら男の顔を見上げてみれば、聞いていたのかいないのか、まるで呆けた表情をしていた。
(なに、こいつ!!)
「ちょっとアンタ、聞いてんの!?」
思わず声を荒げると、男は素直に謝った。
けれど素直さすら彼女の神経を逆撫でした。
いっそ聞こえなかったとでも誤魔化してくれればが一方的に腹が立つだけで済むのに、中途半端に謝られてもすっきりしない。
男嫌いも相まっては小さく毒づいた。
けれど死の灰が背後に迫った時、そんな悠長を言っている場合じゃないと気づいた。
このままでは、こんな顔見知りでもない男に声をかけた所為で自分まで死んでしまうではないか。
何でこんな男を助けてしまったのかと彼女が内心で悔やんでいると、突然に身体が浮き上がった。
否、浮き上がったのではなかった。
「ひっ!?」
抱き上げられていたのである。
「急ぐぞ!!」
男はそれだけ言うと、の体を抱いたままで先ほどよりも速く走った。
逞しい腕に抱かれてときめく、なんて余裕は無かった。
むしろ逆で、彼女の顔からは一瞬で血の気が失せた。
最悪だ。
なんてことだ。
必死で身体が震えるのを堪えて、は下ろせともがいたが、男はそんな彼女の心中など知る由もなく駆けて行く。
「シェルターはあそこだな!?」
「う、うん、」
男の問いにかろうじて頷いて、後は言われるままに男にしがみ付いていた。
男なんて嫌いだし、怖いし、身体は震えてもう最悪だったけれど、ここで暴れては自分も死んでしまう。
(もう、どうにでもなれ!!)
目を瞑ってじっと堪えていると、男が見事な滑り込みで地下壕にゴールインを果たし、ようやは開放された。
途中で走るのをやめたにも拘らず荒い息をついて呼吸を整えるに、彼女を抱き上げて共にシェルターに入った男は、少しばかり息を整えながらにっこりと微笑んで手を差し伸べたのだった。
そして言った。
「大丈夫か?怪我はないかな」
笑った男の顔は、死を諦めた数分前のそれと同様に穏やかで、けれどどこか、
「…っ、」
―――温かかった。