「ほう、それではピアニストを目指しているわけではないのか」
「はい。一応幼少の頃から続けていますが、プロになるつもりはないので途中でやめてしまって…」
「それでも、このユダを唸らせたのならば相当の腕前だろう。この男は美術に関しては煩いからな」
「いえ、それほどでも…」

食事の味など全く感じないほど緊張しながらも、は楽しんでいる風に見せながらサウザーと会話していた。
子供達の様子が気になるが、ここで何か言ったら面倒なことになる。
下手をすれば子供達に被害が及ぶかもしれない、とはここ最近で教え込まれた知恵をフル回転させて、何も起きないことを祈って会話を続けていた。
すぐそばに居るのに助けてあげられない自分が腹立たしい。
と、そこでユダがサウザーに提案した。

「サウザー様。そろそろ彼女の演奏を聴かれては如何か?」
「ああ、そうだな。今宵のメインイベントを忘れてはいかん。準備を始めてくれるか、士官」
「はい」

サウザーに言われては用意されていたピアノの前に腰掛けると、不安そうに視線を送るソウガと他の子供達にへろり、と微笑んで、ピアノの音を確認した。

ポーン、とAの音を出すと、調律済みらしいピアノは綺麗な澄んだ音を響かせる。
この世界でここまで同時に存在する貧富の差は何だろう、とは複雑な気分で指を置いた。
暗譜している曲を選びながら、雰囲気のいいものを思い出して、は大きく息を吸った。

「用意ができたようだな。では、披露していただこう」
「何を弾くのだ?」

ユダに尋ねられて、は答えた。

「ショパンの前奏曲24番から入って、バッハのイタリア組曲、リストのコンソレーション、ショパンの幻想即興曲、それと最後にシューマンの花の曲をやろうと思ってます」
「そうか。バッハとショパンは私も好きだ。ゆっくり聴かせていただこう」

ユダが満足げに頷いた。
ソウガが安心させるように笑いかけてくれたのを見て、は丁寧にお辞儀をすると鍵盤の上で指を滑らせ始めた。
初めはショパン。
プレリュードだ。
この前奏曲は凛とした印象を与えるメロディで、次のバッハとはかなり印象が違い、どちらかと言えばシリアスな雰囲気だ。
ちなみにその次のイタリア組曲はテンポの速いスピーディーな曲で、あまり重厚すぎず聴きやすい(とは勝手に思っている)。
リストのコンソレーションは柔らかく落ち着いた、"慰め"という題に相応しい、静かな曲。
テンポの速い曲の後で疲れた脳を落ち着かせるのにちょうどいい(とこれも勝手にが思っている)。
ショパンの幻想即興曲は重厚でテンポが速い曲、そして最後のシューマンの花の曲は程よい速さのゆったりした曲だ。

ゆったりと穏やかな時間が流れて、やがて演奏が終わると、少ないがしっかりとした拍手が返ってきた。

「素晴らしい。ユダが目をつけただけのことはある」
「お褒め頂き、真に嬉しゅうございます」

女官に教えられたとおりの言葉を返すと、はピアノから立ち上がろうとして止まった。
サウザーがの前に立って見下ろしていたからだ。

「…あの、聖帝…何か…?」

嫌な予感がして、恐る恐るが尋ねると、サウザーはふん、と口角を上げて底意地の悪そうな――どこかで見たような――笑みを浮かべ、に言った。

とやら。どうだ、しばらく我が城に滞在する気は無いか?」
「は、はい?」
「サウザー!それはどういう…!」

慌てた様子で抗議するソウガを一瞥し、愛想笑いの状態で固まったを面白そうに眺めてサウザーは言った。

「なに、ほんの数日そちらの特務士官をお借りしたいだけだ。オレはこの娘の演奏が気に入った」
「しかし!」
「ソウガよ。何も心配することは無いではないか。我らは相互不可侵の盟約を結んでいるのだ、彼女に危害を加えることなどあるものか。それとも信用できんとでも?」
「…!」

尚も食い下がろうとしたところをユダに尋ねられて、ソウガは言葉を呑んだ。
――相互不可侵。
この盟約でのみ、聖帝軍と拳王軍は微妙な力の拮抗を保っている。
それが些細なことで傷つけられれば、この先のラオウの覇道への妨げになる可能性もある。

「…く…っ」

また、歯軋りして黙り込んだソウガの様子を見て、も状況を理解した。
正直、とっとと帰りたい。
しかしそれをすれば、不可侵が信じられないのかとか何だのと難癖を付けられるかもしれない。
イエスと答えるのが一番良い方法だと察して、はソウガに替わって口を開いた。

「あ…の」
「士官。頷いてくれるか?」
「…はい。短い間のことですし、私めの、つ、拙い演奏でよろしければ、いくらでも…お気の召す、ままに」

言葉遣いがどうなっているのかさっぱりだが、適当な丁寧語を並べて答えると、サウザーは満足げにユダを見た。
そして苦虫をかんだような表情のソウガを振り返り、言った。

「聞かれたか、軍師、ソウガよ。これより一週間ほど、特務士官を借り受ける。拳王に申し伝えておけ」
「……承知した…。では特務士官…粗相の無いように努めてくれ」
「はい、ソウガ様」

無理やり笑顔を作って返したを今すぐにでも連れ出して帰りたいのを堪えて、ソウガは広間を後にして、一人で馬車に乗って拳王府に戻った。
道中の拳は、ずっと難く握られたままだった。



たった一人で城に帰ったソウガを出迎えて、一緒にいるはずの娘の姿が見えないことに気づいたリュウガは、ソウガの口から聞かされた事態に美麗な顔を歪ませた。

「…どういうことだ」
「そのまま…言葉のとおりだ。特務士官は今日より一週間、聖帝のもとに滞在することになった」

ソウガの報告に、レイナが顔を青ざめさせた。

「そんな、兄さん!どうして無理にでも連れてこなかったの!?彼女一人を置いてくるだなんて…!」
「止せ、レイナ」

感情的になったレイナを制して、ラオウがソウガに尋ねた。

「ソウガよ。士官を置いてこざるを得ぬ状況だったのか?」
「…は。相互不可侵の盟約を保つため…聖帝を信頼しているように見せる必要があると判断しました。また、ユダとサウザーがいたあの状況では、このソウガが打って出るより早く士官が殺される危険がありました故…」

ソウガの報告に、ラオウは容易にその状況を想像し、頷いた。
確かに、ユダだけならともかくサウザーがいてはソウガ一人でを連れて逃げるのは難しいだろう。

「…わかった。下がれ」
「は…」
「拳王様、どうなさいますか」

レイナが尋ねると、ラオウは少し思案してから目線をちらりと傍に控える天狼に移した。

「……うむ…」

冷静がウリの天狼は、本人は隠しているつもりであろうが、ものすっごい機嫌悪そうである。
微妙に血管が浮き出ているくらいだ。
もともと白い顔が怒りで更に白くなっている気がする。
さしずめ彼の周囲の半径2メートル内にブリザードが吹き荒れているとでも言えばいいだろうか。
そんなに気になるなら無理にでも自分が行けばよかったものを、とおよそ自分には理解できない男の行動に呆れつつも、ラオウは口を開いた。

「…リュウガ」
「は」
「この件はお前に任せる。ソウガと状況を確認した上で、適当な処置をとれ」
「は!畏まりました」

頷いて、颯爽と部屋を出て行った男の目は静かに怒りに燃えていた。
その後姿を一瞥して、レイナが呟いた。

「すごいやる気だわ…」