兄を超えたいという思いで伝承者の最候補として選ばれた。 師父・リュウケンがトキにしか話していないことがある。 更に彼を悩ませたのは、その南斗の相手とやらの事項である。 「…無茶苦茶だ…」 確かに彼女は南斗の者に連れてこられていたが、北斗神拳伝承者と婚姻を結ぶことになること知っているのだろうか。 診療所の中に足を踏み入れると、つい最近来た時そのままの状態になっていた。 自分はどうしたいのか。 (彼女のことも、諦めなければならなくなるな…) では伝承者の道を辞退すればどうなる? ふと壁際に目をやると、誰かが忘れて言ったらしい杖がぽつんと転がっていた。 少なくとも、今はまだ完全な伝承者ではないのだ。 バンバン、とベニヤ板を叩く音が聞こえて、惰眠を貪っていたは身体を起こした。 「はいはい、今行くよ」 上着を羽織ってサンダルをつっかけて外に出ると、はすぐ隣の部屋の戸を開けた。 「ごめんねぇ、ちゃん」 婆様はの姿を目にすると、皺くちゃの顔で笑った。 「悪いねぇ、ありがとうよ」 礼を言って眉を申し訳なさそうに寄せた婆様に、は首を振った。 嫁も息子も死んじまってねぇ、あたしゃもう何のために生きてるんだかわからないんだけど。 とつとつと語った老婆の寂しさがにもわかるからこそ、は彼女の身の回りのことを出来る限りしてあげようと思う。 「他には何かして欲しいことない?」 がそういうと、婆様は何本か歯の抜けた口をあけて、また笑った。 何いってるんだい、若い子がこんな所でばばあ相手にしてくさくさしてちゃダメさね。 悪意のない言葉はを僅かに困らせたが、老婆の言葉どおりにはとりあえず外に出る事にした。 「じゃあね、ばあちゃん。夕方にはまた様子見に来るから」 にこにこと笑う老婆に声をかけて、ぎしぎし鳴る戸を閉めると、は顔を上げて表情を変えた。 立て付けの悪い戸を閉める前に彼女が見せていた笑顔が新鮮で、トキはただ呆然と長屋の前に立ち尽くした。 しかしトキの想いなどおかまいなしで、は先ほどの柔らかい笑みをさっぱりと消して見せた。 「…こんなトコに何の用?」 数秒前までの優しく明るい声が同じ人物から発せられたとは思えないほど冷たい声だった。 「あ、ああ…杖を届けに…来たんだ。その、お年寄りの患者さんが忘れていってしまったから」 はトキの言葉に短く返すと、彼の手から杖をもぎ取って再び後ろの長屋の戸を開け声をかけた。 「あ…!」 は戸を開けて声をかけるなり、そのまま中に入っていってしまった。 「トキ様!トキ様じゃないですか」 何度も何度も頭を下げる老婆に、いえ、散歩がてら寄っただけですからと答えると、老婆の隣でが顔を背けた。 「まあ、そんなとこにおらなんで、どうぞ上がってくださいよぅ。ちゃん、お水お出ししてくれるかね」 一方老婆の手前、嫌だとは言えずには素直に従った。 「ちゃん、何機嫌損ねてるんだい」 早足でさっさとその場を去ったに、トキは声をかける間もなく小さく溜息をついた。 「ごめんなさいねぇ、トキ様。あの子、いつもはいい子なのに…何故か男の人の前でだけ、ああなってしまうんだよ」 溜息混じりに呟く老婆の言葉に耳を傾けて、トキはが出て行ってしまった戸口を見つめた。 「あの子のこと、気に入ってらっしゃるんですかい?」 トキがどう答えたものかとうろたえていると、老婆が戸口を見つめて話し始めた。 「ねぇ、トキ様。あたしはねぇ、あの子によく助けてもらってるんですよ。お隣さんだからっていうのもあるだろうけど、それにしたってほんとにいい子でね。壁を叩くとすぐに来てくれる。ばあちゃん、どしたの、って。この間も仔猫を拾ってきててね、どうしたのその仔猫って聞いたら、仕方ないから飼ってやるんだ、って。あの子、自分の食べ物だって沢山有るわけじゃないのに…」 きっと、何か辛いことがあったんだろうねぇ。 悲しげに語る老婆の言葉に、トキはただ黙って頷いた。 もし、何か辛い目にあったのなら。 その所為で彼女が自分にあんな行動をとるのだというのなら。
ふんわりとした雲を見上げて、トキは笑みを零した。
このところ天気が良い。
天晴れとまではいかないが、穏やかな日が続いているのは確かだ。
木々も花も枯れ果てて、しかし未だに太陽の恵みは惜しまれずに降り注いでいる。
正に散歩にはうってつけと言えるだろう。
トキはそれを素直に嬉しいと思った。
しかしそんな中、同時に予期せぬ事態が起ころうとしていた。
それは、伝承者となったものが南斗の者と婚姻を結ぶという話である。
当然トキはそんなつもりで伝承者になりたかったわけではない。
ただ、己が積み上げてきたものが兄を越える位置までに到達したことが嬉しかった。
伝承者になる、ならないは正直なところ目標ではなかった。
ただ兄を超えたい。
己の前を常に歩き、己を律し強くあり続ける兄を追い越したかっただけである。
聞けばどうやらその人物というのが、弟ケンシロウの恋人で、己のかつての想い人だったユリアだという話だ。
戦争云々で流れてくれればいいと思っていたりもしたのだが、どうにもそうはいかないらしい。
状況が少し落ち着いてきたからか、リュウケンは再びその話をトキに持ちかけたのである。
そして、難色を示した彼に対し”決定事項だ”とまで言いつけた。
これには流石にトキも辟易としたわけで。
おそらく知らないのだろう。
知っていればケンシロウと恋人関係になったりなどしない。
となれば、このまま己が伝承者でいるならば弟もかつての想い人も、己すら幸福とはいえぬ道を辿るだろう。
如何すればいいのか。
思考の海を漂いながら当て所なくただ足を前に動かしていると、診療所についた。
足がいつの間にかここに向いていたらしい。
毎日足を運ぶことが出来ないのが悔しい。
少なくとも3日に一度はこうして患者を見にここまで来ているのだが、リュウケンは既にトキを伝承者とみなし、開業医の真似事はやめろと言い続けている。
トキは己に問いかけた。
兄を超える強い男になりたかった。
同時に、この知識と力を、ずっと医療に使いたいと思っていた。
伝承者で居続ける事を選ぶなら、医療の道は閉ざされるかもしれない。
閉ざされなくとも、どの道弟の恋人を奪い、後悔の念に苛まれるだろう。
この拳が潰される。
それだけだ。
それで全てが終わってしまう。
手にとって見れば、この間からここに通っている老婆のものだった。
以前来たときは若い者が連れてきたから、帰りもそうしてもらったのだろう。
それで杖を忘れていってしまったようだ。
なければ困るはずだと思い、トキは老婆の住んでいると聞いた地区に足を向けた。
患者の忘れ物を届けたところで文句など言われまい。
そう言い聞かせて、トキは散歩の時間を少しだけ延ばす事にした。
*
の塒はベニヤ板一枚で区切られた掃き溜めのような長屋の一室である。
核戦争が起きて早々まともな住処など見つけられず、やむを得ず避難民達が立てたそれは、どうにかこうにか地下水を汲み上げる水道管を引っ張ることが出来たおかげで、少なくとも生活に一番重要な基準だけは満たしていた。
しかし生活音や戸の軋みなどはどうにもならず、強度も脆いおかげで嵐の夜などは雨漏りがしてくる。
住民がそれでもそこに住んでいるのは、薄い壁を活かして、いざと言う時に隣の住人に助けが呼べるという利点のためであった。
実質、今の世の中食料や生活用品が足りなくなっても買い物になど簡単には行けない。
必要な物しか手に入らないし、必要な物しか買いに行けない、そして買い物と言う名の物々交換に使う品も、余裕がなければ使えない。
必然的に近くにいる者と何かを交換して補う、または借りると言ったやり方が最も手っ取り早くなる。
隣人とのコミュニケーションはどうしても必要不可欠だった。
隣の婆様だ。
齢80を跨いだばかりだと言う彼女は腰が弱く、杖が無くては立つこともままならない。
その杖をどこかに置いてきてしまったものだから、彼女はここ数日に介助を頼んでいた。
干草のような懐かしい匂いが鼻をつく。
齢をとるとどうにもいかんでねぇ、お水を飲みたいんだけど水差しの中が空っぽなのを忘れてたんだよ。
弱弱しい声で言う彼女には小さく笑うと、彼女が差し出した水差しを受け取った。
若い男には諸事情によりかなり辛辣で冷たく思われるだが、元来年寄りにはそう辛辣な性格ではない故、彼女はこの長屋ではそれなりに慕われている。
「いいよ、別に。あたしも退屈してたし」
この婆様は身よりも無く、たった一人戦争を生き抜いてしまったのだと言う。
でもこうして生きているからにゃ、せめて旦那や息子達に合わせる顔が無いような死に方はしたくないんだよ。
あの子等が喪った分だけ、あたしが生きていようと思うのさ。
水差しを満たし、そこから水をコップに注いで老婆に手渡すと、はゆっくりと水を口にする老婆の隣に腰掛けた。
満足そうにコップの中身を飲み干した老婆は、にまた礼を言った。
「ああ、ああ、もういいよ。夕飯時にでも呼ぶかもしれないけどねぇ、今はもう大丈夫さ」
「そう?なんかあったらすぐに呼びなよ、ばあちゃん。あたしどうせヒマなんだから。寝てるだけだしね」
散歩でもしておいで。
ついでに旦那様でも捕まえてくりゃあ、もっといい。
いつまでも女の子が一人で居ちゃいけないよ。
男を捕まえる気は全くないけれど、これ以上婆様と話していても逆に彼女を困らせるだけだろうと思ったからだ。
「ああ、行ってきなさい」
「…あ…」
彼女がここ最近で一番会いたくない男が、そこに居たからである。
ブルー・ローズに微笑を
6. Missing
people.
トキは杖を手にして、擦れ違う顔見知りの患者達に老婆の住処を聞いて長屋の前までやってきた。
これが無ければ困るだろうと思っただけで、それ以外の意図はない。
しかしまさかこんな処で、ずっとまた会いたいと願っていた彼女に遭えるとは思っても見なかった。
綺麗で純粋な、悪意など全く無い笑顔。
それを目にした瞬間、トキの胸はまるで締め付けられたように鈍く切ない痛みを発した。
同時に、顔が熱くなっていく。
こんなにも誰かに激しい想いを抱いたことなど、これまであっただろうかと思うほど。
それどころか、まるで敵を見るような眼でキッと彼を睨むと、あからさまに不機嫌な声を出してみせる。
けれどそれにショックを受けるより先に、トキは我に帰って自分の目的を思い出した。
そうだ、ここには用があってきたのだ。
それを先に済ませてしまわなければ。
「…あっそう」
「ばあちゃん、ちょっと。杖の届けもんだって」
中からは確かにあの杖の持ち主の老婆の声が聞こえてくる。
彼女はあの老婆とは親しいのだろうか。
控えめに中を覗き込むと、トキに気づいた老婆があれぇ、と声を上げた。
「ああ…どうも、おばあさん。杖をお忘れでしたから伺ったんですが」
「あれま、じゃあトキ様がわざわざ持ってきてくだすったんですか!まあ、まあ、悪いねぇほんとに…」
機嫌が悪いのだろうか。
それとも、何か嫌われるようなことをしてしまったのだろうか。
トキが不安を抱きながら外で立ち尽くしていると、老婆が声をかけた。
「…いいけど」
水くらい出してやらんでもない。
この男は婆様の客で、自分は婆様の手伝いをしているのだから、別にこれはの好意でもなんでもないのだから。
老婆にした時よりも乱雑にコップを取り出して水を注ぐと、はそれをぐっとトキに突き出して手渡した。
その不躾な様子を見て、老婆がこれこれ、とを嗜める。
「別に」
「そんな仏頂面して、何が別にだね。ほれ、トキ様に失礼だよ」
「うるさいな、あたし外歩いてくるからもう行くよ、じゃあね!」
どうやら彼女は虫の居所が悪いらしい。
肩を竦めて手渡されたコップの水を飲み干すと、老婆が申し訳なさそうに笑った。
「男性の前でだけ…ですか?」
「そうさね。あの子、あたしと居るときはちゃんと笑うことが出来る子なんだ。なのにねぇ…どうしてなんだか…」
すると、老婆がトキを見遣って皺だらけの顔で微笑み言った。
「えっ!?あ、いや、その…私は…」
「…」
「あたしみたいな年寄りの我侭も何にも言わずに聞いてくれるんですよ。あんなにいい子が、なんであんな風にならなきゃいけないんだろうねぇ…」
それであんな風にならなきゃいけなくなったのさ。
あの子が理由もなく誰かを嫌うとは、あたしには思えないんだよ。
あの子は本当に、本当にいい子なんだから。
そして一瞬垣間見た彼女の笑顔を思い出し、思った。
自分がそれを癒してあげることはできないのだろうか、と。