兵を連れての領地侵攻から一度城に戻ったリュウガは、自室に戻った後での部屋に向かい、彼女の部屋のベッドに腰掛けて服の中に隠して合ったペンダントを取り出した。
ジュウザと話してから、が少し記憶を取り戻したという話を聞いて、いつ帰ってきても構わないように以前彼女が使っていた部屋を整理させたので、様子を見に来たのだ。
しかし、久しぶりに足を踏み入れたの部屋には、思いのほか強く彼女の甘い匂いが残っていた。
鼻腔を擽る愛しい女の匂いに、まるで今もまだが傍に居るような気分にすらなって、リュウガの胸の奥は酷く疼いた。

今この瞬間が悪夢であればと、何度思ったことだろう。
目が覚めたら隣でが眠っていて、自分はそれを見て胸を撫で下ろす。
そして、夢のようなことにはさせないと誓いを立てるのだ。
どこにも行かせない、ここにいろ、俺が守ってやると。
そしては何のことかわからずに、きっとただ笑ってこう言う。


―――変なリュウガさん。私、ちゃんとここにいるじゃないですか。


そんな穏やかな現実ならば、どんなに救われるだろうか。

けれどそんなリュウガの願いも虚しく、未だが戻る気配は無く、付近で彼女らしき人物を見かけたものもいない。
そうして日々を過ごしているうちに、やはりもうこの場所には戻ってこないのかと、考えたくない思考が渦巻き始める。
もしかしたら、記憶は取り戻したもののもう危ない真似はごめんだと何処かに行ってしまったのかも知れない。
例えば、故郷や――

そこまで考えて、リュウガは自嘲気味に笑った。

「…俺はあいつの故郷すらも知らぬのだったな…」

今更ながら、は自分がどこの生まれでどこで育ったのかをリュウガに一度も話していない事に気づいたのだ。
聞かなかったから話さなかったのかもしれないが、初めて会った時の彼女の様子を思い出せば、おそらくはそれなりに裕福な家の出なのだろう。
学び舎に通っていたのだと言ったが、そんなものがこの時代に残っていたとは知らなかった。
服装も変わっていた。
まるで戦が始まる前の一般人のそれのような格好だった。
本当に謎の多い娘だと、失ってから初めて気づく。

もう、遅いのだろうか。
いつもいつも危険な目に合わせてばかりの男のことなど、忘れてしまって当然かもしれない。
けれど、ペンダントを握り締めて瞼を伏せると、最後に会ったの言葉が蘇る。


『…私、忘れませんから』


『今は忘れてるかもしれないけど、』


『絶対、ちゃんと思い出しますから』


苦しみながら懸命に過去を辿ろうとするを、自分が信じなければ誰が信じてやるというのだろう。

絶対に思い出すと、がそう言ったのだ。
ならば、自分に出来ることは彼女を待つことだけだ。

傷など負わず、危険な目に合わず、ただ五体満足に戻ってきてくれればそれでいい。
否、戻ってこなかったとしても、せめて自分を思い出してくれれば。


そして例えそれが叶わなくとも、ただ幸せでいてくれれば――


「…もう、いいのだ…」


兄に会うために再びムラを出たケンシロウに続いて、マミヤとレイもまたムラを出た。
その間に、は留守番を頼まれたと言うわけだ。
しかしそれも一週間ほど前の話である。
おそらくもうじき彼らも帰ってくるだろう。

子守を任されたはというと、朝から子供たちと遊んでいたのだが、子供のエネルギーについていけず、早々に音を上げて休憩を取っていた。
空を見上げれば、またどんよりと曇っている。
いやな天気だとが口を尖らせると、後ろからリンが駆け寄ってきた。

「何してるの?さん」
「休憩ですよー。皆にいっぱい遊んでもらっちゃいましたから」
「なあに、それ」

さんが遊んでもらってるの?と素直に聞かれて、は曖昧に笑って返すと、今朝早くにケンシロウ達が出て行った方向を見やった。

「…大丈夫かなぁ」
「大丈夫よ、さん!ケンはとっても強いの!」
「リンちゃん…」

丸い目をきらきらと輝かせて、ね、と小さな拳を握ったリンに、はにっこりと笑って、そうですね、と頷いた。
それに満足してまたバットの元に駆けていったリンを見遣り、は小さく溜息を吐いた。

実のところ、が心配なのはケンシロウたちのことではないのだ。
拳王のことである。
朧気ながら、は拳王軍に居た頃の記憶の中で、ケンシロウが漏らしていた彼の兄の名前を聞いたことがあった。
トキ。
それは確か、拳王の弟だったはずだ。

彼は自分が拳王軍に入る前に既に身柄を拘束されていたらしいので詳細はあまり知らないが、確かにあの囚人の街カサンドラに幽閉されていた。
勿論会ったことはない。
仕事上、自身も何度かカサンドラには足を運んだことはあったことを覚えているが、トキはあの街の奥深くに閉じ込められていたため、名前しか聞いたことがなかった。
一応拳王の弟であると言うことは聞き及んでいたが、どうしてカサンドラに幽閉されているのかまでは知らなかったし、知るつもりもなかったからだ。
肉親を閉じ込めるくらいだ、小娘の自分が掘り下げるべき話題ではないだろうと思っていたからだが、この場ではもう少し調べておいても良かったのかもしれないとも思う。

彼が拳王にとってどういう存在なのかを知ることが出来れば、ケンシロウ達の役に立ったかもしれないのだ。
最も、知っていたところで教えられないし、教えても何故そんなことを知っているのか聞かれれば、それもまた答え辛いのだけれど。

しかし、トキが拳王の弟でケンシロウの兄だとすると、彼らは兄弟なのだろうか。
拳王とケンシロウではあまり顔が似ていないから気づかなかった。
もう一人弟が居たという話もぼんやりと覚えていたが、それがまさかケンシロウとは思いも寄らなかった。
世間は案外狭いものだと、は溜息を一つついた。

(でも、ってことはそのトキっていう人も拳王様みたいにごついのかなぁ)

(ま、眉毛とかが薄くって般若みたいだったらどうしよう)

(逆にケンシロウさんみたいに太くって無言で睨まれたらどうしよう)

(うぬは何者だー、とか言われたりしないかな、)

(とりあえず挨拶は最敬礼で!ううん土下座で!そうしよう!)

勝手にトキの想像を膨らませて一方的に怖くなったは、第一声は"恐れながら小生はと申します!"にしようなどと決意して空を仰いで頷いた。
当然のことながらその必要は全く無くなり、彼女の想像する人間像すらも本人のそれとは大幅に違い、むしろあさっての方向を向いて解釈してしまっているわけだが、それは今の彼女が知り及ぶところではない。

影がかなり短くなってきた。
もうじき昼だ。
今日はが始めて食事の当番を任された日である。
そろそろ調理場に顔を出さなければなるまいとは腰を上げた。
料理は苦手だが、泊めてもらっている身分ではそんなことを言うわけにも行かないので、が気合を入れて頬を軽く打ったその時、


「ぎゃあああああああああっ!!」


ムラのどこかで、


「…!」


誰かの悲鳴が聞こえた。