洞窟に着いたリュウガが見たものは、血塗れてうつ伏せになって倒れている男と、洞窟の隅で血みどろで呆然と座り込んでいるの姿だった。

!!」

薪を洞窟の端に投げ捨てて急いで駆け寄ると、は焦点の定まらない目で男の死体を見つめたままナイフを握り締めて震えていた。
体を包む毛布が赤く染まっている。

「しっかりしろ、おい!何処か怪我をしたのか!?」
「…ころし…ひと、わ、たしが、」
「しっかりしろ!!くそ、正気に戻れ!!」

何処かに意識を閉鎖してしまっているの頬を、リュウガは躊躇いなく打った。
するとその痛みで我に返ったのか、はリュウガをのろのろと見上げた。

「あ…」
「何があった?」

リュウガが先ほどより少し優しい声で尋ねると、は途端に目に涙をいっぱい溜めて声にならない声を上げた。
その手に握りっぱなしのナイフをゆっくりと指を開いて手放させると、は両手で身体をぎゅっと抱きかかえた。

「落ち着け。ゆっくり息を吐くんだ。深呼吸しろ」
「…は、あ…ッ、はぁ…ッ、は…う、」
「…そうだ。慌てなくていい」

かなり錯乱している様子のを宥めながら、リュウガは男の死体に目をやった。
うつ伏せで倒れているものの、あの銃声との両手についている血の量から、おそらく銃で撃たれた後にナイフで止めを刺されたと見ていいだろう。
銃では殺しきれず、ナイフで刺したといったところだろうか。
そうすればがしっかりとナイフを握っていたことも頷ける。
見たところ、の身体には擦り傷などはあるものの、致命傷や大きな外傷は無い。
身体を包む毛布も切られた跡が無く、毛布を染めているものは全て返り血のようだ。

「…怪我は無いんだな?」

リュウガが尋ねると、は小さく頷いた。
それを見てリュウガは安堵すると、男の死体に近づいて、ずしりと重くなった死体の襟首を掴んだ。
いつまでもこんなところに置いておくわけにはいかない。

「片付けてくる。…すぐに戻る」



死体を処理して洞窟に戻ると、は膝を抱えたままで泣いていた。
無理も無い。
初めて人を殺したのだ。
それも何の力も武術の心得もない、気の弱い娘が、だ。

「……」

静かに嗚咽を漏らすに、リュウガは何も言わず火を熾して自分も濡れた服を脱ぐと、下だけ履いたまま火の傍で保存食を調理した。
いつもなら食事となると元気の出るは、しかし蹲ったままだった。
その細い身体には、まだ返り血がついている。
痛々しい様子に、リュウガはあまり刺激しないように静かに声をかけた。

「…いつまでもそこにいては冷える。火の傍に来い」
「……」
「…身体も清めてきたほうがいい」
「……」

何を言っても反応しないに、リュウガは小さく溜息をついて立ち上がった。
このままだと血が付いたまま一晩を越しかねない。
無理やりにでも身体を清めさせて、別の毛布で身体を温めなければ後で辛くなるのはだ。
リュウガはの前に立つと、ぐっとその腕を掴んで引っ張った。

「立て」
「…っ!」
「お前のしたことは正当防衛だ。心を痛める必要はない」
「……」
「さっさと血を落とせ。俺の毛布を貸してやる。それが終わったら飯を食って今日はもう休め」

そういって、リュウガはを立たせると、自分の毛布を持たせてを洞窟の入り口に向かわせた。
そこまでされてようやく血を洗い流す気になったのか、はのろのろと重い足取りで外に腕を出すと、両腕についた血を雨水で洗い落とした。
それから肩や顔についた返り血を濡れた手で拭って洗い流すと、リュウガに渡された毛布を被って、返り血の付いた毛布を取り払った。
少しだけ確りとした足取りで火の傍に近づくと、リュウガがのほうを見ずに問いかけた。

「……終わったか?」
「…はい」

掠れた声でやっと声を出して答えたに、リュウガは温かいスープを差し出した。

「お前の分だ」
「…」

は差し出されたスープを落とさないように受け取って火の傍に腰を下ろすと、掌からスープの温かさがじんわりと伝わった。

あたたかい。

この手を伝って流れた赤い液体とは違う優しい温かさだ。

その温度に、先ほど出来事が一気に蘇ってきて、は込み上げてきた涙を堪えてスープをゆっくりと口にした。
ちょうどよく塩気がきいた味が口の中に広がり、喉を通っていく。

生きているのだ。

ここに、今、自分はこうして、生きて食事をしている。

死にたくなかったから、自分を殺そうとしたものを殺して、生き延びた。

「……リュウガさん…」
「なんだ」
「…私。本当は、やっちゃいけないこと、したんですね」
「…」

"本当は"やってはいけないこと。
それは"今は"どうしようもないことだ。
この時代、人間という生物の生存への欲求と防衛本能に善も悪も無いのだから。

「…否定はしない」
「…」

リュウガが頷くと、は辛そうに眼を潤ませた。

「だが」
「…?」
「その痛みを覚えている限り、お前は悪にはならんだろう。力の使い方を間違うことは無いだろうと、俺は思う」
「……」

リュウガの言葉には少しだけ驚いたような表情を見せて、それから何も言わずに、スープを口にした。
その様子に、リュウガはが食事が出来る程度にまでは落ち着いたことを確認して安堵した。

人を殺した人間は、理由が何であれ、心を病むものだ。
リュウガ自身、初めて人間を拳で以ってその手にかけたときは酷く悩みもした。
だから今の彼女の気持ちはよくわかる。
しかし、暴力に塗れて荒れ果てた世の中を生き抜くためには、必然的に自己防衛として相手を殺すこともある。
今回はそのケースの典型だ。
それもこの場合、彼女の行動は完全な正当防衛である。

詳しくは聞けていないが、若い娘があの格好で一人で洞窟に座り込んでいれば、気が立った野盗に襲われてもなんら不思議は無い。
そして、はおそらくそれに抵抗して、命の危機を感じ、ナイフと銃を握ったのだろう。

生きるために相手を屠った。
やらなければやられるのだから。

は自分が人殺しになったのだと思い悩んでいるようだが、彼女の場合は一概に"人殺し"とはいえない。
殺すつもりで殺したのではないのだ。
生きるために、相手を殺した、それだけのこと。

要は、その力の使い道を誤らない事が重要なのだろう。

ただ、力の使い方は難しいものだ、とリュウガは思う。
同門でも、手に入れた"力"で人をたやすく殺せることに快感を覚えてしまった連中もいた。
罪の重さに耐え切れずに押し潰されてしまったものもいた。
時代がこうも変わってしまってからは、その違いは以前にもまして顕著だ。
たまたま他の連中よりも精神が図太くて、たまたま他の連中よりも自制心があった。
自分が持つ"力"をただの"暴力"に変えずに済んだのは、おそらくこれだけの違いなのだろう。

ちらりと、スープをゆっくり口にする娘を見遣り、リュウガは眼を伏せた。
はどちらかというと罪の重さに耐えかねて潰れてしまうタイプの人間だ。
気も弱く、好戦的で血気盛んな人間ではない。
旅の途中で野盗に襲われても、大抵は威嚇射撃しかしない。
人を傷つけるのが怖いのだろう。
幸い、人を殺害した直後のショックで錯乱して自殺、という自体は免れたが、ここからどう立ち直るかが問題だ。
は自身を酷く責めている。
ここで立ち直れなければ、本人の意思に関係なく無理にでもどこかのムラに彼女を置き去りにするしかない。

ここからなら風を聴く森が一番近い。
あそこならば、南斗の智将と謳われたリュウロウがいる。
その辺の集落に比べてずっと安全だろう。

そうすれば、二度とはその手を血に染めることはなくなる。
もう今のように怯えなくて済むのだ。

リュウガが一人で思考を巡らせていると、がスープを飲み終わったのか、食器を持って洞窟の入り口に歩いていった。
そして雨水で食器を洗い終えると、何を思ったのかリュウガの隣に座った。
その行動に、一人で眠るのが怖いのだろうかとリュウガは考えたが、は眠る様子は見せない。

「どうした」
「…毛布」
「?」
「リュウガさんの。これじゃ、寝れない、です」
「……は?」

繋がりも纏まりもない言葉から、リュウガはが、"自分の分の毛布を使っているから自分が眠れないのではないか"と言いたいのだとかろうじて汲み取った。

「別に構わん。一晩くらいこのままでも俺は耐えられる。それに今夜はどうせ火を見ているから眠る気は無い」
「…寒いです」
「火を焚いているかぎりはそう寒くもない。いいから寝ろ」
「…風邪引きます」
「ひかん。柔なお前と違って鍛えてある」
「…すいません」
「……おい、今のは別に怒ったわけでは…いや、もういい」

まだ人を殺したショックの抜けきらない人間とまともに会話が成り立つはずもなく、リュウガは仕方ない、額に手を当てて暫く考えて、に言った。

「では…半分よこせ」
「…半…?」
「そうだ。それなら文句は無いだろう」
「…毛布、ちっちゃいです」
「ならこうすればいい」

リュウガはそういうと、毛布の端を掴んでの後ろに回り、自分より二回りは小さい身体を抱きこむようにして毛布を羽織った。

「!」
「断っておくがお前の骨と皮だけの身体になぞ興味は無いからな。そういう面では安心していい」
「……」

はっきりと断りを入れると、は少し黙ってからリュウガの膝をつねった。
それはそれで腹が立ったらしい。
どうやら年齢相応の女のプライドはあるようだ。
リュウガにしてみればその程度の仕返しなど痛くも痒くもないのだが。
けれど、その行動でが徐々に立ち直りつつあることがわかって、リュウガはほんの少し頬を緩ませた。

「まあ、女としてみて欲しいならもう少し肉をつけることだ」
「…別に…いりません…」
「ではなんら問題ないか。考えてみればこの方が温かくていいな、子供体温のおかげで」

がもう一度、今度はリュウガのふくらはぎをつねった。
しかしやはりあまり痛くないので無意味である。

「ちゃちな仕返しをするな。いいからさっさと寝ろ」
「……」

リュウガが毛ほどもこたえていないと知ると、は観念したのか大人しくなって、やがて寝息を立て始めた。
邪な意味は無いものの、結果的に腕の中で眠っているの頭を毛布から手を出してそっと撫でると、まだ少し湿ったままの髪の冷たさが指に触れる。

「…ちゃんと乾せといつも言っているだろう…」

焚き火の明かりに照らされた髪は、少し乱れているものの綺麗に黒く輝いている。
妹の髪も黒かったが、彼女はどちらかというとダークブラウンだ。
のように黒檀のような黒ではない。

「まだ…子供だな」

細い身体は力を込めれば折れそうに弱い。
18と本人は言うが、少なくとも今まで見てきた18歳とは違って、は嘘のように幼く見える。
身体が小柄で、眼がぱっちりと大きい所為だろうか。
臆病で人を傷つけることすら躊躇うは、まるで"守るべきもの"を象徴するかのようなか弱い存在だ。
静かに寝息を立てるを見つめながら、リュウガは後悔とも自嘲ともつかない笑みを浮かべた。

自分の身は自分で守れ。
そう言ったのは自分だ。
ナイフと銃を渡したのも、自分だ。
けれど、いざ彼女が人を殺して罪悪感に苛まれているのを見て、リュウガの胸中は複雑だった。

武器を持ち、自己防衛が出来なければこの時代では生き抜けない。
けれど、その為にの手を血に塗らせたくないと、リュウガは思い始めていた。


ナイフを握り締めたまま、血塗れで座り込んで青ざめた表情で死体を見つめていた姿は、痛々しく弱弱しかった。

あの時、もっと早く戻っていれば。
あの時、一人にしなければ。

もちろん、のしたこと自体はリュウガに責任は無い。
抵抗せずに大人しく言うことを聞くという選択肢も無かったわけではないだろう。
そしてが抵抗しなければ、犯されはしただろうが、あの男を殺すのは彼女ではなく洞窟に戻った自分だった。
は同様に心に傷は負うだろうが、彼女の倫理は守られる。
人を殺したことの罪悪感に苛まれはしない。

けれど、は"抵抗して相手を殺す"ことを選び、"抵抗して相手を殺す"道具を与えたのはリュウガだ。
そして、それを使うという選択肢を与えたのも。


「…お前は、俺を恨むか…?」

答えが返って来ることの無い疑問を眠る娘に問いかけて、リュウガは静かに揺れる炎を見つめていた。



背中から意地悪な男の熱が伝わってきて、は目を閉じた。
普通の乙女ならこのシチュエーションで胸を高鳴らせもするだろうが、色々なことが起こって疲れきったにはそれにときめくような余裕は無かった。
ただ、じわりと伝わる優しい温度が、憔悴した彼女の脳を癒していった。

(やさしい、のかな)

この人は。
意地悪で、怖いけれど。

(ねむい)

温かくて静かで、はゆるゆると眠りの淵に意識を沈めていった。
意識が完全に途切れる前に、髪を撫でる温もりと酷く優しい男の声を聞いた気がした。



(あったかい)




焚き火のじんわりと熱い光に照らされて、は意識を手放したのだった。






翌朝、はいつもよりは少し元気が無いものの、その眼に穏やかな光を取り戻していた。
どうやら、一番辛いところは乗り越えたらしい。
雨も上がり、乾いた服を着ると、はリュウガにぺこりと頭を下げた。

「なんだ」
「…その、昨日はご迷惑をおかけしました…」

あまりにらしい言葉に、リュウガはほんの一瞬だけ微笑んで、それから言った。

「そう思っているならさっさと水を汲んで来い。洞窟のすぐ隣に滝がある。昼前にはここを出るぞ、もたもたするな」
「う!」

ぽいっと水筒を投げ渡されて、はがっくりとうなだれて暗い影を背負って外に向かった。
その後姿に呆れながらも、リュウガは声をかけた。

「おい」
「はい?」
「言い忘れたがな。お前、身体はモヤシのようだが髪は合格だったぞ」
「…ッッ!?」

その言葉に、は怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にして、ぷいっと顔を背けると大股で洞窟の外に出ていった。
どうやら、この反応を見る限りもう大丈夫そうだ。
洞窟の中には、明るい光が差し込んでいる。
外は昨日と打って変わって快晴だ。
リュウガが洞窟から出て空を眺めていると、隣の滝でが四苦八苦しながら水を水筒に入れていた。
そして何かに気づくと、水筒を振り回しながら駆けてきた。

「ぎゃー!!リュウガさんカエル出た!!おっきいカエルが出ました、ひー!!」
「煩い黙れ蹴り落とすぞ」
「そんな!ひーん、ひどいぃぃ」

情けない声で半泣きになりながら小枝を使ってカエルを追い払っているを疲れた表情で見遣ると、リュウガは小さく笑った。

これでこそ、だ。

「全く、手間がかかる」


3週間後、拳王の元に下ると言ったリュウガに、は少しだけ迷ってからこういった。

――ついて行かせてください

と。