ディ・ロンがリュウガを連れて話し込んでいるその頃、ジュノは宿の部屋で一人で考え込んでいた。
仕事仲間であり師でもあるディ・ロンは、あの拳王軍の男たちに何か話すことがあると言った。
自分が来てから仕事はほとんど自分にやらせるようになったらしい彼は、重要なことはいつもジュノには話さない。
ジュノはそれが不愉快でならなかった。

(絶対になんかある)

(それに、あの人たち)

(私を見て、士官、って言った)

(私の記憶に何か関係があるんだ、きっと)

(なのに、なんで置いてきぼりにするんだろう)

硬いベッドの上で丸くなって、ジュノは胸の辺りで光っているペンダントを手に取った。
きらきらと光を反射する銀細工のペンダントは、とても珍しい形をしている。
三又に似た形で、三つに分かれた細いラインのそれぞれに均等に木の枝のような装飾がされており、その三又の重なっている部分には半月形のムーンストーンが嵌め込まれている。
まるで、欠けてしまった片割れを待っているかのように。

このペンダントが誰かに貰ったものなのか、それとも自分で手に入れたものなのか、ジュノは知らない。
覚えていないのだ。
彼女が思い出せる限りの記憶は、ディ・ロンに出会ってからのほんの数か月分しかない。
俗に言う、記憶喪失というやつらしい。

しかし、一口に記憶喪失と言っても、生活習慣や癖などはしっかりと覚えている。
例えば、歯を磨いたり服を着替えたりすることに問題はないし、気がつくと髪をいじっていたりする。
道具をどうやって使えばいいのかは、見たこともないような珍しい道具でもない限りは理解できるし身体が覚えている。
だが肝心な自分自身のこと、つまり何処で生まれてどうやって育ったのか、今まで何をしていたのかが全くわからない。

いつから、どうしてディ・ロンに助けられるような状態になったのかも、そもそも何故一人で行動していたのかもわからない。
家族や友人など、一般的な人間が持つ人間関係はおろか、自分の名前すら思い出すことが出来ないのだから、これはもう救いようがないとしか言えないだろう。
今の名もディ・ロンが仮につけてくれた名なのだ。

所謂“何でも屋”のディ・ロンの仕事を手伝い始めてわかったことはと言えば、どうしてだか銃とナイフの扱いに慣れていて、何故かピアノが得意で、妙に核戦争とやらが起きる前の科学技術に詳しく、やたら運動神経がいいということだった。
それと料理の腕はあまりよくないということ、それくらいだ。

「…ディロンさんのばか」

肝心なことはいつも何も言わないで、どうでもいい事ばかり話すのだ、彼は。
面倒を見てもらっているとはいえ、いつまでも子ども扱いされているのは悔しかった。

ごろごろとベッドを転げまわっていると、誰かが宿の階段を上ってくる音がした。
相方がようやく帰って来たのだろうか。
自分一人だけをのけ者にして、いい根性だ。
むう、と口尖らせて、ジュノはベッドから飛び起きると大股で部屋を横切ってドアを開け、相方と思しき人物に向かって口を開いた。

「もう!何やってたんですか!?私ばっかりいっつも留守番にし…」

腰に手を当ててぷんすかと怒りをぶつけようとしたジュノは、しかし最後まで言いかけてはた、と停止した。

「…」
「……はぎゃっ!?」

てっきりディ・ロンだと思っていた人物は、数十分前にそのディ・ロンに連れて行かれた拳王軍の男だった。
背が高く綺麗な銀髪の男は、おろおろと間違いに慌てるジュノを見て暫く目を瞬かせていたが、すぐに苦笑した。
するとその後ろから、漸くディ・ロンが顔を覗かせた。

「ッたく、何間抜けなツラしてんだ」
「ディ、ディロンさん!ちょ、おおお遅いですよっ、間違えちゃったじゃないですかぁぁ!」
「あァん?知るか、テメェが勝手に間違えたんだろが」
「うううぅぅー!」

ジュノが顔を赤くして、スイマセン、と謝ると、男は僅かに微笑んで構わん、と答えた。
そして、はっと気づいた。

「で、なんでこの方がここに?」
「客だ。テメェのな、ジュノ」
「え!?わ、私ですか!?」
「あァ」

おたおたと身なりを整えるジュノに、ディ・ロンは呆れた表情で頭を掻くと、くるりと背を向けて部屋を出た。

「俺ァ先に飯食ってっからな。あんましアホな事やらかすなよ」
「は、はい」
「それと」
「はい?」

ジュノは首を傾げると、ディ・ロンは意味ありげな表情で言った。

「襲われんなよ?」
「…はあぁ!?」
「夜までには帰ってもらうんだぞ。父ちゃんシンパイしちゃうから」
「誰が誰のお父さんですかぁぁ!」

おかしなからかいを受け、ジュノは真っ赤になってしっしっ、と相方を追い払うと、二人のやり取りを見ていた男を振り返った。
そして、改めて息を落ち着けると、にっこりと男に笑いかけたのだった。





「あの、スイマセン、うるさくて。あ、どうぞどうぞ、座ってください!」
「ああ…」
「あの人、いっつも変なとこ過保護なんですよ。人のこと子供扱いするし、肝心なことは何にも教えてくれなくって…っと。そういえばあの、どう言ったご用件なんですか?」

勝手に話してしまって、ジュノは慌てて男に尋ねた。
しかし男はそんなジュノの様子を優しい目で見つめていた。

「…あ、あの…」
「あ…いや、すまぬ。…記憶喪失だと聞いたのだが…以前同様、元気にしているようで安心したのだ」
「!」

その言葉に、ジュノは思わず身を乗り出した。
以前、ということは、彼は自分をやはり知っていたのだ。
そうでなければ“以前”という言葉を使うはずが無いのだから。

「あの、やっぱり私の事知ってらっしゃるんですか!?」
「…少し、な」
「…ッ!」

少し。
それは何処から何処までなのだろうか。
と、そこでふとジュノは男の胸元の者に目を瞠った。

「…!そのペンダント…!私のと同じ…!」
「!いや、これは」

男は何故か慌てた様子でそれをしまう。
それが更にジュノの感情を煽った。

「教えてください!どんなことでも良いんです!…そうだ、名前!私の名前、ご存知ですか!?」

ジュノの切羽詰った様子に、男は少々驚いたような顔をしたが、すぐに冷静になって答えた。

「本名かどうかは知らぬが…と言う」
…あれ?でも、士官って、じゃあ私、」
「いや。あれは俺の部下の間違いだ。お前と俺は個人的に会った事はあるが、士官とは関係ない。他人の空似だ」
「…他人の…空似…?」
「たまたま同姓同名の知り合いが二人居ただけだ」
「……そう…ですか…」

しっくり来ないが、とりあえず名前を知っている人に会えたことで、ジュノは大きな収穫を得たような気分になった。

自分の名前はと言うのだと、彼は言った。
それだけで、ジュノ――否、には自分という存在がはっきりしたような気持ちになれた。
。自分は、確かにそんな名前だった気がする。

「すみません、取り乱しちゃって。…なんか、言ってみると案外するっと入ってくるものですね。名前って」
「…そうか。それは良かった」

ふっと微笑む男が良く見ればかなりの美形だった事に気づいて、は少し頬を染めた。
男の背が高いから座らないと顔が良く見えなかったので気づかなかったが、銀髪の男は白馬の似合いそうな男だった。

「えと、それで。私とあなたは、どういう関係だったんですか?その、変な意味じゃなくて、友達とか知り合いとか…」

が尋ねると男はほんの僅かに眉を動かした。
しかし瞬きする間の一瞬の動きだったためにはそれは気づけなかった。

「……ただの、顔見知りだった。お前のことは、顔と名前以外は詳しくは…知らぬ」
「顔見知り…本当に?」

どうも違う気がしてならず、が食い下がると、男は静かに頷いた。

「…………ああ」
「でも、そのペンダント、私のと…」
「これは偶々知り合いに貰ったものだ。お前が持っているものと対になっていることは知らなかった」

はっきりと断言されて、は溜息をついた。
もっと記憶に関係の深い人だと思ったのだが、当てが外れたようだ。

「…そう…なんですか…」

そんなはずはない、と頭の片隅で叫び続ける自分を抑えて、はぐっと拳を握った。
名前がわかったのだ、それだけで十分じゃないかと自分自身に言い聞かせ、はそれ以上の追求を諦めたのだった。



久しぶりに話すは、相変わらず元気で、どこか抜けていて、最後に別れたあの日と全く変わった様子は無かった。
変わったことはと言えば、俺を見て名を呼んでくれなくなったくらいだ。
たった少しのことが、酷く重くて苦しい。
それでもそれを表情に出すわけにはいかなかった。

「あの、スイマセン、うるさくて。あ、どうぞどうぞ、座ってください!」
「ああ…」
「あの人、いっつも変なとこ過保護なんですよ。人のこと子供扱いするし、肝心なことは何にも教えてくれなくって…っと。そういえばあの、どう言ったご用件なんですか?」

用件。
なんだっただろうか。
ただ声を聞きたい、話をしたいと思ったのだ。
いつか会えると思い信じてきたことが叶ったのだから。
例えそれが残酷な現実であったとしても、会って話をしたかった。
だが、それを言うわけにもいかない。

「…あ、あの…」
「あ…いや、すまぬ。…記憶喪失だと聞いたのだが…以前同様、元気にしているようで安心したのだ」
「!」

そう答えると、は表情を一変させて身を乗り出してきた。

「あの、やっぱり私の事知ってらっしゃるんですか!?」

誰よりもよく知っていると言えたらどれほど楽だろうか。
知らせることができれば、お前は俺のものなのだと言うことができればどれほど楽か。

「…少し、な」
「…ッ!」

俺が答えると、ははっと俺の胸元に目を留めた。
ペンダントだ。

「…!そのペンダント…!私のと同じ…!」
「!いや、これは」

話ができるということに気を取られて、隠すのを忘れていた。
なるべく焦りを悟られないようにそれをしまうと、は俺に食いかかりそうな勢いで尋ねてきた。

「教えてください!どんなことでも良いんです!…そうだ、名前!私の名前、ご存知ですか!?」

その言葉の意味するところは、は自分の名すらも失っていたと言うことだ。
やはり単に偽名としてジュノと名乗っているわけではなく、本当に忘れていたらしい。
名前すら失って、懸命に自分の過去を辿ろうとする姿が痛々しい。
あの男に余計なことは口にするなと言われたが、己の名もわからないと言うのはきっと大きな不安だろう。
俺がこれを教えることでの苦しみが減るのであれば、後であの男に何を言われてもいい。
そう思った。

「本名かどうかは知らぬが…と言う」
…あれ?でも、士官って、じゃあ私、」
「いや。あれは俺の部下の間違いだ。お前と俺は個人的に会った事はあるが、士官とは関係ない。他人の空似だ」
「…他人の…空似…?」
「たまたま同姓同名の知り合いが二人居ただけだ」
「……そう…ですか…」

咄嗟に口をついて出た嘘を無理矢理押し通すと、はそれ以上は聞かなかった。
ただ残念そうに肩を落とすと、いくらか落ち着いた様子で口を開いた。

「すみません、取り乱しちゃって。…なんか、言ってみると案外するっと入ってくるものですね。名前って」
「…そうか。それは良かった」

微笑むを見て、俺は僅かだが心が和らいだ。
そうだ、そうやって笑ってくれればいい。
何故かほんの少し頬を染めたに、俺は何か思い出したのかと思ったが、次の彼女の台詞でそれは無かったことがわかった。

「えと、それで。私とあなたは、どういう関係だったんですか?その、変な意味じゃなくて、友達とか知り合いとか…」

関係。
俺とお前の関係など、一つしかない。
しかしそれを言えば、あの男の言ったとおり、は泣くだろう。
思い出せなくてごめんなさい、忘れていてごめんなさい、と。
それが簡単に想像できて、俺は結局また嘘をつくしかなかった。

「……ただの、顔見知りだった。お前のことは、詳しくは…知らぬ」
「顔見知り…本当に?」

そんなはずが無い。
お前のことならば、誰よりも良く知っている。
不安になると口を尖らせる癖も、髪を弄る指の動きも、全部。

「…………ああ」
「でも、そのペンダント、私のと…」
「これは偶々知り合いに貰ったものだ。お前が持っているものと対になっていることは知らなかった」

嘘だ。
お前が買って、俺に渡した。
二人で一つずつ持つことにしただろう。

手を伸ばせば、髪に触れられる。
もう少し伸ばせば、頬を撫でられる。
もっと近づくことが出来れば、抱きしめることも出来るはずなのに、

口付けることすら、簡単だろうに

なぜ、なぜ。


「…そう…なんですか…」

何故、思い出さない?





(笑ってくれ。俺の名を呼んで、あの日のように)