がしゃん、と鍋が派手な音を立てて落ち、続いて錆びた空き缶がコンクリートの上をガラガラと転がった。
その音に苛つきながら、 は手にしたパイプを力任せに炉端に投げた。
トキと別れて塒に帰ってきた は、着くや否や落ちていたパイプで家の前を滅茶苦茶に殴ったのである。
救いといえば、拾ったばかりの仔猫がこの音を聞いて怯えなくて良かった事だろうか。
何事かと顔を出した隣人の視線を無視して、 は忌々しそうに立て付けの悪い戸を開けて部屋に入った。

むしゃくしゃする。
あいつのせいだ。
会わなきゃよかった、畜生。

言葉に出すと余計に苛つく気がして、 は沈黙したまま流しの蛇口を捻り、細く流れた水で手を洗った。
手に付着していた汚い泥がアルミのシンクに広がる。
それを目にして顔を顰め、 は適当に水を払うと濡れた手で髪をかきあげた。
少し前に道で拾った、端が欠けて歪になった鏡を見ると、ここ最近で一番最悪な表情の自分がいた。

「…酷い顔」

今日はもう外に出ないほうがいい。
隣のばあ様の体調が悪くならない事を祈ろう。
は深い溜息をつくと、服を脱ぎ捨てて部屋の隅に放り出し、干してあったタオルを濡らして身体を拭いた。
せめて身体だけは清潔にして寝たかったのだ。
少しだけさっぱりした気持ちになって置いてあった毛布に包まると、目を閉じた。
寝てやろう。
イライラしても体力を使うだけだ、そうだ、 は大人しくしているだろうか。
飼い始めたばかりの仔猫のほわほわした毛並みを思い出して、 は深い溜息をついた。

(…優しい男は、大嫌いだ)

 

ブルー・ローズに微笑を

8. Too Complicated.


「よし…これで大丈夫だろう」

短く切った包帯の端を解けないように結ぶと、白い包帯を巻かれたふわふわの右前足がでぴこぴこと跳ねる。
前足の違和感に慣れない子猫は不機嫌そうに一声鳴くと、自分の足に包帯を巻き終えた男を見上げた。

「外すんじゃないぞ。治るまでの辛抱だ」
「にゃう」

子猫を手当てし終えたトキは、救急箱に包帯を片付けて仔猫の頭を優しく撫でた。
猫に人の言葉がわかるとは思えなかったが、子猫はまるで理解したかのようにもう一声鳴くと、診察台の上で行儀良く座った。
どうやら子猫―― は人懐こい猫のようだ。
ぴょこぴょこと尻尾を動かして、トキが救急箱を片付ける様子を見ている。
遊んで欲しいのか、時折足を動かしてそわそわと座りなおす子猫に気づくと、トキは手早く片づけを終えて仔猫を抱き上げた。

「大人しくしていないと、怪我が開くぞ」

掌いっぱいにふわふわした柔らかい毛が触れて、少しこそばゆい。
子猫はトキに抱き上げられると眠くなったのか、ゴロゴロと喉を鳴らしてトキの指を小さな口で吸い始めた。
母親の乳を吸うときの仕草がまだ抜けていないのだろう。
見ているだけで心が穏やかになる一時にトキが暫し癒されていると、診療所の扉を誰かが叩いた。

「どうぞ」

子猫を部屋の端の毛布に包んで寝かせると、トキは内側から扉を開けた。
扉の向こうに立っていたのは、兄弟の末っ子であるケンシロウだった。

「ケン。どうした?」

トキが顔を出すと、ケンシロウの足元から小さな男の子が少しだけ頭をのぞかせた。

「おや……」

トキが事情を聞くより早く、ケンシロウが状況を説明した。

「遊んでいて膝を擦りむいたらしい。包帯が絆創膏はあるだろうか」
「なるほどな。では手当てをしよう。入ってくれ」
「ありがとう。…さぁ、中へ」

トキが二人を招き入れると、続いてもう一人、後ろからこれまた小さな女の子が遅れて入ってきた。
栗毛を二つに束ねている、気の強そうな女の子だ。

「おや、君も怪我かな?」
「ううん。タッちゃんのカノジョだからいっしょにいるの!タッちゃんがだいすきなのよ!」

トキの問いかけにあっさりと予想外の答えを返した少女は、さも当然と言わんばかりに部屋の中に入って、怪我をした少年の隣を陣取った。

「はは…それは失礼」

思いもよらぬ応えにトキが肩を竦めると、ケンシロウが同意するように苦笑した。



少年の手当てが終わると、少女は嬉しそうにひまわりのような笑顔を見せて、「どうもありがとーございます」と拙い口調でトキに礼を言った。
続いて少年も時とケンシロウに照れ笑いしながら礼を述べ、幼いカップルは元気に診療所を飛び出していった。
小さな二つの後姿を見送って、トキは診療所に残ったケンシロウに話した。

「いや、参ったな…最近の子は皆あんなにませているのか?」
「どうだろうか…。楽しそうなのはいいことだと思うが」
「そうだな…」

楽しそうなのはいいことだ。
それは確かに、シンプルだが全く以ってその通りだ。
まだ幼い分ごっこ遊び的な部分もあるのだろうが、本人達が良いのであればそれはそれで良いのだろう。

それでも正直に誰かを大好きと言えるのは羨ましいものだ。
特に今のトキには、先ほどの少女の言葉は響いた。
僅かに黙り込んだトキに、ケンシロウが問いかけた。

「トキ、何かあったのか?」
「…うん?」
「少し表情が硬い気がする」

ケンシロウの言葉に、トキは僅かに目を瞬かせた。
まさかケンシロウにまで指摘されるとは。
人の感情の機微には鋭い弟だが、簡単に見抜かれてしまうほどに無防備になっていたのは自分だ。
自分は思っているよりも重症なのかもしれない。
これらの逡巡を瞬きの間に済ませると、トキはケンシロウにいつもの笑顔で答えを返した。

「そうか?いつも通りだが」
「貴方はいつも通りじゃない時にいつもそう言うのだ」
「…はいはい。あまり兄を困らせるものじゃないぞ、ケン」
「都合が悪くなると子ども扱いする」
「それは悪かった。お前は立派な大人だったな。ならば、立派な大人のケンシロウにはお願い事をしよう」
「…ぬぅ」

トキが爽やか笑顔でケンシロウの肩を叩くと、ケンシロウは悔しそうに黙り込んだ。
兄は強し、だ。



ケンシロウに兄の権力を行使して診療所の留守番を頼んだトキは、 から預かった子猫を抱き上げて彼女の元に返しに出掛けた。
の住んでいるスラムは老人が多く、若い人間はあまり住んでいない。
老人達は世話をするのに手間がかかる割りに仕事が出来ない。
一人で生きていくのが精一杯なこの時世に、老人の面倒を見ている人間はそう多くいないのが現状だ。
それでもここに彼女が住んでいるというのには、何かしら理由があるのだろう。
ただ優しいというような、漠然とした個人の性格の話ではなく、男性に恐怖する彼女の言葉に繋がるようなものが。
子猫を返しに来たのも半分はこじつけだ。

しかしそれでも、知りたい。

ちぐはぐなのに生きることに一生懸命な彼女を、知りたい。

「おやまぁ、トキ様。こんなところまでどうなさいました?」

錆びた薄い板張りの家の前で日向ぼっこをしていた老婆は、トキの姿を認めると皺だらけの瞼を数回瞬かせた。
老婆の問いかけに、トキは微笑みを向けて答えた。

「こんにちは。 さんに預かっていた猫を返しに来たのですが」
「あらまぁ」

トキの返答に老婆は僅かにうろたえた。

「そう…そうですか。 ちゃんねえ、今はちょっと…お客さんが来ててね……」
「客…ですか?」

トキが尋ね返すと、老婆は目を泳がせながら頷いた。
動揺している。
何に対して、だろうか。

「ええ……」
「なるほど…それでは、」

トキが何かを言おうと口を開いた、その時である。

「痛ってえ!!ふざけんじゃねぇぞ、このアマぁっ!!」

荒々しく野太い声が、 の小屋の中から響き渡った。