男が来たのは昼前だった。


「へへ、邪魔するぜぇ」

謙虚さも尊敬の情も感じられない男の声は、平穏な朝を派手に壊して を一瞬にして緊張させた。
遠慮もなく開け放たれた扉。
断りもなく入ってきたのは、大柄で無法者と呼ぶに相応しい格好の若い男だった。
ずかずかと入ってきた男は皮袋を手に持っており、 を見ると袋を漁り始めた。
が警戒しながら様子を伺っていると、無造作に投げつけられた缶詰が二つ、床に転がる。

「彫ってくれや。報酬はこれでイイだろ?」
「……座りな」

男の台詞と転がった缶詰から、 は男が自分の客であると理解した。


大丈夫だ。これは客だ。客というものは性別の関係などなく、客だ。だから問題ない。いつものようにやれる。


(…大丈夫。あたしは、怖くない。怖くない)


すう、と息を吸い込み、静かに吐く。
落ち着きを取り戻す。
何もされなければ、何もなく終わるのだ。
仕事をしよう。
そう仕事を、刺青師の仕事を。


「……デザインは?」
「Zを3つ、右腕の肩のトコに入れてくれや」
「大きさは?」
「こんくれえの字で3つだ」
「……全体で横10センチ、縦5センチくらいでいいんだね」
「まぁそんなモンだ」

男を仕事用の寝台に座らせると、 は仕事道具の入った箱を取り出した。

「色は?」
「黒一色でいい」
「わかった」

道具箱から転写シートを取り出し、シートに下書きをしていく。
出来上がった下書きに客が納得すれば、そのシートを肌の上に乗せ、下書きに沿って針を入れるのだ。
下書きを見せると、男はこれでいいと頷いた。

「先に言うけど、今の時代じゃ十分な消毒が出来ないからね。傷口が化膿することもある。それに、術中は時世関係なしに痛い。いいの?」
「かまわねぇ」
「そう。じゃ、そこにうつ伏せになって」

施術に必要な道具を準備すると は男の方を軽く水に濡らした布で拭き、下書きを男の肩に当てた。

「始めるよ」

入れ墨用の針を手にし、皮膚に押し付けた――だけである。
なのに。

「痛ってえ!!ふざけんじゃねぇぞ、このアマぁっ!!」


突然暴れだした男に、 は動くことも出来ず、仕事道具が床に落ちるのを見ていた。
急に息が詰まる。

(怖くない、怖く)

「てめぇ!!痛えだろうがあっ!!」
「あ…ぐ…」

胸倉を掴まれているのに気付いても、逃げることも出来なかった。


ブルー・ローズに微笑を

9. Your Temperature.


尋常でない音を聴いた瞬間、トキは断りを入れるのも忘れて の小屋の戸を力任せに開いた。
ガン、というスチールの物々しい音と共にトキが中の様子を見ると、そこには大柄な男に胸倉を掴まれて青褪めている の姿があった。

「何をしている!」
「ああん!?何だテメエ!」

男が を掴んだままトキを振り向き、人相の悪い顔でぎろりと睨み付けた。
しかし人相の悪さでは実の兄の方が上回っている。
この程度の無法者の脅しなど全く効くはずもなく、トキは に目を向けた。
男に乱暴をされた形跡はなさそうだが、蒼白で声も出さずに震えている。
只事ではないことは傍目に見ても明白だった。

「彼女を離せ」
「ハアァ?部外者が何言ってやがる」
「離せと言っている……聞こえないのか?」

を掴んだままの男の腕をトキが思い切り掴んで捻り上げると、男は醜い悲鳴を上げて を離した。
ぎりぎりと骨が軋む音がする。

「い、いでえええ!ち、ちっきしょう……!!」
「安心しろ、骨は折らん。だが今度彼女に近づいたら」

男を掴むトキの手に更に力が加わる。

「次は容赦せん…!」
「ひいっ…!!」

下衆ではあるが、力の差には敏感な人物なのだろう。
トキの言葉に、男は素直に頷いて見せた。

「行け」
「はっ、はいいぃぃ!!」

男が荷物を抱えて転がるように部屋を出て行くのを見届けると、トキはすぐに に駆け寄った。
は両肩を抱きしめて蹲っていた。

さん!」
「………!」

トキが声をかけると、 の肩がびくりと跳ねる。

「だ、大丈夫か!?どこか怪我を、」

返事が無いことを心配して、トキが の顔を覗き込むと、彼女は浅く速い呼吸を繰り返して震えていた。
表情は硬く青ざめて、額に汗が浮き出ている。

(これは…)

尋常ではない様子に、トキは がパニック状態であると判断した。
そして、僅かに躊躇った後、落ち着いた声音で彼女に尋ねた。

さん。少しだけ、手を触れる……いいね?」

トキの言葉に が一瞬息を呑んだ。
しかし、怯える にトキは続けた。

「…君を傷つけるようなことはしない。大丈夫だ……」

トキがそう言ってそろりと手を伸ばすと、 は小さく頷いて目を閉じた。
に了承を得たトキは、 の手を優しく肩から放すと、手首に指で触れ気を込めた。

「……!」
「不安を抑え、緊張を解す秘孔だ。ゆっくりと息を吐いてみてくれ」

言われるままに、 は息を長く吐いた。
不思議と苦しさが無くなっていた。

「!」

驚いて が顔を上げると、トキが微笑を向けていた。