―――

誰かが呼ぶ声がする。

―――あ、    さん

私はその声の主を知っていて、嬉しくなってその名を呼ぶ。
どうして嬉しくなるのかはわからない。
その誰かの名前は、いつも雑音がかかって聞こえないから。

―――がんばったな

誰かが私の頭を撫でる。
大きな優しい手が頭を撫でる温度は甘く、心地良い。


その声も、温度も、知っているのに。

―――




 し っ て い る の に 。






「…!」

夜半、はっと目を覚まして、は身体を起こした。
妙な夢を見た。
とても心地よくて、とても悲しい夢だった気がする。

あの手は、声は、誰のものだったのだろう。
ふと気づけば、頬に涙が伝っていた。

(なんで、私、泣いてるんだろう)

無性に胸が苦しくて、は気を紛らわそうと外に出た。
胸が痛くて重くて、まるで何かが痞えたように息が締め付けられる。
これではまるで、誰かに恋焦がれているときのようだ。
けれど、その誰かをは知らない。

夜の空はひどく冷えて寒い。
砂漠になってしまった地上には、熱を保つ機能が無いからだ。
核の爆発によって舞い上がったまま今もなお残る塵で出来た薄い雲によって熱の放射が防がれていなければ、もっとずっと気温が下がっていたに違いない。
雲の切れ目から時折星が覗く。
その星を見上げて、は意識を集中し、記憶を辿り始めた。

ディ・ロンが死んだあの日、は確かに自分が拳王軍に居たということを思い出した。
だが、それはあくまで断片的なものなのだ。

自分が拳王と呼ばれている男が統治する軍に居て、ソウガと言う軍師がおり、レイナという女性が居た。
サウザーという男に何故か圧し掛かられた。
ピアノを弾きに行った。
ユダと言う男が居た。
軟禁された。

の思い出したという記憶はそういったかなり大雑把なもので、細かいところは思い出せていないのである。
自分がどうして拳王軍に居たのかもわからないし、そもそもどこの生まれで何をしていたのかもまだ思い出せていない。
そしてその記憶に関係しているのがリュウガであると、は漠然と推測している。

自分の物と対になっているペンダントに、あの態度。
おそらく彼は何かを隠している。
そうでなければ嘘など吐くはずがない。
自分はやはり拳王軍にいたのだ。
そして少なくともリュウガとも何らかの接触があったはずだ。
話したことは無かったとしても、顔くらいは見たことがあるだろう。
しかし彼は、軍の居たのは同姓同名の別人だと言った。
これはどういうことなのだろうか。

更に、リュウガはあえてに関することを隠していたように見えた。
それがもしのことを思っての行為ならば、このまま忘れていたほうがいいのかもしれない。
だが、彼が間違いなく全ての記憶を取り戻すために必要な人物だと、何の根拠もなくは思う。

(きっと、このまま忘れてちゃいけないことなんだ)

(でも)

(…怖い)

思い出せない。
思い出したい。
なのに、思い出したくない。

人の記憶は不思議なもので、その記憶が精神的に大きなストレスになるものであればあるほど、綺麗に忘れてしまうのだと、ディ・ロンの知り合いの医者が言っていた。
それは安定した生命活動のための、本能的な脳の仕組みである、と。
記憶が消えているのは、もしかしたらとても苦しく辛いことがあったからではないだろうかと、はそんな予想もしていた。
だから怖いのだ。
自分が何をしていたのかを全て思い出すのが恐ろしい。

相反する感情が胸のうちでぐるぐると渦巻く。
一人で考え事を始めると、大体いつもこうなってしまう。
そして結局、真実を恐れて記憶を辿ることをやめ、臆病な自分の弱さに涙が出るのだ。

そういう意味では、ジュウザには感謝しなければならない。
に記憶を取り戻す切欠を、偶発的にとはいえ与えてくれたのだから。

せめてあの夢の人物が誰なのかを思い出すことが出来ればと、は必至で記憶を模索する。
夢の中の人物は、夢の中の自分の名を親しげに呼んで、優しく頭を撫でてくれた。
その甘い熱や心地良さを、は懐かしいと感じている。
つまり、その人物とは少なからず親しくしていたと言うことだ。
否、少なからず、どころか――

(好き…だったのかもしれない)

相手が同様にに好意を抱いていたかどうかは、あの短い夢ではわからない。
ただ、自身は自分がその相手に好意を抱いていたのだと、何の根拠も無くそう思うのだ。
でなければ、目を覚ました瞬間の胸を締め付けるような切なさは、何に対してだというのか。

ぽたり、と、一粒の涙が零れ落ち、乾いた地面に吸い込まれていく。
自分の不甲斐なさが悔しくて、は静かに涙を零した。
弱すぎる精神力も、未熟な自分も腹立たしいのにどうすればいいのかわからない。
子供のように泣くだけの自分が嫌いなのに、涙はただ止まらない。

こんなことで泣いてはいけない。
天国に逝ったディ・ロンに叱られてしまう。
もう誰かに頼ることは出来ない。
自分がしっかりしなければならない、一人で立たなければならないのだ。
はもう泣きたくなかった。
だから、それでも尚涙を零す己が厭だった。

夜は嫌いだ、とは思う。
昼間の喧騒の中ならば、こんなに弱い自分を直面する必要などない。


―――ひとりにならずに、すむから。


無意味な逡巡を繰り返しているを現実に引き戻したのは、最近知り合った男の声だった。

「…?」
「!」

不意に後ろから声をかけられて、は目元を慌てて拭って笑顔を取り繕った。
振り向くとレイが神妙な顔つきでをじっと見ていた。
泣いているところを見られたのだろうかと焦るが、この暗さであれば表情もおぼろげにしか見えない。

「こんな夜更けに何をしている?」
「な、なんでもないです。夜の散歩もいいかなって」
「そうか。今日はところどころ星も見えるからな」

特に疑うこともなく隣に座ったレイに心の中で安堵して、は夜空を見上げた。
ちらちらと、雲の隙間から星がのぞいている。
風の音しか聞こえない夜は、静かで清廉だ。
不意にレイがマミヤと居る時の優しい眼差しを思い出して、は静寂を破り口を開いた。

「…レイさん、マミヤさんのこと好きなんですか?」
「!な、何だ、藪から棒に…」
「あはは、照れてる」
「う、煩い!別にお前には関係のないことだろう、」
「……そうですね」

全くその通りだが、何故か胸が痛くて、は俯いた。
レイがマミヤを好きであろうが、確かにには関係ないのだ。
ただ、先刻見た夢の中の自分はとても幸せそうだったのに、今の自分は酷く惨めで、誰かを思っているレイが羨ましく感じたのである。
黙り込んだに対し、レイはと言えば強く言い過ぎたかと焦って口を開いた。

「お…お前はどうだ?」
「?」

が顔を上げるとレイは少し照れくさそうに頭を掻いた。

「その…気になる相手だ」
「…どう、なのかな」

異性の知り合いがいたのかどうかすらも覚えていないにとって、その質問は答えにくいものだ。
居たような気がするが、どんな相手なのかは覚えていない。
かろうじてそれらしい記憶は、あの夢の中の、今はもう思い出せない僅かな声と感触だけだ。

「…夢を」
「夢?」

寒くなってきたからか、ぎゅっと膝を抱えているが呟いた言葉に、レイが首を傾げた。
それに少しだけ微笑んで、は続けた。

「夢を見たんです。誰かが、私を撫でてくれている夢を」
「それが…恋人か?」
「だったらいいなって、思ってるんですけど。…声も、温度も、みんな、目を覚ますと忘れてしまうから。…それが誰なのか、どうしてそんな夢を見るのか、わからないんです」


―――思い出したいのに、


「だから、いたのかなって思うけど、いなかったのかもしれません」


―――思い出せないから。


「…待て。お前、何故覚えていないのだ。悪いが、お前はそれほど多くの男を知っていそうでもないぞ」
「男の人と付き合ったことがあるのかを覚えてないんです。ちょっと物忘れがひどくって」

それは物忘れのレベルではない、と言いかけて、レイは気づいた。
の横顔が、寂しそうに星を見上げていることに。
昼間とはまるで違うその表情は、何か重いものを背負っているかのような痛々しさがあった。
そんなレイの様子に気づくこともなく、は自嘲気味に笑って続けた。

「夢の人だったらいいのに、って、なんとなく思うんですけど。馬鹿ですよね、私みたいなひょろひょろの子供が、誰かの恋人だったわけ、ないのに」

憂いを湛える瞳は、自分を称する子供という言葉とは遥かにかけ離れている。
この眼はただの若い娘のそれではなく、もっと辛く険しい障害を乗り越えてきた人間の眼だと、レイはただそう感じた。
同じように苦難の道を歩んだ己の妹よりもしっかりと生きているように見えるからだろうか。
思わず、レイはどこか辛そうなを励ますように言った。

「…俺はお前が子供だとは思わんがな」
「え?」
「お前はいつも子供たちを喜ばせて常に明るくいようとしている。子供たちの前では暗い顔一つしない。そういう心遣いができるやつは、子供じゃないだろう」

レイがそう言って肩を二度三度軽く叩いてやると、はいくらか安堵したような表情を見せ、さっきまでの暗く憂えた翳りは消えていた。

「自信を持て。お前はもう少しすれば、なかなかイイ女になると俺は思う」
「ん…えへへ、レイさんみたいなイイ男に言われると嬉しいです」
「ほお、俺はイイ男か」
「そうですよー」

へろりとまた気の抜けるような笑顔を向けたが昼間と同じ雰囲気に戻ったのを見て、レイもまた安堵した。
が何故、気になる男性云々に関してを覚えていないのかも確かに気になるが、それを今聞くことは憚られ、レイはあえてその話題には触れないことにした。

そして、その代わりにと別の話を切り出した。

「そういえば、もう少しここに滞在することになったらしいな?」
「え?ええ、まぁ」
「明日から俺とケン、そしてマミヤは少し旅に出る。お前さえ良ければ、帰ってくるまでの間でいいから、ここでもう少し子守をしてくれないか。バットだけでは、身が持たん」
「あはは、なるほど。いいですよ、問題ないです」

レイが肩を竦めておどけて見せると、は小さく笑って快くそれを承諾し、すっくと立ち上がった。

「さてっと。私、そろそろ戻りますね。身体も冷えてきちゃったし」
「そうか。俺も少ししたら戻るとしよう」

レイが座ったまま手を振ると、踵を返したはふと立ち止まってレイを振り向いた。

「あの、レイさん」
「なんだ?」
「励ましてくれてありがとうございました。ちょっと、自信ついたかもしれません」

その言葉にレイが、気にするな、と笑い返すと、は拳を軽く握ってガッツポーズをとり、寝室に戻っていった。
小さな後姿を見送ると、レイは夜空を見上げて呟いた。

「落ち込んだり上昇したり、忙しいやつだ」

見上げた空には、北斗七星が輝いていた。