が再び世界を超えて無事空間移動をしたことを確認すると、娘――声の主だ――は静かに目を伏せた。
その背後で、男が一人佇んで娘を見つめていた。

「…いいんですかい、お嬢」
「何が」

振り向きもせずに尋ね返すと、男は呆れた様に肩を竦めて言葉を返した。

「羊ですよ。ありゃあ、これから相当泣くことになるだろうに」
「泣かせておけばいいでしょう。羊はそういう存在よ」

にべもにかわもない主の言葉に、男は少し頬を引きつらせて、聞こえないようにぼそりと呟く。

「…やっぱ鬼だこの人」
「何か言った?」
「いいえ、何にも」

男の答えに不満なのか、娘は長い睫で縁取られた瞳をじろりと向けると言った。

「彼女が自分で選んだ道よ。私は出来得る限りの介入をしたまでだわ」
「羊の身体能力の改竄は違反じゃなかったですかね」
「生存確率を少し上げた、と言って頂戴。別に超人類的な能力を与えたわけではないし、超能力者になったわけでもないのよ。違反とは言わないわ。…それに」

娘は視線を前に戻すと、目を伏せて先ほどのやり取りを思い返した。



「…わかり、ました。条件を飲みます」

条件を聞いたは、沈んだ表情で、それでもそれを受け入れた。

『そう。…それともう一つ』
「えっ」
『今度あちらに行けば、あなたはおそらく二度と元の世界に戻ることは無いわ。それはつまり、家族や友人、今までの全てを捨てるということ』
「……!」

の目が驚きに大きく開かれて、唇は微かに震え始めた。
それを見ぬ振りをして、娘は言った。

『選びなさい、ここで。全てを捨てる覚悟はある?』



「あの子は言ったわ」

―――わたし、

「震えながら、それでも確りと前を向いて」

―――全て、覚悟の上です。

「…私にそう言った。だから私は監視者として、羊の覚悟を受け止めなければならない」

娘の言葉に、男は唇を引き上げて笑うと喉の奥で小さく笑い、彼女の後ろで跪いた。

「…ならば私は盾として、貴方様をお守りいたしましょう。Her Majesty the Queen女 王 陛 下,」
「許可します、わが盾」

娘は振り向くと跪いた男の顎を取り、額に軽く唇で触れた。

「…羊が渡ってから2週間。彼女は再び移動するはずよ。追跡を再開しましょう」
「畏まりました」

誰にも知られていない世界で、一人の娘が一人の男と共に、また短い旅を始める瞬間だった。

やがて世界はゆっくりと速度を増してゆく。


夜の空は星が見えるほどに澄んでいる。
紺碧の中に散りばめられた星を見ながら、男が一人短い溜息をついた。
始末が終わったら直ぐに出るといったのに、連れは準備が遅い。

「おい!なーにやってんだ、置いてくぞ!」

声を掛けると同時に、連れはばたばたと飛び出してきた。
やっと準備が済んだらしい。

「ったく、なにやってたんだお前」
「すいません、ちょっと靴紐結ぶのに手間取っちゃって、」
「ガキかお前」
「ガ、ガキじゃないですよぅ!ちょっと遅れただけじゃないですかぁぁ、」

ディロンさんの馬鹿、と悪態にもならない言葉を口にして、男の連れ――若い娘だ―――はジープの助手席に飛び乗った。

「うし、じゃあ行くか。忘れもんねぇな?ジュノ」

男にジュノ、と呼ばれた娘はにっこりと笑うと、大きく頷いた。


「はい!」


『―――貴方の今までの記憶を、生活に支障が無いレベルで封じさせてもらう。それが条件』


夜が更けていく。

静かに、残酷に。