こんな環境で争いが続いていけば、いずれ国が、否、人が滅びてしまうだろう。 更に、その意思を忠実に体現できる者も、また必要だろう。 「…こんな時に、…!」 ぼやけて見えない太陽を見つめながら、ソウガはぐっと拳を握った。 が―――特務士官の、彼女が。 拳王府に似つかわしくない雰囲気と容姿からは想像もつかないほど、緻密に軍に関わる情報を管理していた女性士官。 「…兄さん。リュウガには…その…の事は…」 レイナの言葉に、不謹慎ながらもソウガはほっとした。 「の捜索は俺が秘密裏に行う。お前は引き続き拳王様の命に従い、野盗の討伐に当たってくれ」 レイナが頷いて去った後、ソウガは一人で夕暮れの太陽を見やった。 空が、雲が、藤色に変わっていく。 太陽が完全に眠りに就くまで、そう時間は掛からなかった。 「た、ただいま…」 恐る恐る中に入ると、玄関には靴があった。 「お帰り。何してんの。さっさと上がんなさい」 何も変わっていない。 (…どうなってるんだろう) とりあえず整理しようと思い、は鞄の中からノートを引っ張り出して、シャーペンで思い浮かんだことをがりがりと書き殴った。 ・学校、変化なし ・家、変化なし ・日付、進んでない。向こう、一年以上経ってるはず ・鞄、服、変化あり。向こうの服なくなる、鞄、服、元に戻る ・ペンダント、ある ・傷跡… 服を着替えるついでに姿見の前に立って確認すると、鏡に映った腕や足には傷一つついていなかった。 「…なんで、」 死ぬ思いで任務を遂げたあの日に負った矢傷が、ない。 (リュウガさんが、褒めてくれて) (だって、だって、) 体中の血の気が引いて、頭の中がかき回されるような衝撃に呆然としていると、階下から母親がを呼んだ。 「は、はーい。今行く…」 わからない、なにもかもが。
雲に覆われた空が、淡いオレンジに染まる。
太陽の光がまっすぐに当たらないため、空気中の粒子によって乱反射し拡散された光は、意外とそれほど強くはない。
最も光がそう強くなくとも、太陽光を吸収する役割を持つ緑が失われた砂漠地帯では、日中は熱が篭るし、空が晴れてしまえば夜の温度がぐんと下がる。
生物が生きるには辛い環境であることは間違いない。
そうなる前に、一刻も早くこの国を治める必要がある。
そのためにも、ラオウの多大な力は必要不可欠だ。
リュウガはそのラオウの志を支えることが出来る男の一人だと、ソウガは確信していた。
それが突然敗戦したと言うからには、相手が余程の力を持つ者か、もしくは彼が上手く嵌められたかのどちらかだ。
リュウガ敗退の知らせを受けて帰還したら、今度はその彼が最も今必要とするであろう娘までもが消えていた。
偵察隊などから来る一切の情報を全て細やかに管理し、会議に適した資料を常に準備していた。
彼女がリュウガの恋人であることは、拳王府の者は殆ど知っている。
そして誰よりも彼のことを想っている事も、よく顔を合わせているレイナやソウガ達は理解していた。
だからこそ、の失踪はあまりにも唐突で不審に思えてならない。
「今はまだ話さないほうがいいだろう…意識は戻ったのか?」
「いいえ、まだ。暫くは…誤魔化せそうよ」
「そうか…」
もしがいなくなったことを知ったら、リュウガは怪我の治療もそこそこに飛び出して行きかねないからだ。
彼が恋人であり部下である彼女を何よりも大切にしていたことは、戦友であるソウガも良く知っている。
だから、リュウガがの失踪を知ったとき、どれほど辛い思いをするかわかるつもりだ。
しかしそれでも、リュウガは拳王軍の将であり、ラオウから信頼を寄せられている人物でもある。
忠義心も強い。
残酷だが、個人的な事情にばかり気を取られていてはいけないのだ。
「…わかったわ」
ぼやけたオレンジ色の球体は橙色の光を地平線に広げながら、その半身を地に沈め始めているところだった。
*
閑静な住宅地の一角の、大きくも小さくもないごく一般的な家の前で、は学生鞄を抱えたまま暫く固まっていた。
"こっち"の世界では半日ほどでも、の感覚では半年、いやそれ以上帰っていなかった家だ。
あの日――厳密に言うと今日、だが――行ってきますと言った家。
部屋に何が置いてあっただろうか。
何か予定があっただろうか。
何か頼まれ事でもあったらどうしよう。
思い出そうとするも結局何一つ覚えておらず、全然記憶にないや、と諦めて、は玄関のドアを開けた。
確か、これは母の靴だ。
が玄関で暫くそれを見つめていると、台所から足音がして母親が顔を出した。
「あ…うん…」
靴を脱いで久しぶりに家に上がると、はそのまま自室に向かった。
階段を上がってすぐの所にあるドアを開けると、久しぶりだが見慣れた部屋が、あの日の朝のままにあった。
この世界は、何一つ進んでいなかった。
・瞬間移動?
「そうだ、傷跡!」
鏡の自分を見つめて、は首を振った。
嘘だ。
(だって、あの時確かに怪我をして、私)
「ー!ご飯よ、下りてきなさい!」
「あ…」
混乱する思考に眩暈がしそうになりながら、は服を着替えてキッチンに下りた。
久しぶりの母親の料理の味すら、今の彼女にはわかるはずもなかった。