「…いいんですかい、お嬢」 振り向きもせずに尋ね返すと、男は呆れた様に肩を竦めて言葉を返した。 「羊ですよ。ありゃあ、これから相当泣くことになるだろうに」 にべもにかわもない主の言葉に、男は少し頬を引きつらせて、聞こえないようにぼそりと呟く。 「…やっぱ鬼だこの人」 男の答えに不満なのか、娘は長い睫で縁取られた瞳をじろりと向けると言った。 「彼女が自分で選んだ道よ。私は出来得る限りの介入をしたまでだわ」 娘は視線を前に戻すと、目を伏せて先ほどのやり取りを思い返した。 条件を聞いたは、沈んだ表情で、それでもそれを受け入れた。 『そう。…それともう一つ』 の目が驚きに大きく開かれて、唇は微かに震え始めた。 『選びなさい、ここで。全てを捨てる覚悟はある?』 ―――わたし、 「震えながら、それでも確りと前を向いて」 ―――全て、覚悟の上です。 「…私にそう言った。だから私は監視者として、羊の覚悟を受け止めなければならない」 娘の言葉に、男は唇を引き上げて笑うと喉の奥で小さく笑い、彼女の後ろで跪いた。 「…ならば私は盾として、貴方様をお守りいたしましょう。 娘は振り向くと跪いた男の顎を取り、額に軽く唇で触れた。 「…羊が渡ってから2週間。彼女は再び移動するはずよ。追跡を再開しましょう」 誰にも知られていない世界で、一人の娘が一人の男と共に、また短い旅を始める瞬間だった。 やがて世界はゆっくりと速度を増してゆく。 「おい!なーにやってんだ、置いてくぞ!」 声を掛けると同時に、連れはばたばたと飛び出してきた。 「ったく、なにやってたんだお前」 ディロンさんの馬鹿、と悪態にもならない言葉を口にして、男の連れ――若い娘だ―――はジープの助手席に飛び乗った。 「うし、じゃあ行くか。忘れもんねぇな?ジュノ」 男にジュノ、と呼ばれた娘はにっこりと笑うと、大きく頷いた。 静かに、残酷に。
が再び世界を超えて無事空間移動をしたことを確認すると、娘――声の主だ――は静かに目を伏せた。
その背後で、男が一人佇んで娘を見つめていた。
「何が」
「泣かせておけばいいでしょう。羊はそういう存在よ」
「何か言った?」
「いいえ、何にも」
「羊の身体能力の改竄は違反じゃなかったですかね」
「生存確率を少し上げた、と言って頂戴。別に超人類的な能力を与えたわけではないし、超能力者になったわけでもないのよ。違反とは言わないわ。…それに」
*
「…わかり、ました。条件を飲みます」
「えっ」
『今度あちらに行けば、あなたはおそらく二度と元の世界に戻ることは無いわ。それはつまり、家族や友人、今までの全てを捨てるということ』
「……!」
それを見ぬ振りをして、娘は言った。
*
「あの子は言ったわ」
「許可します、わが盾」
「畏まりました」
夜の空は星が見えるほどに澄んでいる。
紺碧の中に散りばめられた星を見ながら、男が一人短い溜息をついた。
始末が終わったら直ぐに出るといったのに、連れは準備が遅い。
やっと準備が済んだらしい。
「すいません、ちょっと靴紐結ぶのに手間取っちゃって、」
「ガキかお前」
「ガ、ガキじゃないですよぅ!ちょっと遅れただけじゃないですかぁぁ、」
「はい!」
『―――貴方の今までの記憶を、生活に支障が無いレベルで封じさせてもらう。それが条件』
夜が更けていく。