どうしてだか、いつからだか、それはまだ思い出せないけれど、自分は確かに拳王軍に居て働いていた。 (そうだ、ピアノ!) 確か城のピアノを弾いていたら、誰かが自分の演奏を気に入って、それで聖帝の城に行かされたのだ。 (命令をしたのは拳王様。一緒に来てくれた人は、確か、そう、ソウガさんって人!) しかし結局相手の罠に嵌って、軟禁されて、それから、それから。 あの日、は綺麗なドレスを着せられてサウザーの下に送られた。 宴は終わり、帰ろうとした自分をサウザーが引き留めた。 そうしたら彼のあの眼が、獣の眼が――― 「!!」 突然部屋のドアを激しく叩かれて、ははっとベッドから飛び降りた。 「外へ!!早く来て、大変なの!!」 走りながら、サラは泣きそうな声で叫んだ。 「血だらけで…!!」 息を呑んで、はサラの手をぐっと握って外に出た。 「…っ!!ディロンさん!!」 が駆け寄ると、ディ・ロンはうっすらと目を開けて蒼白な顔の相棒を見た。 「…ジュノ、…」 掠れた声で相棒の名を呼ぶ男のその肩から、腹から、頭から、とめどなく血が溢れている。 「…やっ…ちまった……みっともねェ…へへ、うぐ、」 動揺して震えた声を隔す事すら忘れて、は首を振った。 「は、早く手当てしましょう、は、話はそれからで、」 縋るようにジュウザに同意を求めたは、ジュウザの無言の返答でその願いが崩れ去ったことも、それが無意味であることも理解せざるを得なかった。 ディ・ロンがゆるゆると首を動かして、ジュウザの方を向いた。 「……おい、」 血がこびり付いた唇が動く度に、喉に詰まった血の所為で、ひゅう、と乾いた音が漏れた。 「…おう」 困ったように唇の端を上げるディ・ロンに、精一杯笑顔を作りながら目に涙を浮かべて縋りつくの肩に手を置いて、ジュウザがそっと制した。 「…困らせてやるんじゃねえ」 ジュウザの手を振り払ってはディ・ロンの手をぎゅっと握った。 「…ア…リサ…、なんだ、そこに…いたのか…はは、」 隙間風のような空気の混じった声が満身創痍の男の口から紡がれた言葉に、は眉を顰めた。 「え…?」 アリサ。 「…俺、やっつけたぜ…あいつ、ら…お前を…殺したやつら、さ…」 ディ・ロンの耳には、既にの声は届いていない。 彼は薄れ行く意識の中で、確かに彼女に会っているのだ。 「…アリサ…………」 「嘘…嘘、嘘ですよね!!?ねぇ、ディロンさん、うそ…!」 握ったその手は、二度と鼓動を刻まない。 閉じられた瞼は開かない。 まだ暖かく、眠っているようにしか見えなくても、――― 「……うそ。」 体中の血液がざあっと引いていく。 「ディロン…さん…?起きて、起きてください!!ディロンさんっ!!ねぇ、起きて…!!」 叫びながらディ・ロンの身体を揺するを、ジュウザが押さえ込んで引き離した。 「帰ってくるって行ったじゃないですか、絶対迎えに行ってやるって!!なんで…どうしてぇっ!!?」 ―――絶対に、だ。 「絶対、また会えるって、言ったじゃないですか!?そう言ったのに、言ったのにぃぃぃっ!!!!!!!」 が一際大きく叫んだ瞬間、ぱしん、と乾いた音が響いた。 「…な、んで、」 絞り出すような声で、まるで自分に言い聞かせるような男の言葉は、ただ悲しいという感情で満たされたには直ぐに理解が出来なかった。 「っじゃあ…!ジュウザさんは…悲しく、ないんですか…っ!?」 が口にしたのは、ひどく自分勝手で、子供の八つ当たりにしか聞こえない言葉だ。 「…んなこと聞くな。…馬鹿野郎」 どれだけ叫んでも、泣いても喚いても、 ―――琥珀のディ・ロンは、帰ってこないのだと。
脳裏に蘇った記憶を、はベッドの上で急いで手持ちのメモに書き留めた。
そうだ、そうだった。
それも下っ端としてではない。
色々な情報を整理する上位の文官としてだ。
不可侵協定のためにピアノを弾いてこいと、そう言われて。
記憶の糸を手繰って、は必死に過去を辿った。
到着した自分を待っていたのは、ああ、顔が思い出せないけれど、確か名前はユダという男と、そして聖帝サウザー。
それで一人で敵地に残り、サウザーにどういうわけか気に入られて、だけどそれを拒んで。
「!」
何事かとドアを開けると、サラが真っ青な顔での手を掴んで、走り出した。
「ど、どうしたんですか!?」
「ディ・ロンが…あいつが帰ってきたの…!!」
「えっ!?」
「それも…」
「……!!」
アジトの前にはジュウザを含めたアジトの連中が大勢集まって、ある者は担架を、ある者はただ呆然と目の前の光景に立ち竦んでいる。
その中心で、見覚えのある金髪が赤い色に染まって流れていた。
右目の眼帯が外れていて、琥珀色の瞳がターコイズの色をした左目と共にを見上げる。
手当てをしようと担架を持って来た者達も、どうやって傷に触らないように彼を運べばいいのかわからず、手を伸ばしたり引っ込めたりを繰り返す。
血塗れの男の隣に座り込んで、もまた、震えながらディ・ロンの顔にかかった髪を除けてやることしかできなかった。
「しゃ、喋っちゃダメです、傷がっ」
傷の深さは一目見ただけでも致命傷だとわかる。
ほんの数ヶ月とはいえ、ディ・ロンの実力を知っているだからこそ、それが何を意味するのか瞬時に悟った。
そしてそんな認めたくない現実を、は全身で拒否した。
こんなことがあるものか、と。
「いらね……包帯の…無駄になる、だけだ…」
「なっ何でですか、大丈夫ですよ!ね、ジュウザさん、大丈夫ですよね、こんな怪我、」
そう、理解はしているのだ。
ただ、それを受け入れたくないだけで。
「手間ァかけて…悪ィが……こいつ…っ、頼むぜ……」
「ああ、任せとけ」
「ディロンさん!何言ってるんですか、こんな怪我どうってことないでしょう!?すぐ治って、そしたらまた一緒にお仕事するんでしょう!?迎えに来てくれたじゃないですか、ねえ、」
「へ…アホ、タレ………」
「だって、なんで」
「わかるだろ、」
「っ知りません、わかりたくありません!だって、だって、ねえ、ディロンさん!」
だが、ディ・ロンの瞳は既にを通してその向こうを見ていた。
傷だらけの頬が僅かに笑みの形に歪む。
確かにディ・ロンはそう言った。
それは、死んだ彼の恋人の名ではなかったか。
「ディロン…さん…?」
「やっと…お前のトコに、逝ける…そうだろ………」
意識が愛しい女性の元に行ってしまったかのようだった。
けれど、それはただ白昼夢を見ているからではない。
同じ髪の色をしたを通して。
"待たせてごめんな。"
「……………………!!!」
唇が声を発せずに呟いて、瞳の色が輝きを失う。
握った手がだらりと力を失って、急激に重くなる。
嘘じゃないということはとっくにわかっていた。
――祈りは、もう届かないのだ。
「……いや…いや、や、だ、」
声が掠れて言葉が見つからない。
唇が震えて、言葉が上手く紡げない。
口を吐いて漸く出た言葉といえば、幼子のような稚拙なそれだった。
「、やめろ」
「やだあっ!!離して下さい、いやぁ!!」
その腕から逃れようと暴れながら、はただ闇雲に叫んだ。
彼は言った。
―――ちゃっちゃと済ませて迎えに行ってやる。
「迎えに言ってやるって、」
―――イイ子にしてりゃすぐ帰ってやんよ
「すぐ帰るって言ったのに、なんで、」
「いい加減にしろ!!!!」
頬を伝う、じんと痺れる様な感覚に、が自分がジュウザに叩かれたのだと悟るまで、数秒かかった。
ぼろぼろと涙を流したまま、がのろのろとジュウザの顔を見上げると、ジュウザは苦しそうな表情をしていた。
「…あいつはやっと楽になったんだ。好きな女のところに逝ける。静かに送ってやれ」
その所為だろう。
自分ばかりが苦しいのだとでも言いたげな、身勝手な言葉だった。
それでもジュウザはただそれを受け止めて、静かに返した。
「…!」
その声で、言葉で、は漸く理解した。
「……墓の用意だ」
拳を硬く握り締めた男の声だけが、血を吸った砂に消えていった。