"本を読んでも、物語や歴史に聞くところからでも、真実の恋は滑らかに運んだためしがない。"

(シェイクスピア)





冥王軍の動きが強まってきた中、は増加する勢力の情報収集に追われていた。
リュウガも時間があまり取れない日が増えて、忙しい中を掻い潜って二人の時間を共有するのは難しくなっていた。
そんな日々のことである。

「また出兵ですか?」

リュウガの部屋のベッドでクッションを抱きしめて転がりながら、はリュウガが小さな袋に出兵用の荷物を詰めているのを眺めていた。
若い恋人が己のベッドで好き勝手していることに慣れてきたリュウガは、それに対して淡々と答える。

「ああ。冥王軍の勢力が増してきているのでな」
「確かに…ここ最近、うちの領地にまで侵攻してきてますね…。いつ、発つんですか?」
「明日の朝だ」
「…ふうん…」

昼過ぎの軍議の為に用意した資料の中に各軍閥の戦況の情報がいくつもあったことを思い出して、は表情を曇らせた。
戦乱の世とはいえ、こうもずっと戦いが続くのは辛い。
その戦いの中に大切な人が身を投じていることが、は不安で堪らないのだ。
リュウガの実力は熟知しているけれど、拳だけが戦闘方法ではない。
ダイナマイトや銃火器、薬、刃物、鈍器、その他にも人が争うときに使うものは沢山あるし、普段考えもしないものでも巧く使えば簡単に人を殺す道具になるのだ。
そして時として、人は他人が滅多なことでは思いつかない方法でそれらの武器を使用する。
巧みな罠や戦略に拳だけで対応できるほど、戦は甘くない。
そしてリュウガもそれをわかっていて、戦に臨むのだ。

(…人が傷つけあうのって、嫌い)

いつ死ぬかわからない場所に発つその背を、一体何度見送ればいいのだろう。
お帰りなさいを言えるのはいつまでなのだろう。
出来ることなら、次で終わりがいい。
そして出来ることなら、年をとって死ぬまで、お帰りなさいを言えたらいい。
が沈んだ顔をしていると、リュウガがその頬を両側に引っ張った。

「んぎゃん!?」

久しぶりに頬を抓られて、手を振り解いたが頬をさすり、混乱しつつも恨めしげにリュウガを見ると、リュウガは涙目になったの頭をぽんぽんと撫でた。

「!」
「そんな情けない顔をするな。この俺が負けて帰ってきたことがあるか?」
「…無い、ですけど」
「ならば信じていろ。拳王様がおられる限り、俺は死ねん」
「………」

かっこいい。
とてもかっこいいセリフである。
リュウガの声で"信じていろ"なんて言われたら、そりゃあもう女官たちであれば一発でK.Oだ。
しかしである。

「………ここは"拳王様"じゃなくて私の名前を入れるとこだと思うんですけど」
「……そんなことより、
「何ですか(あっ目ぇ泳いでる)」
「お前、明日は早出か?」
「ううん、明日はお昼からですよ」
「そうか…では構わんな…」
「…あの…リュウガさん、まさか、」

言葉にそれとなく含まれたものを読み取って、はベッドから飛び退こうとしてリュウガに圧し掛かられた。
どうやら妙なスイッチを押してしまったようである。

「ちょちょちょちょーい!?」
「なんだ。転げまわるほどに俺のベッドの上が好きなのだろう?」
「い、いえそのこれはですね、って言うかそーゆー事するのはお互いお休みの日って決めてあっ、」
「では今日から変えることにするか。ならば問題なかろう」
「ふ、不条理ですよぅ!」
「煩い」
「む――――――――!?」

実は結構わがままな男の性格に翻弄されて結局赤ずきんちゃんよろしく狼にパックンされたは、結果ひどい腰痛に唸ることとなった。



、俺はそろそろ出る。仕事に遅れることのないようにな」

やたらすっきりした様子で身支度を終わらせて言い放つリュウガに、は半ば怒りすら覚えながらも気力不足で頷いて、理不尽な世を
恨んだ。
ぐったりとへばって起き上がる気力もないに対し、リュウガは妙に髪も肌もつやつやしているように思える。

(なんでこの人は元気になってるんだろう…)

「聞いているのか?」
「りょ、了解です…」
「それと、いつも言っていることだが、決して一人で行動するな。外出する任務は拳王様から受けた時のみ承諾しろ」
「ハイ…」
「戸締りはしっかりしておけ。夜中に城を歩き回るのも控えろ。知らない人間から物をもらうなよ。生水は飲むな」
「大丈夫ですってば…」

まるで初めて小学校に行く子供に言うような注意をされて、はリュウガの変に過保護なところにうんざりした。
毎度城を空ける日の朝はこうなのである。

「それと」
「何ですかもー…」
「愛しているぞ、
「!」

まだあるのかと気を抜いていたところで、いきなり恋人らしい甘い言葉を囁かれて、は一気に顔を赤くして黙り込んだ。
リュウガがその様子を愉快そうに見ているところを見ると、どうも狙ってやったらしい。

「〜〜〜〜〜っは、早く行ってください!」
「そうだな、そろそろ行かねばならん」
「あ…」

余裕綽々と行った表情で部屋を出ようとしたリュウガの顔が妙に気になって、はベッドから起き出してリュウガのマントの裾を掴んだ。

「どうした?」
「あ、や、あの、えと」
「…寂しくなったか?」
「か、からかわないでください。…その…い、いってらっしゃい、を…言わなきゃと…」
「…
「…きょ、今日はその、言ってなかっ」
「それは嬉しいが、服を着たほうが良いと思うぞ」
「………………………………………………………………」


直後、彼の左頬にはの手と同じサイズの見事な赤いモミジが彩られたことは言うまでも無かった。



信じらんない、とぼやきながら、はいつもより少し静かな部屋で仕事をしていた。
の特務士官という仕事は、一般の兵のそれとは異なり、基本的には情報収集と傘下の軍閥との連絡、そして拳王からの勅令の3つの
仕事に分けられている。
たいていの仕事は情報収集と整理で、次に多いのが領地内の軍閥や集落との連絡だ。
勅命は拳王府に入ってから受けた旧政府の武器庫の任務と聖帝との会合のみで、あれからは特に大きな任務を受けていない。
大分勢力が拡大してきて、軍力も設備も整ってきたからだろう。
同じ女でもレイナとは違って、元々ただの雑用だったの力を使うまでもなく、万一の場合は戦闘を要する任務は別の兵たちがこなして
いる―――もちろんこれは表面上の理由で、本当はリュウガが上手く手を回してを城の中で出来る限り安全な仕事をさせているというのが真実だ。
そしてもそれを知っている。
けれど、それはあまり嬉しくないことだった。

仕事を任せてもらえない、というのは、リュウガの負担を減らしたいと願うにとっては大きな障害だからだ。
そもそもリュウガが居たからこそ、ここで生きていられる自分だ。
彼が居なければは確実に野垂れ死んでいたか、どこかの野盗の慰み者になっている。
守られているだけではなくて、恩を返したい、それがの気持ちである。
だから、リュウガがどれほどを安全な場所に置いておきたいと願っても、それはにとっては嬉しい反面悲しいことだった。

もっと力があったら、城の中だけではなく、戦場でも彼の隣に立っていられた。
悲観してばかりでは何も変わらないと、毎日欠かさずに、こっそりと自分でナイフや銃の扱い方を練習していても、の力は彼の隣で
闘うには程遠い。
結局いつもデスクワークに追われるだけで、リュウガのために何の役にも立てていないと思うと、自分だけが蚊帳の外に居るような気がしては気分が落ち込んだ。

「…はぁ」

溜息をついたのその目線の先には、氷の結晶を模したペンダントトップの右半分だけが、少しくすんだ銀色に光っている。
少し前、二人とも休みが取れた日に一番近い街の市で見つけた、二つで一対になっているものだ。
ぴったりと合わせるときらきらと煌めく美しい氷の結晶が出来るそのペンダントの、右半分をが、左半分をリュウガが持っている。
いつの間にか空は夕闇に染まり、結晶の片割れはオレンジの光を反射していた。
がそれを優しく指で撫でて、ぺンダントを首にかけ、落とさないように服の中に入れたところだった。

部屋の扉がノックされたのは。



同じ頃、冥王軍の討伐隊を率いて砂漠を進んでいたリュウガは、敵の部隊と交戦した後、一旦撤退して砂漠の村で休んでいた。
冥王軍の動きはどうも奇妙でやりづらい。
砂嵐もひどい。
この調子ではさっさと片付けて帰還、というわけには行かないようだ。

ラオウが一日も早く国を治めるためにも、平和を手にするためにも、走り続けなければならない。
それが己の宿命だからだ。
必要であればその為に命を落とすことすら、リュウガは厭わない。
しかし、まだその時ではない。

まだ、彼女を置いていくには早すぎる。
手を離すには、早すぎる。

「…

懐に大切にしまってあったペンダントを取り出して、リュウガは左半分の結晶を眺めて苦笑した。

これを最初に市で見つけたのはだった。
二人で歩いている最中、突然が立ち止まって、丸い目を輝かせて指差したのがこの一対のペンダントだった。
彼の愛しの恋人殿はなかなかに目が利いて、露店で売られていたそれの値をすぐさま店主に聞くと、早速交渉に入った。
幼い頃によく連れて行かれた蚤の市で、母親がアンティークを見つけては同様に交渉していたのを思い出したのだ、と嬉しそうに話した彼女の手には、獲得した一対のペンダントがあった。
片方を渡されたリュウガが、女物だろうと言うと、はじゃあ見えないように持っててください、とはにかんで笑った。

今頃は食事も済ませて、一人寂しそうな顔をして寝台に入っているだろう。
軍を出す度にの傍を離れることはリュウガとて不安ではあるが、毎回出征に連れてくるよりは拳王府のほうが何十倍も安全だ。
数時間後には、があの平和そうな顔で眠りに包まれているよう祈り、リュウガはゆっくりと目を閉じ、ほんの束の間の休息の後、扉の外に気配を感じて飛び起きたのだった。