「…暢気だね、アンタは」 仔猫を腕に抱いたままで居住区から出ると、
はそのまま廃墟のビルに上がった。 「あっ、こら」 落ちるといけないと思い追いかけて、
は足を止めた。 「よしよし、いい子だ」 抱き上げられた
が頬を摺り寄せた男の顔を見て、
は本日二回目の苛立ちを覚えた。 敵意たっぷりに自分を見る女の眼に、トキは少なからず傷ついた。 「すまない、つい可愛らしかったものだから」 無言で仔猫を受け取って不意と顔を背けた
に、トキは意を決して口を開いた。 「
さん」 トキの言葉に、
は少しだけ驚いたように目を見開いた。 「私が命を拾ったのは、君が手を引いてくれたからだ。本当に感謝してもしきれない。…本当に有難う」 そう言って頭を下げそうになったときを見て、
は思わず後退った。 「ちょっと待ってよ、アンタ何勘違いしてんの!?」 礼を言ったのに何故かきつい言葉を浴びせられ、トキは顔を上げた。 「あたしは別にアンタみたいなの、助けようと思ったわけじゃない!ただ目の前で人が死ぬのを見たって気分悪いからよ、それだけよ!」 一段ときつくなった
の眼に、トキは仕方なく引き下がった。否、そうしなければ彼女を更に怒らせてしまうと思ったのである。 「その、気を悪くしたのなら…謝ろう」 トキの問いかけに、仔猫を抱いた
の眉がぴくりと動いた。 「…
の怪我」
の答えを聞いたトキは俯いて、すまない、と直ぐに詫びた。 「それは悪かった。その、丁度その日は行けなかったもので…」 トキの謝罪を十分と取ったのか、
はそれだけ言うと態度はそのままに仔猫をぐっとトキの方に突き出した。 「は?」 慌ててトキが仔猫を受け取ると、
は鋭い目でトキを下から見上げた。 トキが抱いていたユリアへの想いは、確かに愛だった。 トキは、もしも誰かが
と相思相愛になれば、彼女を何としてでも手に入れたいという思いの方が強くなるだろう己をこの場ではっきりと自覚した。 「…
…さん?」
は、これでギブアンドテイクで対等になり、その後は縁を感じる必要も無くなる、という意味で言った。 「ああ!任せてくれ」 やたら嬉しそうに頷いたトキの表情に、
は一瞬何か嫌な予感がしたもののこれ以上話したくなかったので何も言わずにあえてそのままにしておいた。 「もう日が暮れる。夕暮れ時は危ないし、送っていこう」 ぴしゃりと断られ、おまけに踵を返した
に置いてけぼりを食らうも、ただ穏やかなだけがトキと言う男ではない。 「このあたりは物騒だろう。女性が一人で歩いていい場所ではない」 階段を早足で下りる
に、トキは尚も食い下がった。 「暴漢にでも襲われたらどうするのだ」 突然立ち止まった
を不審に思い、トキはゆっくりと彼女の顔を覗き込み、そして僅かに眼を驚愕に見開いた。 「…どうし…」
の様子がおかしい事に気づいたトキが恐る恐る声をかけようとしたその時、
の今までに無い冷たい声がトキの耳を打った。 「襲われたりなんかしない…するはずない…!アンタと話してるほうが時間の無駄よ。帰って、さっさと行きなさいよっ!」 まるで何かに怯え、それを打ち消そうとでもするかのように闇雲に叫んだ
の声に、トキはただ呆然と彼女の複雑に歪んだ顔を見つめ、確信した。 「…まさか…何かトラウマでも」 返された言葉に、重いもので潰されたような衝撃がトキの胸を駆け抜けた。 「行けって言ってんのが聞こえないの!!!?」 今にも掴みかかりそうなほどに興奮している
に、トキは落ち着いた声で頷き、できる限り彼女を刺激しないように彼女を追い越し、階段を下りた。 ビルを出て、トキはすぐさま姿を隠し気配を消した。
老婆の家を飛び出していった
は、部屋の前でヒマそうに毛づくろいしていた
を拾い上げた。
柔らかい毛の感触が掌に伝わり、苛立っていた心が落ち着きを取り戻す。
眠そうに喉を鳴らして欠伸をした子猫に、
は呟いた。
日が暮れ始めている。空は淡い藤色と薄いオレンジ色のグラデーションで彩られて、雲が落陽の光を受けて輝いていた。
傾いたビルの屋上が、今の塒に住み着くようになってからの
のお気に入りの場所だ。
抱いていた仔猫がもぞもぞと動き、
の腕からするりと抜け出した。
にゃあ、と甘えた声で
ではない者の足に擦り寄る仔猫を、その者が抱き上げる。
ブルー・ローズに微笑を
7. The Cage.
「…その子、私の猫なんだけど」
嫌われているのか、あの老婆の通りただ全ての男性に対して同じ態度なのかはわからないが、こうも敵対心を剥き出しにされては喜ばしいわけがない。
勝手に猫を抱いたのが悪かったのだろうか。
可愛がっている仔猫なら、そう感じてしまってもおかしくはない。
それならば、これ以上嫌われる前に早く返してやろうと、トキは腕にじゃれつく仔猫を抱き上げて宥め、
に差し出した。
「…」
今日ここまで追いかけてきたのは、せっかくの偶然を無意味にしないためだ。
あの日、シェルターから出てからは一度も彼女に会っていなかった。
胸に咲き始めた淡い想いを伝える伝えないは別として、
はトキにしてみれば命を助けてくれた恩人なのである。
だからいつかもう一度、しっかりとした形で礼を言いたいと思っていたのだ。
「何よ」
「あの時、私は君に助けられた。その礼を、言いにきたのだ」
見開かれた
の瞳を、ああ、やはり綺麗な色だと場違いなことを考えながら、トキは言葉を続けた。
何を言っているのだこの男は。
からすれば、命を助けられたのは
の方なのだ。
あの時、
のペースで走って二人が助かったはずは無いのだ。
だから命を助けられたのは、不本意ながらやはり
なのである。
それ以前に、そもそも
はトキを助けるつもりで声をかけたわけでもないのだ。
「え?」
「だが、」
「だがもなにも無いわよ、本人がそう言ってんだからそうに決まってんでしょ!?おかしなことしないでよ!迷惑!」
「あ…ああ、わかった…すまない」
「…」
「
さん…?」
から言わせれば、正直なところ彼は特に何もしてはいない。
怒らせるようなことや、直接的に彼女に害を与えるようなことなど一つもしていないし言葉にしてもいない。
あの感謝の言葉も、
が怒る必要など本当は無いのだ。
むしろ、一般的な感性であれば「いいえこちらこそ、正直なんだか目の前で死なれると嫌だななんて思っていただけなのにお礼を言われるなんて嬉しいです」とだけ言えば済む問題である。
何一つ腹を立てる必要など無い上に自分の方がうんと失礼な態度を取っているということは、
にもわかっているのだ。
しかしそう答えたとしたら、では何故そんなに態度が厳しいのか、と問われるのは必至である。
はその問いが何よりも嫌いだった。
正確には、それに答えるのが。
けれどだんまりを決め込んだところで易々と引き下がりそうにない生真面目そうなトキに、
は仕方なく口を開いた。
「えっ?」
「この子の怪我よ。猫だけど一応診てもらおうと思って診療所に行ったらいなかった。アンタ、いつでも居るとか言ってたくせに」
「あ…」
確かに、診療所には大抵居るから、という意味で軽々しくそんなことを口にした覚えがある。
それを頼って、彼女は仔猫であってもとりあえず診てもらえるかと足を運んでくれたに違いないのだ。
それが、言った本人がいなかったのでは彼女が多かれ少なかれ気分を悪くしたのは仕方がないかもしれない。
「…あっそ」
いきなり何をしてくるのかと思い、トキは
の行動に驚いて目を白黒させる。
「何してんのよ、さっさと手、出したら?」
「にゃあ」
夕日に照らされて身体の線がオレンジ色に煌くその中で、光を反射する新芽の色をした瞳に見つめられ、トキの鼓動は僅かに高鳴る。
例え彼女の瞳が愛情など欠片も宿していなくとも、ただ見つめられるだけでこんなにも胸が痛くなるとは、恋というものは恐ろしく心を狂わせるものだとトキは思った。
そして、ユリアに抱いていた想いが、恋ではなかったと言うことにも気づく。
その想いは今も抱いている。
幸せになって欲しいと、それだけを願う。
しかし、そこには既に恋慕の情は無い。
恋情を抱くことと愛情を抱くことは、全く違うのだ。
ユリアへのそれは、もはやただの親愛だ。
「その子の怪我、ちゃんと診てやって。それで貸し借りナシになる」
しかし、トキはその意味を解せずに頷いた。
彼女に好意を持つ身としては、トキは
の言葉を純粋に更に親しくなれる、という意味で受け取ったのである。
「…」
日が傾いてきた。直に太陽は地平線に隠れるだろう。
冷えてきた空気に
は肩を震わせる。
それを見たトキが仔猫をあやしながら声をかけた。
「いらない」
颯爽と屋上を降りていく
の後を追い、再び声をかける。
「平気、慣れてるから」
思う相手を夕暮れ時に一人で帰すなど、彼にはとても出来ないのだ。
しかし、トキの次の言葉で、
が足をぴたりと止めた。
「……!」
階段の真ん中で立ち尽くす
の横顔は、明らかに何かに動揺していた。
瞳は踊り場ではなく焦点の合わぬ彼方を見つめ、その頬は青褪めて冷や汗が流れている。
「襲われないわ」
「…!」
は何かに怯えている。
おそらく、ほぼ間違いなく異性に関係することで。
「ああそうよ極度の男性恐怖症よ、だったらなんだって言うの!!?アンタには関係ないでしょ、早く行ってよッ!」
は声を荒げる。
耳を劈く悲鳴に似た叫びが虚しく廃墟に響く。
「…わかった。君の言うとおりにしよう」
腕の中のアメは
が上げた怒声に目を丸くして震えている。
その飼い主は、拳を握り片手で震える身体を抱きしめていた。
遅れて出てきた
は、先ほどよりもかなり神経質に周囲を確認しながら歩いている。
まるでどこかに敵が潜んでいるかのように、僅かな物音にも過剰に反応して。
(なぜ…)
「一体…何があった…!」
見つからないように彼女が無事帰宅したことを確認して、トキは帰路についた。
その表情は終始硬く、抱いた仔猫だけが暢気なままだ。
己が彼女の恐怖の対象であるという事実が、どうしようもなく悔しかった。