ジュウザのアジトからほんの数100メートルほど離れた岩山の上に、一人の少女と一人の男が静かに降り立った。
少女の唇は笑みの形に完璧な弧を描く。
乾燥しきった場所だというのに、その肌や髪はまるでもぎたての果実のように艶やかに張りがあり、瑞々しい。
長い黒髪を靡かせて、少女が口を開いた。

「ふふ、また動き出したわね」
「はーぁ。さて、今度はどこに流れるやら…」

答えたのは男だ。
緩く咥えたタバコから灰色じみた紫の煙が、少女にはけして当たらない方向に流れていく。
灰色の短い髪をかき上げて、男が無感動に煙を吐いたと同時に、風が砂を巻き上げる。

風が静まったその場には、一輪の雛菊が揺れていた。



早起きをして荷物を纏めると、は3週間世話になった部屋に別れを告げた。
ディ・ロンとの旅では使うことの出来なかった柔らかなベッドとも今日でまたお別れだ。
惜しいことをしたな、とも思うが、仕方がないことだ。

誰も起き出して来ない内に出て行くつもりでいたが、まだ少し余裕がある。
荷物を持って部屋を出て、よく行っていたバルコニーに出ると、早朝の涼しい風が髪を撫でて行った。
なんとなく、ここから見える空と景色が、このアジトの中では一番好きだった。

しばらく空を見上げて、そろそろ出ようかと踵を返すと、いつからいたのかジュウザが壁にもたれてを見ていた。

「…おはようございます」
「準備は出来たか?」
「はい」

が頷くと、ジュウザはそうか、と少し寂しそうに笑うと、に近づいた。

「賑やかなのがいなくなると、また暇になっちまう」
「ここはいつも十分賑やかじゃないですか」
「ガキがいるのといねえのとでは違うのさ」
「あっ、またガキっていう!」

ぬうぅ、と頬を膨らましたの頭をぐしゃぐしゃと撫でて、ジュウザはをおもむろに抱きしめた。
温かい男の服の感触が頬に触れ、僅かにコロンの香りが漂う。
嫌いな香りじゃない、と、はただ漠然と場違いなことを思う。

「…お前子供体温だな。あったけぇ」
「ほっといてくださいっ」
「はいはい」

彼なりに別れを惜しんでくれているのだろうかと、はいつもよりおとなしくされるがままになっていた。
こうしてじゃれ合えるのも、もしかしたら最後になるかもしれないから。
すると、ジュウザは身体を離してじっとを見つめると、不意に言った。

「よし。目、瞑れ」
「え」

が眼をぱちくりさせて、その後口を尖らせた。

「い、いやですよ。なんかいたずらする気でしょう、」

絶対ごみとか押し付けられるんですぅぅ、と幼稚すぎる悪戯を予想するに半ば呆れながら、ジュウザはぽんぽんと頭を撫でて、あやすように言った。

「いいから瞑れって。いたずらしねえから」
「うぅ…」

ひいん、と馬みたいな声を出して、が観念したようにぎゅっと目を瞑るのを確認すると、ジュウザはの唇に自分のそれを寄せて少し戸惑ってから、顔を離して小さな額にキスを落とした。

「…もういいぜ」
「…へ?え、ええ?」

ぱちぱちと目を瞬かせて、はジュウザの顔を見上げた。
心なしか彼の顔が赤くなっているように見えるのは気のせいだろうか。
というか、自分は今何をされたのだろう。

(もしかしておでこにちゅー?)

それともちゅーと見せかけて何か変なものでも引っ付けられたのかとがジュウザの行動に気を取られているうちに、ジュウザはの手からひょいと荷物を取り上げた。

「あの、ジュウザさ、」
「いいって。下まで持ってってやる」
「え、」

首を傾げて状況を理解していないに、ジュウザは背を向けて言った。

「見送ってやるって言ってんだ」
「…!」

ジュウザが振り返りざまにちらりと見たの顔は、花が咲いたように綻んでいた。



一頭の馬を貰い、ありがとうございますと頭を下げたを、気にするなと見送ったジュウザは、傷ついたディ・ロンがが駆けつける前に話した事を思い返していた。


『ジュノを助けてやってくれ』

『天狼のリュウガって男は、きっとまだ』

『あいつを諦めてねえ』


「…ったく、何やったんだ、あのアホタレは」

あの異母兄弟が彼女にどう関わっているのか、それはまだわからない。
だが、調べればすぐにわかるだろうその関係は、あえてリュウガ本人から聞きだそうとジュウザは決めた。

もし、リュウガがを何らかの方法で捕らえようとしているのなら、その時はリュウガを止めるのが逝った友人のためになる。
危害を加えるわけではないなら――

「…それでも、に協力してやるしかねえな」

胡蝶のジュノの名を持つ彼女が、あまりにも小さくて、真っ直ぐであることを知ってしまったからには。

「“女神様”を守ってやろうじゃねえか。オニイサンが」

雲のように気儘な男の呟きは、遠くで馬を駆る少女に届く前に風に浚われていった。





“JUNO”


――それは、空の女神の名。






狂ったこの世で狂うなら気は確かだ。
――シェイクスピア


とは言うものの、これは少々ファンキーすぎではないだろうか。

「待てコラあああああああああああ!」
「いぎゃあああああああああああああ!!!!」

説明しよう。
は今、青髪のモヒカン3名に追いかけられている。
それもバイクVS馬である。

先日、ジュウザのアジトをお世話になりましたとお礼を言って発ったは、そもそもここからどうするかすら決めていなかったことを今更ながら思い出し、とりあえず拾った棒切れを倒してその方向に進んでいた。
が、半日もしないうちに無謀な作戦は失敗したらしい。
ばったりと出くわした阿呆面の男達は、お約束とばかりに舌なめずりをしてを追いかけ始めたのである。

「嬢ちゃんよぅ、その馬置いてきなぁっ!悪いようにはしねえからよぅ!」
「ウソつけええええ!!」

モヒカンたちはバイクで、は馬。
どちらが速いかなど目に見えている。
交戦は可能だが、こんなところで無駄に銃弾を消費するのはごめんだ。
追いつかれる、と思った瞬間、前方にジープが見えた。
よく目を凝らすと、女性も乗っている。
同姓なら、もしかしたら助けてくれるかもしれない!
がそう思い馬をさらに速く走らせようとしたところで、一人のモヒカンが真横に追いついた。

「つーかまーえた」
「ひぃ!」

慌てて離れて、は夢中で腰の銃を片手に握り、続け様に威嚇発砲した。
パン、と軽い音が鳴り、銃弾が一つがモヒカンの肩に当たった。

「ぐあ!」

砂漠の真ん中、悲鳴を上げてモヒカンがバイクごと砂埃を立てて転んだ。
それを見て、仲間の一人が逆上する。

「てめえ!許さねえ!!」
「ぎゃー!来るなあああああああ!」

火に油注いじゃった!!と、ジープの方を見ると、先ほどの銃声に気づいたらしくこちらに向ってきている。

「た、助けて!!!わあああああ!?」

必死の思いで叫びながら、もう一度威嚇発砲するが、モヒカン2人は怯まない。
ダメだ、追いつかれる、と、思った瞬間、ジープから飛び出してきた人物達がモヒカンの顔を掴んで引き倒していた。

「へ、」

馬を止めて振り返ると、2人のモヒカンは地に沈んでおり、変わりにジープから飛び出した人物と先ほど見えた女性がを見ていた。

「大丈夫?」
「…あ、はい、あの、ありがとうございます」

馬から下りてぺこり、とお辞儀すると、モヒカンを倒したらしい男が驚いたような声を出した。

「何だ、女じゃないか。男みたいな声を出してるもんだから男だと思ってたんだが」
「残念ですが女ですっ」

が眉をぴくりと引き上げて答えると女性が男を、ちょっとなんてこと言うの、と窘めていた。

「ごめんなさい、失礼なこと言って。怪我は無い?」
「はい、大丈夫です。助けて頂いてありがとうございました」

女性の方はの答えに、そう、とにっこり微笑んだ。
癒される。
やはり年上の同姓は癒される。
今まで会ってきた異性が全てキワモノばかりだったからだろうが。
が、はぁ、と息をつくと、突然馬が嘶いて駆け出した。

「あ!?ちょっ、まって、」

とっさに荷物を掴むも、馬はの荷物だけを落として見る見るうちに逃げてゆく。

「何でー!?」
「どうやら今ので興奮してしまったようだな。帰ってくる見込みは無い」
「ええ…?」

私の足、と頭を抱えてしゃがみこんだに、女性が声をかけた。

「よかったら乗る?あなた一人くらいならまだ乗れるわ」
「い、いいんですか!?」
「ええ。良いわよね、ケン、レイ」

女性が連れの男に尋ねると、2人は構わないと頷いた。

「あの、じゃあ、お言葉に甘えて…」
「どうぞ」

棚から牡丹餅、瓢箪から駒。
はようやく巡ってきた幸運に、心の中でガッツポーズをして、よろしくお願いします、と言ってジープに乗り込んだのだった。