何だあいつ、ホント何だってんだよあのやろー!とぶつぶつ呟きながら半ば涙目で唇をがしがしと擦り、は客室に戻った。
ラブもムードもへったくれもない突然のプロポーズに加えて、おまけにファーストキスまで盗られた。
最悪だ。
最低だ。
ばん、と部屋の扉を閉めて鍵を掛け、はそのままベッドに倒れこんだ。
涙が出てきた。
けれど泣いたら負けるような気がして、無理やり涙を抑えると、はクッションに顔を押し付けた。
何かしてくると言うことはわかっていたのに、どうして対応できなかったんだろう。
油断していた自分が腹立たしい。
言葉に惑わされて感情的になったのがいけなかったのだ。
もっと冷静にならなければいけないのに、簡単に煽られすぎた。
ただでさえ今ここには味方はいない。
「…しっかりしろ、。チキンでもやるときゃやるんだから、っ」
しっかりと自分に言い聞かせ、はベッドから降りて洗面所に行き、とりあえず歯を磨きまくって口を思い切り濯いだ。
消毒だ。
気休めだがしないよりずっとましだ。
10回以上口の中を洗浄して、唇も洗顔用石鹸を使って洗いまくると、はタオルでごしごしと唇を擦って一息ついた。
ちょっと唇が赤くなっているが、仕方ない。
挫けてたまるか、と気合を入れて、は乱れた髪を整えると、することがないことに気づいて一気に萎えた。
*
がサウザーのもとに事実上囚われてから2日が経った。
その間、リュウガは仕事を怒涛の速さで片付けることに専念していた。
一刻も早くサウザーのもとに行く時間を作るためである。
それはソウガも同様で、暇を見つけてはリュウガにサウザーの情報を流して彼が上手く立ち回れるようにしていた。
のことはソウガも心配だが、ラオウがリュウガに任せたのだからと、できる限りの為にリュウガに協力することにしたのだ。
そして3日目の朝、リュウガはようやく聖帝の城に向かうと告げた。
それを聞いてソウガが尋ねる。
「何か策はあるのか?」
「特に無い」
「なっ!?だったらどうする気だ!?まさかアドリブで何とかする気じゃ」
「だったら何だ」
いや駄目だろアドリブじゃ!とその場にいた全員が思ったが、妙に自身ありげなリュウガの態度に顔を引き攣らせるだけにとどまった。
ぶっちゃけ轟々と吹き荒れているイライラブリザードに余り触れたくないのが満場一致の意見である。
「それでは心許ない!オレも同行する!」
…ソウガを除いた、だが。
「…もう良い、さっさと行け…」
「は」
「はっ」
どこか疲れた感じで命を下したラオウを気遣わしげに見て、レイナはたった今出て行ったリュウガと兄の中途半端なおかしさにため息をついたのだった。
*
時間は少し遡り、が聖帝の城の一室で歯軋りしてサウザーのセクハラに怒りを燃やした夜。
あまり部屋に篭っていても仕方が無い、と、はバルコニーに出て夜空を眺めていた。
久しぶりに綺麗に晴れた紺碧の空は、月は無くても星が綺麗だった。
その暗さや深さは、拳王府で見る夜空と同じだ。
心を落ち着かせるのにはちょうどよかった。
けれど、ここはあの要塞ではない。
強面の男ばかりだけど居心地の良い、あの場所じゃない。
(…あれ?)
そこまで考えて、は気がついた。
いつの間にか、自分がこの世界に居ることに違和感を覚えなくなっていることに。
最初の頃はいつ元の世界に帰れるのかが不安で、生き抜くことだけを考えてきた。
けれど、リュウガの元を離れて敵地に居る今、初めて気がついた。
元の世界のことを忘れかけている自分が居るのだ。
(なんで)
(私は、ここにいなかった人間なのに)
(帰らなきゃいけないのに)
(でも、)
帰ったら、元の世界に戻ったら、ここで親しくなった人々とは、もう、会えない。
これは予感だけど、おそらくもう二度と会えなくなるだろう。
そうしたら、彼にも―――リュウガにも、会えなくなる。
リュウガだけではない。
レイナやソウガ、それに世話になっているラオウや仲良くなった女官たちにも、再び会うことは無いだろう。
それが一番自然なのだ。
けれど、は同時におかしな感覚を覚えた。
(…私)
(なんで、帰りたくないんだろう)
こんなに周囲が危険に満ちた世界で、こんなに荒れ果てた世界で、どうして帰りたいと思わないんだろう。
怖いことのほうが楽しいことよりもずっと多いのに、どうして"この世界"が良いんだろう。
―――もし、今、帰れるようになったら。
自分は、喜んで元の世界に戻ることを決意するのだろうか。
あの平和な日常に戻りたいと思うのだろうか。
通う意味のあまり無い高校に通って、しょっちゅう遅刻して担任に怒られて、トイレ掃除なんか食らったりして、友達と世間話に花を咲かせる。
そんな日常を、もう一度手に入れたいという気持ちはあるのだ。
命の危機に晒されるような任務からおさらばできるのだから、当然だ。
―――でも、あの日常には、彼らはいない。
「…なんか、ヤダ」
帰りたい。
でも、帰りたくない。
怖い。
でも、ここに居たい。
(わけわかんない)
(矛盾してる)
(私、ヘンだ)
一人にされて考える時間が増えたからか、が一人で悶々と逡巡していると、突然頭上から声が降ってきた。
「何をおかしな顔をしている」
「ぎょわ!?」
驚いて上を見上げると、サウザーがが居る階の一つ上の広いバルコニーから、呆れた様子でを見ていた。
「奇声をあげるな」
「ああああげますよ!いきなり上から話しかけられたらー!」
「やかましいわ」
のいる階とサウザーがいる階の差は大体4メートルほどだが、下を見ればその高さは100メートルはある。
にもかかわらず、とん、と軽く策を踏み越えて、サウザーは階下のがいるバルコニーに降り立った。
サウザーがバランスを崩すことなく優雅に着地すると、口をあんぐりあけたが間抜けな顔を晒してサウザーを指差した。
「あ、あ、あ」
「文句は聞かんぞ。ここは俺のし」
「危ないじゃないですかー!!」
「ろ……は?」
てっきり夜中に女の部屋に忍び込むなという類の苦情が来るかと思いきや、まったく別の言葉が飛んできて、サウザーは面食らった。
「…何がだ」
「落ちたらどうするんですか!?ここすごい高いんですよ!?踏み外したら大怪我しますよ!?佐々木さんとこの塀じゃないんだからぁぁ!」
「……」
ササキサンは何のことかわからないが、どうやらこの娘は要らん心配をしているようである。
それを察して、サウザーは怒りを通り越して気が抜けた。
(俺がこの程度の高さを踏み外すとでも思っているのか)
(この女、馬鹿か?)
(というより、何故敵である男の心配をしている?)
(今の状況では俺が大怪我でもしたほうが嬉しいだろうが)
「お前…」
「な、何ですか。言い訳は聞きませんよ、」
「!」
的外れな言葉を口走るに、サウザーははっとした。
『サウザーよ、言い訳は聞かぬぞ』
それは、師が、まだ幼く悪戯をしていた頃の自分を嗜める時に使った言葉だ。
師のことを知るはずも無い娘から同じ言葉が出てきた。
そのことが、知らずサウザーの心をざわつかせた。
「…何故、そういう言葉が出るのだ」
「…ハイ?」
「今の状態を考えれば、俺が少々怪我をしたとしてもお前に何の不都合も無いはずだ。むしろ喜ばしいことだろう。違うか、ん?」
「何言ってるんですか…」
サウザーの言葉の意味が今一よくわからなくて、は首を傾げた。
彼の考えていることは、彼にしてみれば自然なのだろうが、にしてみればとんでもない、不都合ありまくりだからだ。
こんな夜更けに軟禁している拳王軍の遣いの小娘の部屋のバルコニーから、事もあろうに聖帝が足を踏み外して怪我をしたとなれば、たちまちのうちにが言及されるに決まっているのである。
何も無いに越したことは無いのだ。
それにサウザーが怪我しようがどうなろうが、不本意にもキスされた事実は変わらない。
だったら過ぎたことを根に持って後ろを向くよりも、次に負けないように気持ちを切り替えて潔く流すほうがずっと効率的である。
しかしそんなの仕草が気に入らなかったのか、サウザーが眉間に皺を寄せたので、はフォローの意味もこめて言葉を付け加えた。
「…私、別にあなたに大怪我してほしいとかは思ってません。そりゃーセクハラは正直腹立ちましたけど…あなたが怪我したところで終わったことをナシにすることは出来ませんから」
「俺はお前の敵だというのにか?」
「それは相互不可侵の盟約を反故にするという意味ですか」
「…何?」
サウザーと話している間に徐々に頭が冴えてきて、落ち着きを取り戻してきたは、反撃とばかりに言葉を返した。
ここで退いちゃいけない。
今この場にいるのは拳王軍の特務士官としての自分で、あの平和な日々に溺れていた""ではないのだから。
「セクハラはこの際事故として片付けます。でも、私はやっぱり拳王軍の特務士官で、今ここにいるのも拳王軍から正式に命を受けてのことなんです。あなたの口から出た言葉は全部、私を通り抜けて拳王様に届く。それを忘れられたら困ります」
「……貴様、この俺に意見する気か?」
ぎろり、と睨まれて、は一瞬小さく肩を震わせたが、まだ退けない、と足を踏ん張ってサウザーとしっかり向き合った。
チキンでもやるときゃやるんだ、と決めたのだから。
「わ、私は、あなたの部下じゃありませんからっ、あなたに命令されるいわれは、ない、ですっ」
「…その割には足が震えているようだが?」
「!こ、れは、さ、寒いからです!!夜風に当たりすぎてですね、それで、」
「……ふん」
もっと噛み付いてくるかと思いきや、予想に反して特にそれ以上追求することなく踵を返したサウザーに、は目を瞬かせた。
まさか、第2ラウンドはこちらが勝利したのだろうか、とが気を抜いたその時である。
「明日も今朝と同様、なにか面白いものを弾け」
「…はへ?」
さっき命令されるいわれは無い、と言った傍から命令口調でそう告げられて、は微妙な顔で固まった。
この俺様サウザー様は、今なんと言ったのであろうか?
何かこう、命令的な言葉を発しはせなんだか。
の脳が必死で"だからなんでそうなるの?"という疑問を解こうとしている間にも、サウザーは次々に自分のペースで注文をつけていく。
「俺が起きる前に起きてピアノを弾いていろ。いいな?」
「え、あ、いやあの」
「飯も作れ」
「や、だ、だからですね、」
「ドレスはこちらが選んだものにしろ」
「ちょ、ですからそれは、」
「いいな?」
拒否権と言う言葉は彼の辞書には無いらしく、更にこの場では適用されないらしいことを察すると、は諦めて頷くしかなかった。
「…………………………………はい。」
なんでこういうことになるんだろう。
就寝前にどっと疲れたが、眠りに落ちる直前に考えていたことであった。
*
今までの女は全て従順で何でも言うことを聞いた。
サウザーはそれらをとても退屈に感じていたし、気に入ってもいなかった。
単なる肉欲のはけ口に女を抱くだけで、心惹かれる女などいるはずも無かった。
いかにもな猫なで声が癇に障って、部下に殺させた女は片手では足りないほどいる。
それも全て、愛を捨てたためだ。
けれど、あの小娘は―――は、まったく違うタイプだ。
長い指が奏でる旋律は美しいのに、本人は今まで見た美女と比べると最も美人ではない。
可愛らしい顔つきだが、"女"ではない。
威勢が良いかと思ったら、少し凄むだけで怯える。
けれど、そこらの雑魚と違ってすぐに怖気づかないし命乞いもしない。
真っ直ぐに目を見てくる。
そこが気に入った。
ただ、サウザーははっきりと自覚していない。
師と同じ言葉を発した娘に、ほんの一瞬封じた心がざわついたことを。
本気で愛するつもりは無い。
心は師の遺骸と共に葬るのだから。
だから、これは娯楽。
「さて、どう出る?"特務士官殿"」
短い間のゲーム、楽しませてみろ。
*
翌日、は昨夜サウザーに言われたとおりに、今朝、早起きしてあらかじめ用意されたドレスを着、ピアノを弾いた。
もちろんおとなしく綺麗な曲を、という気には成らなかったので、曲の指定が無かったのをいいことに思いっきり音の大きな曲を弾き鳴らしてやった。
その後当然怒ったサウザーに頭をシバかれたが、弾けといったのは向こうなので、が言葉だけ謝って内心で舌を出したのもまた当然であった。
食事も作れということだったので、渋々調理場を借りて適当なものを作った。
さすがにあからさまな嫌がらせはバレるな、と思い、食事だけはまともに作ったのだが、元々はそんなに料理が上手い娘ではない。
リュウガに鍛えられてそれなりのものが作れるようになっただけである。
よって凝ったものを作れるはずも無く、メニューは少し焦げたハムエッグと缶のスープを温めたもの、調理場のおっさんが見兼ねて焼いてくれたパンになった。
もちろんサウザーは焦げているだの何だのと文句を言ったが、が"私が真剣になって料理したものを食べたら3日はお腹壊しますよ"と真顔で言うと黙ってそれらを口にした。
それ以上何も言ってこなかったところを見ると、何とか食べられるものではあったようだ。
ちなみにの料理を食べて腹を壊した最初の犠牲者は、まだ拳王軍に入る前のリュウガであり、その後彼がの料理に一切期待しなくなったことをここに記しておく。
ともあれ、そんな午前を何とか切り抜けて借りている部屋で休憩していたは、夕方頃に豪華な広い部屋に連れて来られ、酌をさせられるハメになっていた。
サウザーの飲むワインは素人目にはわからないが上等のものらしい。
貧富の差の激しい世界だ。
(ほんと何様だコイツ!俺様か!)
自身はいい加減にこういう人間と付き合うのは避けたいのだが、どうも彼らのような人間には、は珍妙な動物のように映るのか、彼女の努力は報われたためしがない。
それどころか不幸にも、ワイングラスを傾けている一名の琴線に既に触れてしまっている事を知れば、彼女は確実に落ち込むであろう事はいうまでも無い。
このアダルトチルドレンめ。
永遠の少年など迷惑千万なだけじゃないか。
いっそ一度跪かせて泣かせたくなるが、チキンなのでそれこそ永遠に無理だ。
跪かされて泣かされるのはの方である。
「こんなに我儘な人初めて見た…」
「何か言ったか?」
「何もございません…」
ふん、と、肩を怒らせ、それでもちゃんとワインを注いでいるあたり、チキンは健在である。
抵抗の意思は見せるものの、根本的には言われたことをちゃんとこなしてしまうのだ。
「何だその顔は。ワインがまずくなる」
「それはとてもよろしいことですね」
「…死にたいか?」
「…スイマセン私が悪かったですアイムソーリー、サー」
不機嫌を顕にそれでも尚謝罪だけは述べるに、サウザーは呆れた。
ここまで強情な臆病者も珍しい。
しかも見れば、涙目で怒っている。
忙しない小娘だ、と、サウザーはワイングラスを傾けた。
「で?」
「何ですか」
「返事を聞かせてもらおうか」
「…お断りします。当然。昨日も言ったはずです」
ワインボトルをしまおうとして、は後ろから腕を引かれバランスを崩した。
転ぶ、と思ったところで、の身体はサウザーの腕一本で支えられた。
「何するんですか!」
「臆病者が強がるのを見るのは面白い」
「はあ!?」
が混乱して固まっていると、サウザーは不敵に笑って言った。
「…壊して、服従させたくなる」
「…!」
ぞわぞわと鳥肌が立つのを感じて、はばっとサウザーから離れた。
「へっヘンタイ!!」
「単純な征服欲だ。勘違いするな」
「いいいやあああああ!!」
「少し黙れ」
「っ!」
が喚いていてもお構いなしに、サウザーはの手首を掴んで一人で使うには広すぎるベッドに引き倒した。
「わぶっ!」
バランスを崩してベッドの上に倒れこんだを気遣うことなく、サウザーはの襟首を掴んで無理やりに仰向けにさせた。
「ぐえ」
「蛙のような声を出すな。興醒めするだろうが」
「是非とも興醒めしてください!」
ばっとサウザーを睨みつけて、はびくりと身体を竦めた。
(この人、目が、怖い)
「…は、離し、て、」
「ほう。まだそんな口を利くか」
「いい、加減に…っ!」
いい加減にしろと言おうとして、は首に手を掛けられてひゅっと息を呑んだ。
「…どうした?」
目の前で笑う男はの反応を愉しそうに見ているが、その手が下手に動けば自分の首を即座に締めるという事をは直感していた。
サウザーから発せられるのは、殺気だ。
それも、いつかに感じたちゃちなものではない、抵抗することもままならない殺気。
かたかたと身体が震えだす。
「…は…ッ…」
(こわい、)
それでも何とか抵抗の意思を示すため、は怯えを隠すようにサウザーを睨んだ。
「…ふん、何だその目は。まだ屈服する気が起きないか?」
「い、いや、です、」
「これでもか?」
「ひっ!!」
サウザーは獣のような笑みを浮かべて、の服に手を掛け、一気に引き千切った。
肌が外気に晒される感覚に、は青褪めて声を失う。
「やめてくださいと言ってみせろ。どうした、声も出ないか?」
「う、ぁ、」
震えが止まらない。
(こわい、こわい)
今までにない切迫した状況に、思考が混雑して上手く働かない。
(やだ、やだ、やだ、誰か)
「ふん、これまでか」
「!」
下着の上から触れる手は、一度だけ頭を撫でてくれた彼の温かい掌ではない。
「それなりに楽しめたが、所詮小娘だったな」
脅すような低い声は、冷たくても耳障りのいい彼の声ではない。
「この俺の褥に侍ること、幸運に思うことだ」
この男の目は、意地悪な彼の、時折優しい色を見せるあの目じゃ、ない。
サウザーの手が顎を固定し、ゆっくりと唇が重なろうとしたその時だ。
ばん!!と部屋の扉が勢いよく開かれて、サウザーが動きを止めた。
「何だ、騒々し…!!」
使用人を怒鳴りつけようとして声を荒げたサウザーは、扉を開けたのが使用人ではないことに気づいて眉を寄せた。
そしてタイミングよく無体を止めてくれた人物を見ようと扉のほうに目を向けたは目を丸くした。
そこに立っていたのは、3日前を置いて一度帰還したはずのソウガと――
「何で、ここに…」
瞳に怒りを湛えてサウザーを睨んでいるリュウガだった。
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