傍に置いておきたい。
目の届くところに。
それが容易に適う時代ではないのに。
それは容易に実行できることではないのに。
想いを打ち明けることは出来ない。
自分が恨まれる仕事をしていることは承知している。
そんな男と共にいれば、危険な目に合うのは必至だ。
だから、間違ってもこの想いを知られるような事態になってはいけない。
ただの"上司"でなくてはならない。
「…くそっ」
行き場の無い想いが渦巻くもどかしさに、狼は忌々しそうに舌打ちをして、眼前に聳える仇の居城を見上げ、真っ直ぐに正面から殴りこんだのであった。
*
「挨拶もナシにこのオレ様の寝室に突入したうえ、プライベートを暴くとは、拳王軍の将軍らは悪趣味だな」
寝台から降りて不遜に笑ってみせるサウザーに、リュウガが静かに返した。
「悪趣味はどちらだ、聖帝。人のものを勝手に奪われては困る」
「何…?」
サウザーがぴくりと眉を寄せると、リュウガは固まったままのに近づいてその腕を引いた。
そして呆然としているをマントを被せて抱き込むと、涼しい顔ではっきりと言った。
「そのままの意味だ。我が拳王軍の特務士官であるは、この泰山天狼拳のリュウガのものでな」
「なっ…!」
「……!?」
言われた本人まで固まっているのを見られなかったのは被せられたマントのおかげである。
しかし、サウザーはその程度ではへこたれない。
「それは初耳だ。しかしこやつはそのようなことは一言も申しておらんだが?」
「周囲には漏らすなと言い含めてあったのだ。そうだな、?」
「え、あ」
いきなり話を振られて、は一瞬戸惑ったが、リュウガのいいから合わせろ、と言う無言の圧力でこくこくと頷いた。
ここで変に否定したら話がややこしくなって、後からシバかれるのは必至だ。
「そ、そそそそうですそうなんです!あの、わ、私一応、リュウガ様のもの?でして、」
「……証拠はどこにある」
「お見せしても構わんが、ショックを受けるなよ。…」
「へ?」
リュウガは不適に笑いそう言うと、顔を引き攣らせているの顎をひょいと持ち上げて躊躇い無く唇を重ねた。
「!!?」
「なっ、リュ、リュウガお前!?」
何故かサウザーではなくソウガの方が3倍くらいショックを受けているが、もう何にどう反応すればいいやらわからず、は長い大人の口付けになすがままになっていた。
見せ付けるような、初めて体験する激しいディープキスに、酸素不足でくらくらしてきて、は倒れないように無意識にリュウガの服をぎゅっと掴んだ。
それを察したのか、リュウガが自然な仕草を装って首筋と腰を手で支える。
息継ぎの度に甘い声が漏れて、ぼんやりする思考の中ではぎゅっと目を瞑った。
それが更に芝居をリアルにしているとも知らず。
「は……?」
唇を解放されてぐったりと俯いたを支え、リュウガが勝ち誇ったような笑みを浮かべてサウザーを見た。
しつこいようだがソウガの方が3倍くらいショックを受けている。
「さあ、これでわかっただろう?聖帝ともあろう者が他人の女に手を出すほど女に飢えている訳でもあるまい?」
「……ふん」
こうもはっきりと挑発的なことを言われては、否定するのもまた癪で、サウザーは舌打ちすると憎憎しげに言い放った。
「興が冷めたわ。そんな小娘はもう要らぬ、連れて行くがいい」
「さすが聖帝殿、話がわかる。では、本日限りで我が軍の特務士官は返して頂くぞ」
どこまでも慇懃無礼なリュウガをぎろりと睨んで、サウザーは好きにしろ、とだけ言った。
それを聞いて、リュウガは"ざまあみやがれ"とでも言わんばかりの表情で、形ばかりの謝辞を述べてを連れ出した。
そして固まっているソウガをついでに引っ張ると、そのままサウザーの城を出た。
*
気まずい雰囲気が流れる中、ソウガはリュウガに抱かれるようにして馬から降りたをちらりと見た。
彼女はサウザーの城を出てから一言も言葉を発していない。
流石にいろんなことがありすぎて疲れたのか、それとも自分達が来る前に酷い目に合わされたのか、どちらにしろたった一人で敵の中で過ごしたのだ。
限界まで神経が磨り減っているに違いない。
しかしそんな雰囲気をものともせずに、リュウガが淡々とした口調で話した。
「思ったより早く終わったな」
「……………」
「この分だと明日には仕事に戻れる」
「おい、リュウガよ…」
ソウガが今はそっとしておいたほうがいいのではないか、と言おうとするも、リュウガは全く気にせずにに話しかけた。
「明日からまた仕事が増えるぞ。しっかり働け、特務士官」
「………………」
「聞いているのか?士、」
ぱしん、と乾いた音が夜の城内に響いた。
「…!」
がリュウガの頬を打ったのだ。
呆然と立ちすくむリュウガに、もう一発食らわそうとが右手を振り上げたのを見て、ソウガが慌ててを抑える。
しかし完全に切れているのか、は手が使えないならと後頭部でソウガにヘッドバットをかまそうとして、慌てて避けたソウガを振りほどき、リュウガに2発目のビンタを食らわした。
乾いた音がもう一度静まり返った廊下に響く。
それを抵抗せずに受けて、リュウガはを見つめた。
「……気が済んだか?」
「……ッ!」
その言葉に、は見る見るうちに目に涙をいっぱい溜めて喚き散らした。
「バカ!!リュウガさんのバカ、なんなんですか、何でああいうことするんですか!!?なんでっ…!!」
「、やめるんだ」
「嫌ですやめません!!助けに来て貰っといてなんですけど、無理やりあんなことされて、"どうもすみません助けてくれてありがとうございます"って言えって言うんですか!?勝手なのもいい加減にしてください!!」
「……」
「人のことモノ扱いして好きなことばっかり言って!意地悪っ、ばか、どえすっ、性悪マツゲ!!」
いつものビビリ精神はどこへやら、完全に堪忍袋の緒が切れたの勢いが凄まじすぎて、止めに入ったソウガはただ呆然と彼女が激昂する様子を見ているしかなかった。
すごい暴れっぷりだ。
どえす、の言葉から彼女が普段どれだけリュウガにイビリ倒されているのかが窺い知れる。
が一旦言葉を区切ったところで、リュウガは静かに言った。
「…言いたいことはそれだけか」
「っ、もっと言って欲しいんだったらまだ言えますけど!!?」
勢いが有り余っているらしい部下に、リュウガは額に手を当てて、唖然としているソウガに言った。
「…ソウガ」
「!なんだ」
「すまんが、報告は明日にする。暫くこいつと話合う」
「あ、ああわかった」
「不肖の部下ですまんな」
「いや、気にするな」
それが一番いいだろうとソウガが頷くと、リュウガは自分を睨むの手をとって、自室があるほうに引っ張っていった。
「痛い!!何するんですか離してください!!」
「静かにしろ。真夜中だ」
「…ッ…!!」
怒っているときに正論を言われると更に怒りは増すもので、は黙る代わりにリュウガの腕に爪を立てた。
爪が食い込んだ肌から少し血が滲む。
しかしリュウガは少しばかり眉を顰めただけで、の手を離そうとはしない。
自室のドアを開けて、半泣きで部屋の入り口で足を踏ん張るを抱き上げると、リュウガはドアを閉めて鍵をした。
そして暴れるをベッドに下ろすと、めちゃくちゃに腕を振り回す彼女の手首をぐっと掴んだ。
「…っ、!」
「……あまり暴れると怪我をする。オレを殴って気が済むならいくらでも受けてやるが、自分を傷つけるな」
その言葉に、は唇を震わせてぽろぽろと涙を零した。
「…っ…なんで…」
「…?」
「なんで…なんでそんなに、中途半端に優しくするんですか!」
涙とともに溢れ出した言葉は止まらない。
「なんでキスなんかしたんですか!?お芝居ならフリだけでもよかったのに!!なんで助けに来たりするんですか!?私のことなんて大事じゃないのに!!…意地悪ばっかりで、なんで、…っ」
どうして、どうして。
「なんで…都合の良い時だけ、名前で呼ぶんですかっ……!」
「……!」
そうだ。
リュウガはいつだって、名前で呼んでくれることなんかほとんど無かった。
初めて会ったときから軍に入って昇進するまでは小娘。
それからは特務士官。
ソウガやレイナは名前で読んでくれるのに、彼だけは、一番長く付き合いのあるリュウガだけは、何故か名前を呼んでくれない。
否、本当は何度かあるけれど、それらは全てが気づかない内でしかない。
「ぅっ、ひっ…うっ、…」
「……」
しゃっくりあげて泣きじゃくるを暫くの間リュウガは沈痛な面持ちで見つめていたが、ややあって掴んでいた手をそっと離して、の濡れた頬を指で拭った。
「…泣くな…」
「ほっ、と、てっ、くださっ、」
取り付く島も無いの様子に、リュウガは小さくため息を吐くと、洗面所からタオルを取ってきてに手渡した。
「使え。…あまり擦ると腫れる」
差し出されたそれをしぶしぶ受け取って顔に押し付けると、柔らかいタオルの感触がの気分を少しだけ和らげた。
「……落ち着いたか?」
「…………」
キレてしまった手前そう簡単に素直になることもできず、が目を逸らして黙り込むと、リュウガはため息を吐いて、徐に口を開いた。
「……悪かった。お前の気持ちを考えずに、辛い思いをさせた」
「…」
「これから俺は独り言を言う。聞きたくなければ出て行っても構わん…夜更けに男の、しかも嫌いな上司の部屋に長く居たくもないだろう」
「……別に…嫌い、とは言ってない…です」
がタオルで口元を覆ったままぼそぼそと呟くと、リュウガはそうか、とほんの少しだけ笑い、話し始めた。
「…俺自身、自分でわからぬところもある…しかし、先ほどお前は自分など大事ではないと言ったが、それは違う。、俺は……お前が傷つくのを見るのは、好きではない」
「…うそ」
「そう思いたければそう思ってくれていい。これは独り言だ。…お前が拳王様に仕えると言った俺についてきたときはここが安全だと思っていた。しかし必ずしもそうではないと気づいてから、俺は正直どうやってお前を追い出そうかと、そればかりを考えていた。兵になれば何れ敵を殺すようになる。況してや女は、ただでさえ傷をつけられやすい。傷つくお前を…これ以上見たくなかった」
ゆっくりと話すリュウガの声を聞きながら、は彼の言葉に嘘が無いことを理解していた。
それでも、急に知らされた事実を上手く飲み込めなくて、は黙って話を聞いた。
「…そんな時だ。ちょうどいい機会ができた。ゾルガの一件だ。俺はひとつの作戦を提案した。お前を使えばいい、と。無理難題を吹っかけてやれば泣きついてくると思ったからだ。素直に泣きついてこれば、俺はすぐにでもお前を秘密裏に安全なルートで遠くの村に送る予定だった。…だがお前は任務を受け、そして傷つきながらも任務を成功させた」
浅はかだったな、と自嘲気味に笑って、リュウガはの腕の傷痕をそっと撫でた。
「…お前のこの傷は…俺がつけたようなものだ」
「っ…」
「…その後特務士官に昇進し、拳王様にもソウガにも目を掛けられ、お前は次第に俺の手を離れていった。親しげにソウガや他の男と話しているのを見るのが気に入らなかった。聖帝の城に行く日も、任が無ければ俺が同行するつもりでいた。しかし急遽任を受けて、同行ができなくなった。そこに来てソウガがお前に同行するということになった。それが気に入らなかった、口紅はその腹いせだ。…身勝手にもほどがあるがな」
「わ、私は口紅は別に…」
「…そうか。だが…結局お前は囚われた。本当ならばすぐにでも奪い返しに行こうと思ったが、それより先に終わらせなければならん仕事があった。何とか二日で終わらせたが…間に合わなかった」
間に合わなかった。
その言葉を聞いて、はそれは違う、と思った。
本当の意味での手遅れは、サウザーに手篭めにされて殺されて死体になっているか、その辺の野に打ち捨てられて野党の餌食になっているということだ。
だから、事実上未遂で終わっただけで済んで良かったくらいなのだ。
素直に喜べるようなことでもないが、それでも純潔と命を守れたら上出来だ。
「………」
黙り込んだの肩に、リュウガが自分の上着を掛けた。
「それだけでは風邪を引く…」
「え、」
リュウガに言われて、は初めて自分の格好がとんでもない事になっていることに気づいた。
サウザーに破られた服は見事にぼろぼろで、リュウガが最初に被せてくれたマントが無ければ上半身の前面が裸同然なのだ。
ふわりとリュウガの匂いがして、どきりとする。
「…っす、すみませ、」
「謝らなくていい。…お前でなくても、女の力ではサウザーをどうにかするなど到底無理だ」
その言葉に、はあの男の眼を思い出して身を硬くした。
同時に身体がまた震え始めた。
「…っ、」
あの殺気を向けられたときの恐怖が鮮明に蘇る。
身動きできないまま、あの獣のような目に射竦められて、はあの時本当に襲い掛かる屈辱と死を悟ったのだ。
かたかたと小刻みに身体を震わせるを、リュウガは壊れ物を扱うようにそっと抱きしめた。
「…もっと早く行くべきだった。サウザーに組み敷かれているお前を見た時、俺は気が狂いそうになった。お前の言うとおり、あの口付けも初めは振りだけで済ませるつもりだった。そうしなかったのは…お前を誰にも触れさせたくなかったからだ」
「…それって、…」
その言葉の意味するところを、はどう受け取ればいいのか戸惑った。
今までの口ぶりからして、おそらく彼はを"女"として見ている。
しかしそれはあまりにも唐突で、は嬉しいと思う反面どう答えればよいのか困惑した。
「言うな」
身体を離して、リュウガはを真正面から見つめた。
月明かりが差し込んで、男の銀髪がきらきらと輝いている。
それをどこか別の視点で、綺麗、と思いながら、は静かに男の言葉を待った。
「…」
リュウガの手がの頬に触れる。
の黒く丸い瞳が真っ直ぐにリュウガを見つめた。
「……」
「…俺は、―――」
そこまで言って、リュウガは苦しそうに眼を伏せ、頬に添えた手を下ろして息を吐くと、小さく呟いた。
「…いや、やめよう」
「え…?」
「今日はもう遅い。部屋に帰れ」
「…っ!?な、なんですか、それ、」
「帰るんだ」
突然話を終わらせられて、はリュウガの服の裾を掴んで食い下がった。
「なんでっ、」
しかしリュウガはそれには答えずに、困惑するを立たせると部屋の入り口まで引っ張っていった。
そしてドアの外に出すと、が掴んでいた手を振り解いて静かに言った。
「…すまん」
「……!」
その言葉に、は酷く傷ついた顔をして俯くと、リュウガに手渡されたタオルを押し付けるように返して足早にその場を去った。