ぽたり、ぽたりと水滴が落ちる。
手から、髪から、ぽたり、ぽたりと。
水滴は生温かく、ぬるぬると粘着質で、乾くと徐々にどす黒く変色していく。

血が滴っている。

ぽたり、ぽたり、ぽたり。


これは贄。
これは罪。

これは、

「―――ただの液体だ」



拳王府に来てから、リュウガは冷酷無比な将軍として恐れられ始めた。
抵抗する意思の無いものまで、進行した軍閥の者は皆殺しにしているらしい。
野盗や危害を加えるものに関して、彼がそういう行動を取るのなら話はわかる。
けれど、無抵抗のものにまで手を上げて殺戮を繰り返すとなれば、話は別だ。
人づてに噂を耳にしたは、複雑な気持ちで与えられた仕事をこなしていた。

リュウガは、からすれば意地悪で怖い上司だ。
けれど、たまに見せる優しい一面をは知っている。
自分が初めて人を殺した夜のことや、
役立たずな自分に自衛の手段を与えてくれたこと、そして何よりも面倒を見てくれていること。
それらを知っているからこそ、リュウガを目にして怯えた顔をする兵たちを見ると、は気分が少し落ち込んだ。

確かにとてリュウガに色々いびられているが、それはここまでは大丈夫、と言う線引きの上でのことだ。
リュウガは怒らせると怖いけれど、に本気で手を上げたことは無いし、本気で怒った様子を見せたこともない。
腹の立つことを言ってくるけれど、真面目な意味で傷つくようなことは言わない。
その証拠に、は彼と共に行動しているときも、本気でリュウガを嫌うようなことは無かった。
むかつくことはあったけれど。

「…なんだかなぁ」

意地悪だの性悪だのと何かと愚痴を言うものの、本気でリュウガを嫌ったり怖がっているわけではないにしてみれば、彼の行動は不可解なことこの上ない。
どうしてそこまでする必要があるのだろう。
そんな風に怖がられて、寂しくないのだろうか、と考えて、リュウガに限って他人の目を気にする性格でもないか
は苦笑いした。

ついでに言うと無抵抗の者は、兵士ではなく捕虜にしてしまったほうがずっと軍のためになると思うのだが、それはが判断すべきことではないので口にはしない。
決定権はラオウにあり、彼が不在の場合は将軍にある。
そしてラオウは生命の遵守云々よりもリュウガの行動を許容するタイプだ。
がどれだけ何を主張しようが、それが揺らぐことはない。
ただ、時折冷たい目をして帰還するリュウガに、どこか悲しいものを感じることがある。
もしかしたら、心の底では殺戮などしたくないのかもしれない。

いつになったら凶行が終わるのか、いつになったらこの世界は平和になるのか。
そして、いつになったら自分は元の世界に戻れるのか。
否、その場合自分はここに存在しない"存在"になるのか、それともただ消えるだけなのか。
逡巡しているうちに思考が横道に外れて、は頭を振った。
今はそんなことを考えているときではない。

少し沈んだ気分で廊下を歩いていると、城門の辺りが騒がしくなっているのに気づいて、は近くの兵に声をかけた。

「あの、どうかしたんですか?」
「あ、いや…リュウガ様がお帰りになったらしい…」

答えた兵の表情はどことなく怯えていて、はそうですか、とだけ言うと城門のほうに駆けだした。
また、あの手は血みどろで、あの髪は穢されるかのような紅に染まっているのだろうか。


(なんで)


答えの出ない問いを繰り返しながら、は嫌いになれない性悪上司を迎えに走った。


返り血は帰還前に洗い落としたのか、リュウガの乗る白馬は美しい白い毛並みをつやつやと光らせている。
リュウガの手も髪も、血には濡れておらず、光を受けた銀の髪は綺麗に風に靡いていた。
ただ、清めることが出来なかったであろう服やマントについたどす黒い染みが、冷ややかなまでに整った男の容姿
に似つかわしくない。
綺麗に積もった雪の上を踏み荒らされたような気分と似ている、とはなんとなしにそう思った。
馬から下りたリュウガは控えめに自分を見るの視線に気づいたようだが、すぐに顔を背けて城内に入っていった

それを見届けると、は小さな溜息をついて持ち場に戻った。
彼の自分に対するああいう態度には慣れているけれど、やられて気持ちのいいものではない。
それでも、こういう風にあしらわれることを理解していてついて行きたいと言ってしまったのは自分だ。

拳王の下に行く、と自分に告げたリュウガに、は"ついて行きたい"と願った。
恋愛感情があるわけでもない。
もちろん野望があるわけでも、寂しいわけでもない。
けれど、全く知らない人間の下に置いて行かれるより、彼が選んだ主の元に居る方が安全かもしれないと思っただ
け。
しかし現実はどうだろう。

リュウガが怯えられるのを見て、心は沈んでいく。
闘いから帰還するたびに、の眼には彼の背が辛そうに見えることも確かなのだ。
これは、きっと。


「…………………師弟愛、ってやつ?」


第三者が聞いていたら確実に「なんでそうなるの?」とツッコミを入れられそうな結論に達して、は色々なことを伝授された云わば弟子の身として、彼の真意を探ろうと決心したのであった。



戦から帰還したリュウガは、自分を迎え入れた兵の中にの小さな姿を認めて目を逸らした。
乱世を収める巨木を見極めるため、非情と呼ばれようと魔狼となることを決意した傍ら、に殺戮を終えて帰って
きた返り血のついた己を見られるのが何故か気に入らない。
どういうわけか癪なのだ。
戦から帰った直後以外ならば、血のついていない服を着ている時ならば、このような気分にはならない。
この道を選んだことを後悔などしていないと言うのに。

人を傷つけることを極端に嫌う娘の、真っ直ぐに自分を見る目が苦手なのかもしれない。
あの雨の夜、ついに人を手にかけてからも、は大抵の相手は威嚇するだけで追い払っている。
何故殺さない、と尋ねたらは、暴力は好きじゃないんです、と困ったような顔で答えた。
それは力の無さゆえでもあり、いまだ罪悪感を感じている証拠でもある。

混沌とした世界を治めるためとは言え人命を奪うことに慣れた自分とは違う。
生殺与奪の権利が力のあるもの全てに行き渡った世に慣れた自分とは、違う。

あの目は純粋すぎて苛立つのだ。
彼女に非は無いことはわかっているのに。

「くそ…」

戦の後は精神が昂ぶり、些細なことで苛立つものだ。
の目が妙に癇に障るのはその所為だと言い聞かせて自室に向かう途中、リュウガは部屋の前に立っている人物を
目にして秀麗な眉を顰めた。

「何の用だ」
「……」
「ち……入れ」

気まずそうに瞳を揺らす娘に居心地の悪い思いをしながら、リュウガはを部屋に促した。

部屋に入ってからもただ入り口に立っているだけで何も言おうとしないに、リュウガは湧き上がる苛立ちを抑えて重い溜息をついた。

「言いたいことがあるのなら早く言え。戦の後で疲れているのだ」
「!や、その…」

何か言おうとして口を噤んだをリュウガが忌々しそうに睨みつけると、は一瞬肩を震わせて頭一つ分背の高いリュウガを正面から見上げた。
それを見て嘲るように鼻を鳴らすと、リュウガはに尋ねた。

「どうした、俺が怖いのか?」
「え、」
「血に飢えた獣のようだと兵が噂をしているのは知っている。それについて何か文句でも言いに来たのか?」
「っそんなんじゃないです!」
「ではなんだ?自分だけは味方だとでも?頼んでもおらんわ、阿呆」
「ちがっ…!私はただ、なんでだろうって思って…」

リュウガの言葉を聞いて、は反論しながら視線を下に向けながら言葉を続けた。

「別に怖いとかそういうことは思ってないです。私だけは味方だとか、そんな都合の良いことも考えてません。でも、なんかリュウガさん…」

そこで言葉を区切って視線を彷徨わせるに、リュウガは眉間に皺を寄せて苛立たしげにその先を促した。

「俺がなんだ」
「……その、…悲しそうに…見える時があるから」
「…!」

ぴくりと眉を顰めたリュウガに、は慌てて言葉を付け足した。

「あ、あのあくまでなんとなく!なんとなくですから!間違ってたら謝ります、でもあの、」
「…」
「ただその、そういう風に見える時がないわけじゃないかなって、それでその」

徐々に感じる不穏な空気に、はおろおろとフォローの言葉を並べ立てた。
まずい、怒らせた。
しかも何やらいつもとはレベルが違う雰囲気が出ている。
何とかしなければムチとかムチとかムチとかでシバかれるかもしれない。
焦って必死に取り繕うも、リュウガの耳には最早の言葉など入っていなかった。
だん!と両手をの後ろの壁について酷薄に哂って距離を詰めると、リュウガはに冷ややかな言葉を浴びせた。

「随分と知ったような口を利くものだな。お前には俺の心がわかるとでも言いたいのか」
「…そんな、つもりじゃ」
「悲しそうだと?この俺が?ふん、起きたまま寝言が言えるとは器用な真似をするものだ」
「っだから私は、」
「そんなに悲しそうに見えるならお前の身体で慰めてもらおうか?戦いの後は高揚していてな、お前の貧相な身体で
も十分その気になれる」
「!」

リュウガの言葉に、は青褪めてごくりと喉を鳴らすと、唇をきゅっと噛み締めた。
蒼白になったを目にして、リュウガは頭のどこかで冷静にこんなやり取りは不毛だと理解していた。
頭をもたげてきた嗜虐心に乗じて己の心の揺らぎを悟られたことを誤魔化そうとしているだけだ。
こんな馬鹿げた事は、一刻も早く止めるべきなのだ。
そもそも動揺を悟られたのは自分の至らなさで、に非は無い。
彼女を責める事自体が間違いなのに。
両腕をついたままリュウガが静かに葛藤していると、追い詰められたがアイスブルーの男の眼を真っ直ぐに見上
げて口を開いた。

「リュウガさんは、そういうこと、しないです」
「……何?」
「あなたは自分よりも力の無い、しかも私みたいな小娘相手に、力づくで何かするなんて事は絶対、しないです。そ
ういう人なら、もっとずっと前にそうしてます、」
「…話を聞いていなかったのか?戦の後は気持ちが昂ぶるといっただろう。今のこの状況を理解していないのか?」
「っそれでも絶対しません!」
「…っ!」

声は若干震えているものの、大きな丸い眼でしっかりと視線を合わせて言い切るに、リュウガは大声を出して怒鳴りかけた口を無理矢理閉じて両腕を下ろした。
そしてに背を向け、投げやりに言い放った。

「…もういい、下がれ」
「え…」
「下がれ!」
「あっ、はい!」

わたわたとが部屋を出て行き、ドアが閉まるのを確認してから、リュウガは髪をぐしゃりとかきあげて仰向けにベッドに倒れこんだ。

「…くそ…!」

たかが小娘の言葉に簡単に惑わされるだなんて、随分とらしくない。
しかも相手はあのだ。
何もわかっていなさそうな、あの非力な娘だ。

否。
彼女だから?

「…そんなわけがあるか」

一瞬だけ頭を過ぎった考えを打ち消して、リュウガは起き上がって服を着替えると、雑念で支離滅裂になりかけている自分をどうにかするため、半ば意地で眠りにつこうとベッドに入った。
眠れるわけも無かったのだが。





リュウガが色々と四苦八苦している頃、もまた自分の部屋に駆け込んで自分を落ち着けるのに四苦八苦していた。

「び、びびったー!」

まさかああ来るとは思っていなかったのである。
怒るかもしれないだろうとは予測していたが、あんなセクハラギリギリのことをされるとは思ってもみなかった。
壁に追い詰められたとき、実は心の中で助けてママン!と叫んでいたくらいだ。
おそらくリュウガも感情的になってああいう行動に出たのだろうとは思うものの、万一のこともあり得る。
ガンの張り合いの最中に、こっそりといつでも急所を蹴れるように位置を確認していたなどとは流石に言えない。
これからはただの意地悪マツゲでなく意地悪セクハラマツゲとして見た方がいいかもしれない。

勿論とて彼を信用しているのだが、過ちがあった場合痛い目を見るのはこちらだ。
それにそういう場合の自衛の手段を教えてくれたのは彼である。
自ら教えたことを実践されるようなことにならなかったのは幸いだったが、もうあまり戦いの後の彼に生意気なこ
とを言うのは止めよう、とは固く心に誓った。
一際大きく深呼吸して、リュウガさんの理性よありがとう、と彼の理性に感謝し、は冷静に先ほど自分に起こった事
を思い返して頬を朱に染めた。

「ま、まああの人、顔はかっこいいから」

セクハラ意地悪上司とは言え美形であるからして、ああいうことをされるとやっぱりびっくりするしときめきもする。
しかしそれも一時のものと断定すると、ははっと気づいた。

「結局何で全殺しとかするのか聞けてないし!」

わかったことはと言えば、9割の確立で彼は心の底ではやりたくないと思っていながらも、自ら進んであのような残酷なことをしているということだ。
逆上したのがその証拠である。
人間、図星を突かれると怒るものだ。
しかしそれでもリュウガが殺戮を本当に好きでやっているわけではないということがわかっただけで、はほんの
少しほっとした。

世話になった分だけそれなりの情がわいているようで、最近の彼の様子にはどこかリュウガが手の届かない場所にいるような気がしてならなかったのだ。
それが幾分かましになって、は少し安心してベッドに入った。
胸の中のもやもやが軽くなったので、今夜は良く眠れそうだと眼を閉じ、は文字通り爆睡した。


翌日、結局ほとんど眠れずに機嫌の悪いリュウガに、妙にすっきりした顔のが、八つ当たりとばかりに仕事を言いつけられて半べそをかくことになったのは言うまでも無かった。