「ごめんなさい。お時間取らせちゃって」
「いや。押しかけたのはこちらだからな」

夕日が沈み始めて空が橙一色に染まる頃、リュウガはの部屋を出た。
あれから話したことはがディ・ロンとどう過ごしているのかくらいで、には収穫にならなかったが、リュウガには十分な収穫に
なった。
時折頬を膨らましてディ・ロンの愚痴を言うの様子が微笑ましいのと同時に、以前の自分の位置を取られて、胸がちりちりと焦げるような気持ちになったけれど。
宿の外まで見送りに出たは、背の高いリュウガを見上げて思い出したように手を叩いた。

「そうだ!あの今更ですけど、お名前聞いても…よろしいでしょうか?失礼ですけど、私本当に思い出せなくて…」
「…ああ」

そういえば名乗っていなかったことを思い出し、リュウガはもう何度目かわからない胸を押し潰すような鈍い痛みを堪えて答えた。

「リュウガ。天狼星のリュウガだ」
「リュウガさん、ですね」

リュウガさん、と何度も繰り返すの声は、4ヶ月前のそれと何一つ変わっていなかった。
少し高めの声で、いつも使っていた呼び方で、が繰り返し名を呼ぶ様子を見つめて、リュウガは少し頬を綻ばせた。

(変わらないのだな、お前は)

「…リュウガさん。リュウガさん…うん、覚えました!」
「そうか」

良かった、と心の中で呟くと、リュウガは席を立った。
直に兵を帰還させる時間になる。
部下たちには心配をかけてしまっているので、これ以上長居すると彼らがディ・ロンやに何をしでかすかわからない。

「そろそろ行かねばならぬか…」
「あ、そ、そうですか。ほんとにありがとうございます、お話できて良かったです」
「いや、構わない。…お前に逢えて嬉しかった」
「え?」
「なんでもない。では、俺は行くとしよう」

これ以上傍に居ると、冗談抜きで連れ去ってしまいたくなる。
しかし惜別の苦しさを堪えながら背を向けたリュウガを、が呼び止めた。

「あ…リュウガさん!」
「?」

振り返ると、夕日の色に染まったはきゅっと拳を握って、訴えかけるような目をして言った。

「…私、忘れませんから。今は忘れてるかもしれないけど、絶対、ちゃんと思い出しますから。だから、私があなたの事を思い出したら…」


(思い出したら)

(その時は、お前は――)


「…また、一緒にお話ししましょう!」
「…っ」

ああ、そうだ。
は、"顔見知り"だと思っているのだから、今はこれが限界だ。
それでもリュウガは、一生懸命な恋人の想いを正直に受け止めることにした。

「…ああ。必ず」

微笑んで応えると、はぱっと花のような笑顔を見せた。

(その笑顔だけで、今は十分だ)

何処に居てもいい。
誰と居ても、穢されてさえいなければ今は構わない。
ただ、ずっと笑っていてくれれば、何も望まない。

そんな思いで、リュウガは今度こそ背を向けて、の前から去って行った。



「よろしいので?リュウガ様」
「ああ」

部下の元に帰ったリュウガは、上司の身を案じる側近の言葉に頷いた。

「しかし、あれは間違いなく…」
「言うな。…あれはもうお前の知っている士官ではない」
「ですがリュウガ様は未だ…!」
「くどい。士官は死んだ。それでいいのだ」

納得がいかない様子の部下にはっきりとそう告げると、リュウガは帰還命令を下した。
もうここにいても仕方がない。
馬を進めて街を出ようと廃ビル街を横切るところで、前からみすぼらしい身なりをした一人の女が歩いてきた。
深くフードを被った女は、すれ違う瞬間に明瞭な声でリュウガに向けて言った。

「安心しなさい。おそらく羊はまた貴方の前に現れる」
「羊…だと?」

ふふ、と意味ありげに微笑む女はまだ若く、わずかに見える隙間から覗く美しい容貌にも拘らず、そら恐ろしい空気を持っていた。
女は続ける。

「あの娘は破壊者であり創造主。貴方が御丁寧に全うしようとするものの価値は、きっともう直ぐ消えて無くなるわ」
「どういう意味だ」
「自分で考えるのね」

それだけ告げると、女はするりとリュウガの乗る馬の隣をすり抜け、街の中に姿を消した。
リュウガがもう一度振り向いたときには、女の姿はまるで幻のように綺麗に消えていた。



一方、とディ・ロンは仕事――野盗の掃除だ――の報酬を手に、宿で寛いでいた。
二人の仕事、所謂何でも屋は野盗の始末や失せ物探し、人探しと様々な依頼が来る。
元はディ・ロンが一人でしていた仕事だが、が彼の元に舞い込んでからは二人で仕事をしている。

とはいうものの、まだ見習い段階のは何故か妙に覚えも運動神経も良く、既に見習い以上の仕事をさせられ、あまつさえディ・ロンに仕事を押し付けられていると言うのが現状である。
今回の仕事だって、依頼を請けたのはディ・ロンなのだが仕事をしたのはだけだ。
ディ・ロンはといえば、報酬の交渉に余念が無く、尊重に報酬の割り増しを頼んでいたくらいだった。
結果的には付近の野盗を全滅させたのだからしっかりと相応の報酬を貰ったが、としてみれば何故一人で全部やらされるのか不満なところである。

「ぬううぅ」
「なにが、ぬうー、だ。いいじゃねェか、2週間分の食料が手に入ったんだ」
「ディロンさんはサボってただけじゃないですかぁ!」
「アホ、交渉してたんだよ。報酬、もうちょい弾んでくれっつってな、得したんだぜ、これでも」
「むううぅー!」

口を尖らせてブーイングするの相手をすることを諦めて、ディ・ロンは話を変えることにした。

「で?あいつと話してなんかわかったか」

ディ・ロンの言葉に、は不機嫌な顔をいっぺんに嬉しそうなそれに変えて頷いた。

「ああ、はい!実は私の名前が判明しました!!」
「…ほーぉ、そりゃよろしいこって」

返したディ・ロンは心の中で、あのヤロウ、名前みてえなデカイ手がかり教えやがって、と舌打ちしたのだが、それはには気づかれなかった。

「で、なんて名前だって?」
「えと、と言うそうです。言われてみればそんな名前だった気がしてくるし、絶対これが本当の名前なんですよ」
「んじゃ、テメェはもうジュノじゃねェってことか」

ディ・ロンの言葉に、ははっとした顔をした。
今のジュノ、と言う名は彼がつけてくれた名なのだ。
本名を知ったのならば、それを捨てることになる。

「あ…」

の焦った表情を見て、ディ・ロンは肩を竦め低い彼女の頭を撫でた。

「わ、」
「別に気にしてねえよ。良かったじゃねえか、名前がわかって」
「あ…はい」
「ま、"ジュノ"は仕事用の名前にして使い分けりゃあいいし。どっちを名乗っても俺は構やしねェ」

ディ・ロンのいつになく優しい言葉に、は神妙な顔になったが、すぐにまた、そうですね、と笑顔を見せた。
それを見て、頭を撫でていたディ・ロンは手を離すと、不意に、そういや、と何かを思い出したような声を出した。

「言うの忘れてたけどな、俺ァ暫く単独行動すっから」
「そうですか、わかりまし…………って、はあぁ!?」

突然の別行動宣言に、は大いに驚いて声を上げた。
単独行動とはどういうことだろう。
そもそも、何故そんな大事なことを知らせるのを忘れていたのか。
まさか、また仲間はずれにするつもりなのだろうか。
突然の別行動宣言に目を白黒させるの様子を淡々と見て、ディ・ロンはそのまま説明を続ける。

「安心しろ、お前は知り合いんトコに預かってもらうことになってる。明日の昼過ぎにそいつがここにお前を迎えに来っから、荷物ちゃんと纏めとけよ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!なんで急に、」
「こっちにも事情があんだよ」
「事情ってどういうことですかっ、」

納得できないとばかりに食い下がるに、ディ・ロンは葉巻に火をつけて白煙を吐き出すと有無を言わせぬ声で一言だけ返した。

「テメェにゃ関係ねえ」
「…っ!」

取りつく島もないディ・ロンの言葉に、はそれ以上何も聞けなくなり、黙って俯いた。
関係ない。
たったこれだけの言葉で、これ以上何を聞いても無駄だとに理解させるのには十分だった。
関係ない。
そう言われてしまっては、例えが何をどうしようと、彼は自分が決めたことを覆さないだろう。
無理矢理ついていっても追い返されるのが関の山だ。
それはディ・ロンとはたった数ヶ月の付き合いのにも容易に想像できた。
沈んだ様子のに、ディ・ロンは煙草を灰皿に押し付けると苦笑した。

「…んな落ち込むな。テメェが悪いわけじゃねェんだ」
「…」
「今生の別れでもねェし、また会える。縁起の悪ィ顔するなって」

ディ・ロンの言葉を黙って聞いて、は不意に口を開いた。

「…ほんと、ですか」
「あ?」
「…ほんとに、またちゃんと会えるんですか」

きゅっと唇を噛んでがそう尋ねたのには明白な理由がある。
ディ・ロンは、危ない仕事や良くない仕事だけは何が何でもに手伝わせないのだ。
仕事は暗殺であったり、要人の警護であったりと様々だが、経験豊富な彼でなければできないようなものばかりだった。
そういう時は決まって詳しく言わずに、少し出てくるなどといって出かける振りをして仕事をしてくる。
音信不通で一週間帰ってこない時もあった。
つまりは、一週間も帰って来られない状態になったりするような仕事を請け負うことがあるのだ。

は、そんなディ・ロンが心配でならなかった。
自分を助けてくれた男がいつの間にか命を落として帰ってこなくなるかもしれないということを考えたくないのだ。
その甘さこそが、ディ・ロンに単独行動をとらせる要因なのだが。

「…断言はしねェよ。けどな、こういう仕事をやってるってことは、俺がお前を相棒にした時に言ってあったはずだ」
「…!」
「なァに、どうせいつもどおりちゃっちゃと済ませて迎えに行ってやる。どれ位かかるかしらねェが、イイ子にしてりゃすぐ帰ってやんよ」
「…絶対、ですよ」

絶対。
その言葉は、彼がいつも使うなといっている言葉だ。
けれど、はそれでも信じたかった。

絶対に帰ってくる、と言うことを。

それを読み取ったのか、ディ・ロンは複雑な表情で僅かに笑むと、はっきりと答えた。

「…あァ。絶対、だ」
「…わかりました」


翌日、がベッドから出た時には、ディ・ロンは既に街を出ていた。
暖めた朝食を一人で食べながら、は迎えが来るのを静かに待つことにした。