「よう」 斜め後ろに立っていたのは、ディ・ロンがを預けた男、ジュウザだった。 「…どうも」 がとりあえず挨拶をすると、ジュウザはおどけた調子で挨拶を返した。 「……何か御用でしょうか」 ジュウザはそう言うと、手すりの上に座って懐から折りたたんだ紙を取り出した。 「琥珀からだ」 奪うように紙をひったくってみれば、ディ・ロンの文字で宛に宛名書きがしてあった。 "To Juno" どうやら彼はまだこの名を使うつもりらしい。 「あいつ、なんだって?」 聞きなれない言葉にが首を傾げると、ジュウザがなんでもねえ、と答えた。 胡蝶のジュノ。 「空の女神か。あいつも洒落たことするじゃねえか」 ジュウザがの頭をくしゃりと撫でた。 「…ジュウザさんって、」 が尋ねると、ジュウザは顎を擦りながら暫く考えて、そうだな、と答えた。 「あー…5、6年位前からだ」 自分で言うとはなかなか図々しい男だと、は率直にそう思った。 「ディ・ロンさんとはどんな感じで知り合ったんですか?」 色々。 写真立てには女の人が写っていた。 『恋人さんですか』 そう尋ねたら、ディ・ロンは黙って写真立てを伏せた。 それからに言った。 『色々あるんだよ。詮索すんな』 ジュウザの今の言葉にも、どことなく同じ意味が含まれている。 一方、一人で何か考え始めたを見ていたジュウザは、なんとはなしに目の前の若い娘の胸元で揺れるペンダントを手に取った。 「変わった形だな、コレ。見ていいか?」 がそういってジュウザにペンダントを手渡すと、ジュウザは苦笑しながらそれを受け取った。 「いくら俺でも身一つのガキから物獲ったりしないぜ?…何の形だ?」 の口から唐突に異母兄弟の名が飛び出したので、ジュウザは危うくペンダントを取り落としそうになったところを寸でで掴み直した。 「リュウガって…天狼星のリュウガのことか?」 が説明した外見の特徴だけに当てはめても、確実に異母兄弟の兄上殿である。 「なんでお前がそいつの事知ってんだ?」 少し前に会った兄の顔を思い出しながらジュウザが訝しげに尋ねると、は素直に答えた。 「お仕事先の集落に来てたんです。それで、どうも私のことを知ってらっしゃったみたいなんで、お話したんですよ」 ジュウザが声真似をして見せると、は笑って、いえ、と首を振った。 「教えてもらっただけです。私の名前を」 その言葉を聞いて、ジュウザは眉根を寄せた。 「…なぁ」 一人で質問しかけて納得したジュウザが言いたいことがなんとなくわかって、は頷いた。 名前が無かったから、ディ・ロンにジュノという名を貰った。 が頷いたのを見て、ジュウザは少し頭を掻いて尋ねた。 「もしかして記憶喪失…ってやつか?」 尋ねられたは、僅かながら複雑そうな表情で笑った。 「まあ、そうです」 どうやらディ・ロンは、の詳しい状態は伝えていなかったらしい。 余計な詮索はするな。 「で?」 さらりと答えたに、ジュウザはこめかみに指を当てた。 「どうすんだ、お前」 困ったように笑うを見たジュウザはなんとはなしに、何故ディ・ロンが彼女を自分に預けた理由がわかった気がした。 危ういのだ。 空っぽになってしまっているのだ、このひょろひょろの娘は。 何をどういえば良いのか迷い、ジュウザは躊躇いがちに口にした。 「俺な、そこそこ顔が利くからよ。何かわかったら言えよ?」 その言葉を聞いたの目が意外そうに開かれたのを見て、ジュウザはの頭をわしわしと撫で回した。 「ほわう!?何するんですかぁぁ、」 茶化された気分になって気恥ずかしいのが相まって、ジュウザはの襟首を掴んでずりずりと城の中に引っ張り込んだ。 「あっ、待ちやがれ!」 そんなやり取りを皮切りに始まった追いかけっこは、結局小一時間ほど続き、最終的に体力の差での敗北で幕を閉じた。 「なーんか妹が出来たみてえな感じだよな、兄貴に」 と、平和なコメントを残していた。
がジュウザの城に預けられてから一週間が経過した。
ディ・ロンは、まだ迎えに来ない。
城のバルコニーに出て、手すりに凭れて外をぼんやり見つめながら、は溜息をついた。
今回の仕事はそれほど慎重にこなさなければならないのだろうか。
それでも、彼がこんなに時間をかけて仕事をすることは今までにあまりなかった。
もしかして、と最悪の想像を打ち消すように首を振り、が難しい顔で考え込んでいると、後ろから誰かが近づいてきた。
「あ…」
「はい、どーも」
「何の用だと思う?」
そしてそれをひらひらとに見せ、少し唇を吊り上げて笑いながら告げた。
「えっ!」
彼らしいと思いながら急いで手紙を開くと、そこには近況が書かれていた。
「…あと3週間ほどかかるかもしれないそうです…でも、今は危険な段階じゃないから心配するなって」
「ってことは、あと3週間はイヤでもここにいなきゃいけないわけだな、胡蝶サン」
「こちょう?」
それが自分の通り名だということを、この小柄で気弱そうな娘は知らないらしい。
ジュウザもつい最近までは知らなかったのだが、琥珀のディ・ロンの相棒はまるで蝶のように舞うように闘うのだと人づてに聞いた。
こんなヒョロヒョロじゃ蚊トンボがいいトコだ、とあえて口には出さずに心の中で呟いて、ジュウザはひらりと手摺から降りた。
そしての持つ手紙を覗くと、苦笑した。
「…空の女神?」
「なんでもねえさ」
その仕草がディ・ロンのそれに似ていて、は目をぱちくりさせて、ジュウザに尋ねた。
「あん?」
「いつからディ・ロンさんとお知り合いなんですか?」
「結構長いんですね、それじゃ」
「まぁ、そこそこな。なに、お前、野郎同士の馴れ初め聞きたいの?」
「…ジュウザさんが言うと思い出話すら卑猥に聞こえるんですけど」
「はぁ?ピュアで純情な俺がか?」
おかげで益々ジュウザが18歳以上の女性御用達に見えてきたのだが、は今日のところは突き詰めずに話題を変えることにした。
「スルーですか。…まあいいや、俺の知り合いの知り合いでな、顔合わせたらそれがヤツだった」
「それだけ?」
「別にそんだけじゃねぇけどよ…色々あるんだ。男にも」
「…ふうん」
その言葉を聞いて、はそう言えば以前にもディ・ロンに同じことを言われたことがあったのを思い出した。
あれは確か、ディ・ロンが使っている小屋の隅に置いてある写真立てを見たときだ。
それを感じ取って、はそれ以上は聞かないことにした。
「あ…はぁ、どうぞ。ちゃんと返してもらえるんなら…」
「さぁ…それも聞いとけば良かったなぁ、リュウガさんに」
「…は?」
リュウガ。
その名前をもつ人物を、ジュウザは一人しか知らない。
「多分、その方です。拳王軍の方で、背が高くって、銀髪の男の人でした」
堅物で、生真面目で、少し融通の利かないところがある、身長ばかりひょろひょろと伸びてくださった――リュウガのほうが身長があるので、とジュウザは個人的に少々羨ましかったりするのだが――まあ、その兄上殿だ。
「何だ、イチャモンでもつけられたのか?ここは拳王様の領土だー、とか何とか」
名前を教えてもらったというのはどういうことだろう。
まるで、自分の名を知らなかったとでも言うような台詞ではないか。
「はい」
「お前、ジュノって………ああ、だから“ジュノ”だったのか」
本当の名は、リュウガが教えてくれたものだった。
そういうことだ。
「なるほどな、やっと合点がいった。琥珀からワケアリとは聞いてたが、こういうことか」
聞かれたら答えるが、聞かれていないことは話さない。
よく、そんな言葉を口にしていた。
厄介事が嫌いな彼らしいと、は肩を竦めた。
「はい?」
「どの程度覚えてる」
「素性や基本的な自分の情報以外です」
彼女の言葉をそのまま呑み込むと、つまり名前以外今のところ何もわかっていないという事だ。
「思い出せるようにがんばってるところです。手掛かりが無くて、なかなか大変ですけど」
どこと無く、全体的な雰囲気とでも言うべきだろうか。
の存在は、記憶という歴史が無いからか酷く脆く、希薄に感じるのである。
そこにいるのに、どこにもいない。
触れられるのに触れていないような掴み所のない危うさが、ディ・ロンに本当の意味での相棒と認めるのを阻んでいるのだ。
仕事振りだけなら、“胡蝶のジュノ”はそれなりに琥珀のディ・ロンと並んでそこそこ知られてきている。
聞くところによれば、空を舞い踊る蝶のように動き、野盗を昏倒させるのだそうだ。
そんな印象的なパフォーマンスができるのに、それにも拘らず彼女の容姿が知られていないのは、その存在感の薄さからではないかと、ジュウザは推測した。
「あー…なんだ」
「はい?」
「えっ」
「だから…協力してやるって言ってんだよ」
「お前こそなんだよ、その、チョー意外!このヒト優しかったのー?ってな顔しやがって!」
「えええ、なんでわかったんですか!?」
「てめ、肯定しやがったな!?」
「ぎくー!!」
「ぎくー、じゃねえ!お前、ちょっとこっち来い!アホ娘!」
「むあー!?はっ、離してくださいぃぃー!」
その手を上手く振り解き、がぱっと駆け出す。
「いやですよぅ!」
「待てコラ、ーっ!」
長閑な昼間のじゃれ合いを見たジュウザのアジトの連中はその様子を見て、