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いきなり置いてきぼりになって、おまけに周囲は敵だらけ、とあれば、性根がチキンの桐はまだ一日しか滞在していないと言うのに、もう限界まで神経をすり減らせていた。
どうしてこういうことになるのだろうか。
ただピアノ弾いて来いと言われて来たら軟禁されるなんて、どうなっているのだろうこの世界は。

「もーやだ…もー帰るぅぅ…」

朝から宛がわれた客室の風呂に入って、桐は顔を湯の中に顔を半分沈ませてぶくぶくと泡を立てた。
確かに残ると言ったのは自分だが、あの状況では選択肢など無かった。
もう少し冷静に考えればもっと上手く立ち回れたかもしれないものの、桐はこういった腹芸の経験はそれほど深くない。
慣れている相手や一般人ならまだしも、聖帝を名乗るサウザーの前では効くはずも無いし、嘘などついたら簡単に見破られるのが落ちだ。
それで文句をつけられるよりは従順にした方が彼女の為とも言えるので、この場合彼女の選択は賢明だったのだが、桐はそれを理解できるほど狡猾ではない。
慎重でチキンなだけである。

多分、ソウガが状況を報告しているはずだ。
そうすれば、おそらくは改めて体制を整えたソウガが、もしくはレイナが何かしら手を打ってくれる。
そして多分リュウガあたりは――

「絶対後で怒られる。絶対絶対、厄介事を持ち込むなーとか言われるぅぅ」

めっちゃくちゃ睨まれてその後でこき使われるに決まっている。
そこまで考えて、桐は城を出る前のリュウガの行動を思い出して顔を赤くした。

口紅の色を直して微笑んだ彼は、正直かなり格好良かった。
意地悪上司だと思えないほどに王子様オーラが出ていた。
手つきも、仕草も、顎を固定していた指すらも雅で優しかった。
その後すぐに性悪上司に戻ったが、それでもあの後暫く、桐は胸がどきどきしたままだった。

あれは反則だ、絶対反則だ。
からかっているのか本気なのかわからないから余計に性質が悪い。
なんなのだろうあの上司。
大体思い返してみれば妙に慣れた手つきだった。
他の誰かにもああいうことをするのだろうか。

「…むぅぅ」

今度は段々腹が立ってきて、桐は勢いよくバスタブから飛び出すと、ふんぬ!とタイルの上を歩いて石鹸で滑って転んで尻餅を付いた。
どうしようもない光景である。

「くうう…!!」

尻の痛みを堪えてプルプルしながら立ち上がると、バスルームの外から女官が声を掛けてきた。

「特務士官様。聖帝様が演奏を御所望なさっておりますので、ご支度が整い次第、広間へとお越しくださいませ」
「あ、は、はい」

呼び出し来たー!!と心の中でオーマイゴッドのポーズをとって、桐はしぶしぶ風呂から出た。





「来たか、キリ」
「おはようございます、サウザー殿」

愛想笑いを浮かべながら、いつの間にか呼び捨てにされているのを元気よくスルーして、桐はサウザーの前に立った。

「早速だが何か弾いてもらいたい。そうだな、派手なやつだ」
「はい」

何だその派手ってのは!曖昧だよ!とチキンゆえにあくまで心の中でツッコミを入れて、桐はピアノの前に座った。

「リストでよろしいですか?」
「何でも構わん。早く弾け」
「…ハイ。」

(こ、この人超俺様だ!!)

どこか上司に通ずるものを感じ、桐のチキンレーダーが"下手に逆らわないようにせよ"と脳内で警告した。
こういう相手にまともに反応すると痛い目にあうのが彼女の常である。
…といっても、素直に従ったら従ったで怖い目にあったりするので、どっちにしても不幸は必ず降りかかってくるのだが。
平常心平常心、と深呼吸して、桐はリストの超絶技巧練習曲でたった一つ弾けるもの――第7番だ――を奏ではじめた。
超絶技巧練習曲はこれ一つしか弾けないが、改定される前は派手さをウリにしていただけあって迫力はある。

間違えませんように!と願い、必死で弾き続けながら、桐は既に後悔し始めていた。
指が攣りそうなほど早く運指をしなければならないので、この曲はかなり体力と精神力がいる。
ただでさえ緊張するのに、この上リストなんで選ばなきゃ良かった、と弾きながら桐は思った。
曲が終わるとサウザーがピアノに近づいてきて、ゼーハーしている桐に向かって軽く拍手をしてから横柄に言った。

「他には?」
「…ほ、他ですか」
「そうだ。一曲だけではつまらぬ。面白いものを弾け」
「面白い、もの、ですか」

何だこいつぅぅ!と泣きそうになりながら、桐は頭の中で面白そうな曲を模索した。

「それはその、どういう感じで」
「お前が好きなものでいい。弾け」
「ハイ…」

わけがわからないが、桐は呼吸を落ち着けて、とりあえず自分の好きな曲――華麗なる円舞曲を弾くことにした。
これは前に城で弾いたことがあるもので、明るい曲だ。
もともと重々しい曲よりも綺麗なものや気楽な曲のほうが好きなのである。
軽く指を滑らせながら少し心を躍らせて、桐はやっと楽しくピアノが弾けるようになってきて顔を知らずに綻ばせた。
曲を弾き終えると、サウザーが満足そうに手を叩いた。

「ふははっ、素晴らしい。ますます気に入ったぞ」
「そ、それは恐縮です…」
「くく…そうかしこまるな」

桐がへろへろになって畏まると、サウザーは徐にかがみ込み、椅子に座っている桐に顔を近づけてにやりと笑い、とんでもないことを言った。

「どうだ、キリ。お前、この俺様の妻になる気はないか?」
「………………………………………………………………………………………は、」

たっぷり10秒ほど固まって、桐は叫びそうになったところをサウザーの手で口を塞がれて声にならない声を上げた。

「~~~~~~~!?」
「叫ぶな」
「………!!」

どっかで体験したやり取りである。

「喚くなよ」
「……!」

桐がこくこくと首を振ると、サウザーは桐の口から手を離して愉快気に桐の慌てた様子を眺めた。

「さてどうだ、悪い話ではあるまい?」
「い、いやでもあの!私、一応拳王軍の特務士官なんですけど、」
「個人的な話ならば問題あるまい。お前が拳王軍を抜ければよいだけだ」
「そ、そういう話じゃなくてですね、」
「お前の都合は俺には関係ない。イエスかノーか、それだけ答えろ」
「…~~~~~!?」

開いた口が塞がらない、とは正にこのことである。
なんというゴーイングマイウェイぶり。
なんというジャイアニズムだ。

「おっ、お断りしますっ!!あの、私今日はこれで失礼しま」
「待て」

サウザーが逃げるように立ち上がってその場を立ち去ろうとする肩を掴み、無理やり振り向かせて桐の唇を己のそれで掠め取った。

「、っ!」

一瞬で離れたとはいえ、確かに唇に感じた暖かい感触に、桐は目を見開いてサウザーを見つめた。

「ふん…まさか初めてだったか?」
「し、知りません!!」

かっと耳まで赤くなった桐を可笑しそうに見遣って、サウザーは桐を解放した。
手を離されたと同時に逃げるように出て行った桐を見て、サウザーはピアノの椅子に腰掛けて面白いものを見つけたと言わんばかりに高笑いした。

「色よい返事を待っているぞ!特務士官殿!」