「…う、」 冷たい風が足を撫でていき、今にも川の中に吸い込まれそうになる。 は泳げない。 (…迷ってる場合じゃない、よね) 柵を乗り越え、両手で後ろの手すりを掴んで、はごくりと唾を飲んだ。 (…どうにも、ならない) 夢だったと片付け、彼らの存在を本の中だけのものにしてしまえば、は病気や事故にでも遭わない限り寿命をまっとう出来る。 失敗して死んでしまったとしても、それは或いは、心を殺して死んだように生きるのとなんら変わりないのかもしれない。 「わああああ!!!?」 (つめたい、) 戻りたい。 目に飛び込んできたのは、何も無い真っ白な場所。 「成功、した…?」 呟くと、突然誰かの声が頭に響いた。 「!?」 はっと辺りを見回しても、人がいる気配は無い。 「オ、オバケ?」 声の主はの様子を見ているのか、くすくすと笑った。 「…あの…どちらさま、ですか…?」 くすくすと愉快気に笑う女の声に、は戸惑いながら尋ねた。 「さっき…また来たの、って仰いましたよね。私、ここは初めてなんですけど…」 が顔を真っ青にして尋ねると、声の主はいいえ、とそれを否定した。 『似ているけれど違うわ。貴方の精神はここにあるのだから、肉体を再構成すれば貴方が思う"生きている状態"に戻るでしょう』 がはっとして胸元を見れば、半欠けの雪の結晶のペンダントがきらきらと揺れていた。 「あ…」 それであちらの世界で負った傷がの元居た世界では消えていたのに、恋人のリュウガと分け合った"想いの強い"ペンダントは残っていたのだ。 『どう?少しは謎が解けたかしら?』 どうして自分が、と聞こうとして、は口ごもった。 声の主は少し呆れたように笑うと、に尋ねた。 『…ねえ、。貴方、彼に会いたい?』 有無を言わせない女の声に、はぐっと拳を握って声が聞こえてくるほうを探るように見上げた。 「会えるんですか!?」 緊張した面持ちでが恐る恐る尋ねると、女は言った。 『…それは……―――』
自動車が通り過ぎる音を背後に、は大きな橋の上で流れる川を見つめていた。
午前3時半。人通りの少ない時間帯だ。
誰もいないことを確認して、は端の柵に足を掛けた。
眼下の黒い水までは、およそ20メートルといったところだろうか。
水位は約4メートル。
流れは比較的速く、周りに掴まるものもない。
服を着たまま落ちたら、泳げない人間は誰かに助けてもらわない限り溺死するだろう。
だから溺れ死んだら、明日の朝には水流の関係で近くの岸辺で水死体が一つ発見されるというわけだ。
勿論死にたいわけじゃない。
本当に死んだら困る。
けれど、こうでもしないともう二度とあそこには戻れない気がするのだ。
失敗したらどうしようか。
どうもこうも、死ぬに決まってる。
でも、何もしなかったら。
何も怖いことなんか無い、平凡な日々を送れる。
母親の言うとおりに生きて、平坦な道を歩むのだ。
一番好きな人に別れも告げることなく、無理やり過去の事だと言い聞かせて、自分に嘘をついて。
これは賭けだ。
(やるしかない)
「リュウガさんに、会うんだから」
「お帰りなさいって言うんだから」
深呼吸を数回繰り返し、目を閉じてぐっと体を前に倒したその時だ。
「こらーっ!君、なにやってるんだ!!」
「え、…!?」
突然警官らしき人間に声を掛けられ、はっと振り向いた弾みで、の両手はするりと手すりから外れて――
どぼん!
「うわっ!?た、大変だ…!!」
川の水は飛沫を上げての身体を呑み込むと、そのまま静かに流れを戻した。
警官が駆けつけたころには、彼女の体は見えなくなっていた。
*
(くるしい)
ごぼっ、と空気の泡が漏れて、口内に水が流れ込んでくる。
(いき、できない)
身体を丸めて両手で口を塞いでも、身体はどんどん水の中に沈んでいく。
酸素が足りない。
(…たすけて、)
(リュウガさん、)
死んでしまうのか。
やっぱり、駄目だったのだろうか。
こんなところで、水死体になってしまうのか。
嫌だ、と思った。
あの世界の未来を知ってしまった。
あの世界で、確かに自分は存在していた。
もう一度、何が何でも。
(――――――――――――死にたくない)
(――――――――――戻りたい!!)
強く願った途端、の視界は白い光に包まれた。
(…!?)
光の洪水に目を開けていられず、は目を瞑って息を止め続けた。
が、やがて柔らかい温度が身体を覆い、水の中に居たはずの感覚が消えていくにつれ、はうっすらと目を開けた。
白い空間で、は呆然と立っていた。
『また来たのね、』
『ふふ、怖がらなくていいわよ。危害は加えないから』
女の声だった。
それも若い女性のようだ。
『私に名前は無いわ』
「か、神様、ですか」
『そんな大それたものでもないけれど。ふふ、そういうことにしておきましょう。"羊"さん』
「羊?」
『そうよ、貴方は羊。異なった世界から異なった世界に迷い込む者を、羊を呼んでいる』
『いいえ、2度目よ。世界を渡る者はここを通過しなければならないから。ただ、ここの存在は一部の者しか知っていてはいけないの。
だから貴方が以前にここを通ったときの記憶は消してある。覚えていなくて当然ね』
声の主の説明で、はふうん、とわかるようなわからないような顔で頷いた。
「…そう、ですか…あの…神様?私、今どうなっているんでしょうか?」
『今の貴方は、世界と世界の狭間で肉体を持たない存在として漂っている状態よ。貴方が生まれた世界にも、貴方が過ごした世界にも、貴方と言う存在は無いわ』
「そ、それって、死んだってことですか!?」
「肉体を再構成…?」
『そう』
「…その再構成って、私が元いた世界とあの世界では違った風に行われるんでしょうか?傷とかがその、消えたり、とか」
『あら、察しがいいわね。その通りよ、。でも、世界と世界を一定以上の意思で繋ぐ"物"だけは同様に再構成されるわ』
「世界と世界を意思で繋ぐもの…?」
『そうよ。たとえば、貴方のそのペンダントとかね』
「!」
『想いが強く込められたものは、世界を渡るときもそのまま残る。貴方たちが言う"空港の検問"を上手くすり抜けるような感じね。
ただ、今貴方が持っているものは実際に物質化したものではなくて、貴方がイメージしたものよ。
本物は貴方の肉体同様、再構成された後に物質としての形を得るわ』
「そ、そう、なんですか」
「は、はい。あ、でも…」
聞いてもいいことなのだろうか。
自分がこうやって違う世界に行くのは何か悪いことをしてしまったからではないのか、と。
しかしそれを見透かすように、声の主は言った。
『…"何故自分なのか?"でしょう』
「!わ、わかるん、ですか」
『"羊"が考えることは大抵同じよ。でも、理由が必要ではない事だって時にはあるの。貴方が世界を渡ったのはただの偶然よ。
まさか一度帰って、また戻ってくるとも思っていなかったけれど。もしかしたら風渡の素質があるのかもね』
「か…ぜ、わたり?」
『なんでもないわ』
「…!なんで知って、」
『いいから答えなさい。まだ、彼に会いたいと思っているのね?』
『貴方が望むなら』
「会わせて下さい!私、まだあの人がっ、」
『だったら、条件があるわ』
「…条、件?…どんな条件ですか」