どうして不用意に扉を開けてしまったのだろう。
どうして自分は安全だなんて思っていたんだろう。
なんて馬鹿なんだろう。

後悔は尽きないが、悔やむよりも今の状況をどうにかしない限り、この危機を突破することは出来ないと、は奥歯を噛み締めた。
その鼻先、僅か2センチのところには、鈍い光を反射する刃が突きつけられている。
そして立っている場所はといえば、深い深い谷の前―――崖からほんの一メートルほどの場所だ。

「…どういう、つもりですか」
「見たとおりです。貴方にはここで死んで頂きたい」

剣を突きつけている人物は、の良く知っている男―――彼女の部下の一人だった。
部下の中で一番年配で、元は戦闘専門の隊に居た人物である。

「…本気、なんですね」
「ええ」

真剣な声音に、はごくりと唾を飲んで、これが脅しではないことを悟った。
足が微かに震え始める。

どうする。
どうすればいい?

ナイフも銃も常備しているため、腰にしっかりと差してある。銃の射撃の訓練も、ナイフでの攻撃も、ずっと続けてきた。
けれど、上手く出来るかどうかはわからない。
相手は兵士で、よりもずっと力が強い男だ。いつかの野盗のように単純な人間でもない。
銃を抜いて発砲するまで何秒かかるだろうか。一秒よりも多くかかれば、この距離では確実に殺される。
ナイフを使うなら、懐に飛び込まなければならない。
接近戦では間合いを詰める速さで勝負が決まる――リュウガに昔教わったことが蘇る。
いや、それよりも何故、彼は突然裏切ったのだろう。
それ以前に、自分は見知った彼を殺すことが出来るのだろうか。
様々なことが、の脳裏で一気に巡り、混在する。
とにかく時間を稼ごうと、は緊張した面持ちで口を開いた。

「理由をお聞きしても、いいですか」
「その質問には答えられませんな」
「じゃあ質問を変えます。誰に言われたんですか」
「…貴方を快く思わぬ方、とだけ」
「……」

それはつまり、彼は頼まれて自分を殺そうとしているということだ。

「…それは貴方じゃないんですね」
「…」

答える代わりに苦しげに眉を寄せた元部下の表情に、は気づいた。
おそらくこれは彼個人の恨みではなく、誰かに脅されているのだろうと。
そうでなければこんな辛そうな顔はしない。

「質問はもうお仕舞いですかな?」
「いえ。最後に…私が死んだら、どういう風に扱われるんですか」
「…逃亡、もしくは失踪という形で処理されるでしょうな」
「…見逃してもらうことは?」
「……喋りすぎたようですな。そろそろ時間だ」

部下の男―――今は元、だ―――が諦めに似た溜息を一つ吐いて、剣の柄を握る手に力を込めた。
突きつけられていた刃が、ゆらりと振りかざされる。

「言い残すお言葉は」
「それを聞くのは、まだ早いと思います…っ!」

夜の闇に鈍い銀色に光るそれが動いた刹那、の手は短剣を握って迎撃の態勢に入った。

きん、と金属がかち合う音が、夜の空に鋭く響いた。



呼び出されるままに宿の階下に降りたリュウガは、様子がおかしい村人を不審に感じた次の瞬間、何者かの攻撃に倒れた。
どん、と体を通り抜ける衝撃の後、己の体がゆっくりと倒れて床に打ち付けられる衝撃を感じながら、薄れゆく意識の中で脳内を巡るのは、混乱した思考と、愛しい恋人の顔だった。
冷えてざらついた床の感触が頬と指に触れる。
腹部が酷く痛む。


(どういう、ことだ)


敵の気配は無かった。
ただ、妙に村人が集まっていた。
身を隠していたのか。
あの中に敵がいたのか。
意識が遠のいてゆく。


(まずい)


気を失えば、最悪止めを刺される。
しかしいつまで経っても次の攻撃は無かった。
もう殺したつもりでいるのか、それともあえて止めを刺さないのかはリュウガにはわからなかったが、拳王軍の将である自分を狙ってきた冥王軍のものであれば、確実に殺そうとするはずだ。
油断していた己を激しく恨みながら、リュウガは意識を保とうと唇を噛んだ。
じわりと血が滲み、痛みが消えそうになる意識を引き止める。


(俺は死ぬのか、ここで)


(あいつを置いて)


を、置いて?


(―――――――駄目だ、)


村人たちの気配は既に消えていた。
幸いにも、リュウガに止めを刺す気は無いようだ。
細い糸のような意識の中で、リュウガは腕を緩慢に動かして懐のペンダントをぐっと握った。
尖った装飾が手の平に刺激を与え、握っている間だけでもその痛みが意識を繋ぎ止めるように。


、)


いってらっしゃい、と言われた。
ただいま、を言わなければならない。
戦から帰ると、はいつも表情をぱっと明るくさせる。
そして必ず言うのだ。


"おかえりなさい。"


あの笑顔を奪うことなど―――


(おれは、まだ)


死ねない。
まだ、ラオウの役に立てていない。
を守りきれていない。
こんなところで終われない。


「…………………、…」


ゆるゆると指の力が解けていく。
駄目だ、まだ眠っては。
強く思っても、身体は動かなかった。
そうしてペンダントを握ったまま、やがてリュウガは暗い眠りに落ちていった。



カシン、キィン、と、刃がぶつかり合う度に白い火花が散る。
しかしそれは、対等に戦っている為のものではなかった。
肩で息をしながら、はぐっとナイフの柄を握り締めて相手の顔をきっと睨んだ。
疲弊し始めたに対して、元部下の男は、軽く息をついただけでもう一度しっかりと剣を握った。

それを見て、は冷や汗が背中を伝う厭な感じに眉を顰めた。

(鍛え方が違う…!)

男と女の体力差があるのに加え、相手は雑兵レベルとはいえ拳王軍の戦闘職だ。
数ヶ月やそこら鍛えただけのとは、根本的に体力も技術も違う。
それでも、男が小娘相手だと油断していればまだにも勝機があった。
その勝機すら見えそうに無いのは、彼がを侮ってはいないからだった。
士官の地位を手にした自分よりも年下の娘に対して、相応の評価をしている。
平素であれば嬉しいことであろうが、しかし今のにとっては、いっそ見縊られていた方がずっと戦い易かった。
もともと戦闘は苦手なのだから、尚更だ。

「…どうなさいました?息が切れているようですが」
「一応…ぜぇ、か弱い、女の子、ですから、」
「自分でそういう人間は、油断がならない。人間はそういうものだ。…私は、手加減は出来ません」
「そう、ですか。あは、困り、ましたね、」

見逃して欲しいところなんですけど、と再度が苦笑して付け加えると、男はそれは出来かねます、と同じ答えを繰り返した。

「これ以上長引いても、貴方が辛いだけだ。時間稼ぎも無意味です。…終わらせましょう」
「……っ、」

震え始めた足を叱咤して踏ん張り、後ろに足を出そうとして、は不安定な足場に気づいた。
ガラ、と音を立てて小石が転げるの背後は、底の見えない奈落だ。

「な、」

ほんのコンマ数秒足場に気を取られた次の瞬間、男の刃が大きく弧を描いて振り下ろされ、攻撃避けようとした刹那、右足ががくんと落ちた。

「――――――――――!!」

身体がふわりと浮くように感じた刹那、は崖をまっさかさまに降下して、深い谷に飲まれていった。