ラオウと対峙しているレイを、しきりに心配するリンと共に見守りながら、の胸がいやにざわついた。 「さん、さんったら!!」 リンに腕を引かれて、は我に返った。 「レイを止めて!!なんだかとても恐ろしいことが起こる気がするの…!」 必死に訴えるリンから視線をレイに向けると、彼はラオウの気迫に押されているのか、視線を外さずに向かい合ったままである。 長い足が地を蹴り、高く高く跳躍した男の姿を目にした瞬間、の脳裏に一つの光景が浮かび上がった。 負傷した腕はそのままに、無事な方の手でガンホルダーの裏側から小さな球状のものを2つ取り出すと、掌の中で素早くそれを擦り合わせる。 弾丸のように一直線に己に向かってくる球にラオウは気づくが、その動きに動揺は見えない。 「そんなものでこの拳王は止められぬわ!!」 ラオウの指がレイの秘孔を目指し一寸の狂いなく突き出される。 「なにぃっ!!黒王に…!!」
突然の炸裂音に驚いた馬は、馬身を大きく反らせ、主の体勢を崩させる。 「ぐああ!」 ラオウの闘気を込めた指が、レイの身体に突き刺さる。 ラオウの指に胸を突かれたレイを見て、ケンシロウが目を見開いた。 「…貴様…!」 自分を睨むラオウに対し、痛む肩を押さえながらはよろよろと立ち上がった。 「…馬は本来デリケートな生き物…いくら貴方を乗せるほどの落ち着いた馬であろうと、突然耳の真横で大きな炸裂音がすれば驚くのは動物の本能です…馬に乗っていたのが、仇になりましたね…っ」 してやったり、とばかりにが肩の痛みを堪えて笑むと、ラオウはより眉間の皺を増やした。 強大すぎるオーラを受け、透明の思い壁に押し潰されそうな感覚を堪えて顔を上げ、はリンを振り切ってラオウに立ち向かうケンシロウを見遣った。 「ケンシロウさん…」 ここから先は自分が干渉していい場所ではない。 色々な意味で人間離れしすぎているラオウとケンシロウの戦いを見て、は正直に思った。 「で…」 (でたらめだー!!!) の今まで思い出せる限りの常識の中では、人間はまず宙に浮かばない。 自分はこんな馬ごと40メートル垂直飛びするような男を相手に時間稼ぎをしようとしたり爆竹を投げつけたりしたのかと思うと、は数分前までの自分の頭を後ろから叩き倒したい気持ちになった。 しばらくすると、ケンシロウとラオウの戦いは新たな役者が加わる事によって状況が大きく変わった。 …が、例によってやはり人間離れしているトキとラオウの戦いを目の当たりにして、は今度は背筋が寒くなった。 (…次元が違う) トキの足からはどくどくととめどなく血が溢れ出している。 最早勝負は見えていると判断したのか、トキが最後の攻撃を繰り出した。 「トキィ!!」 ラオウがとどめの一撃を時に繰り出そうとしたその時、ラオウがその拳を止めた。 「さん!」 無理なのだ。 結局ケンシロウに縋りついたリンを、情けない自分を悔やみながら見つめて、はそれでも動かなかった。
リンの言うとおり、何か良くないことが起きる気がする。
どこかでこんな光景を目にした事があるような、不思議で不吉なデジャヴュを感じる。
「!あ…、」
見れば、リンが焦った表情での腰にしがみついていた。
レイの頬に汗が一筋伝い落ちた。
それを見ても、の身体は何故か動かない。
何をすればいいのかわからないのだ。
まるで金縛りにあったかのように動かないに頼むのをあきらめたのか、リンは今度はレイに直接訴えかけた。
しかしレイはそれを優しく振り切って、ラオウに攻撃を仕掛ける。
次の瞬間、氷のように固まっていたの身体は弾かれたように反射的に行動を開始していた。
ラオウがマントを使ってレイに目くらましをしようとしたその時、は全体重を乗せて腕を振り、手の中の二つの球をラオウめがけて放つ。
外れたままの肩から激痛が走り、痛みが脳を刺す。
こんな小さな球で自分を止めることは不可能だと知っているからだ。
「ええ、ですからそれは――」
だがその突きは、同時に響いた炸裂音に予期せぬ形で妨害された。
パパパパパン!!!
「ヒィィィン!」
乾いた音が弾けて、それに驚いた黒王が嘶き身体を揺らせる。
が投げた二つの球――爆竹が、ラオウではなく黒王の鼻っ面で大音量で炸裂したからだ。
「―――貴方にじゃ、ありません」
だが、既に技を繰り出していたレイはそのままラオウの攻撃を食らってしまった。
厚い胸を突かれたレイの身体がぐったりと揺れた時、ケンシロウがようやく現れたのだった。
*
「レ…レイ!!」
だが、本来ならば余裕を見せるはずのラオウの表情は硬い。
ぐったりしたレイの身体を乱雑にケンシロウに向けて放ると、ラオウはを忌々しげに睨みつけた。
この様子では、ラオウは満足のいく勝ち方は出来なかったようだ。
ほんの少し気を抜けば腰が抜けそうな緊迫感の中、は再び痛み始めた肩を押さえて言った。
対峙するだけで笑い出す膝を叱咤して、はきゅっと唇を噛む。
怖い。
一歩間違えば殺される。
生きていること自体が運が良すぎるくらいだ。
おそらく、次は無いだろう。
今回の結果は、ラオウがを戦略外と看做していたからこそもぎ取ることが出来たものだ。
しかし今、レイへの攻撃を邪魔したことで、は完全に敵として看做された。
ラオウの力の前に倒れたレイを受け止め、静かに怒りに燃えるケンシロウは、リンの頭を撫でてを背に庇い、ラオウを見上げた。
「…大丈夫だ。下がっていろ」
直感的にそう悟ると、は今度こそおとなしくリンたちと共に戦況を見守る事にしたのだった。
*
マジシャンとか胡散臭い系の超能力者は浮くこともあるようだが、普通の人が宙に浮くのを見たのはこれが初めてである。
ちなみに、馬が宙に浮いたのを見たのも人生初だ。
思い出せない記憶の中で見たのかもしれないが、今のところ彼女の人生では、宙に浮いた馬を見たのは初めてである。
おまけに地上から約40メートルは浮いていた。
正確には滞空時間が長かったということであるが、それでも地上約40メートルまで跳びあがる男と、馬ごと跳ぶ男は見たことが無い。
実際に見てみると強烈なインパクトであることこの上ないものだ。
トキの拳を伝授されていないケンシロウに対して、本気になる様子を見せないラオウの前に、ついにトキがマミヤと共に姿を現したのである。
思っていたよりも温厚そうな男が出てきて、は場違いながらも内心で安堵した。
ラオウがコレ(いかつい系)でケンシロウもコレ(ハードボイルド系)なので、もっとアレな人物が出てくるかと予想していたが、嬉しい期待外れに、どうにかこれ以上怖い思いはしないで済みそうだ。
これ以上膝が笑うような人物ばかりに出てこられたら困る。
ただでさえ今日は痛い思いをした上に恐ろしい男相手にとんでもないことを2、3既にやらかしているのである。
このあたりで誰かに調整してもらわないと身が持たない。
トキはラオウの実の弟だと、そう聞いていた。
おまけに病人だ。
そんな人を相手に、大出血をさせるような卑怯な戦法を使う男の非情さに、鳥肌が立ったのだ。
これは最早、血で血を洗う殺し合いだ。
戦いなんて生温いものではない。
ラオウの足からもそれは同じだが、体格も体力もラオウの方が上だ。
このままでは、トキが先に失血で死んでしまうだろう。
しかし、それはラオウによって虚しく防がれてしまう。
マミヤがボウガンを構えていたからだ。
北斗神拳には二指真空把と言う技があり矢を放てば自分に帰ってくるのだ、だからやめろ、とレイが必死でマミヤを止めに入るも、マミヤは聞き入れずに矢を放とうとする。
頼みの綱のケンシロウは動けない。
咄嗟に自分を見上げたリンに対して、はしかし、首を振った。
「…無理です。私には…どうにもできません」
ケンシロウが動けず、レイは負傷、無傷のマミヤですら敵わない状況で、は正確にこの場の状況を判断した。
ここは手詰まりだ。
例えがまだ動けるとはいえ、片腕だけでどうにかできるような男でないのは明白だし、マミヤに矢が跳ね返ってしまったらにはそれを止める力は無い。
盾のようなものを探す時間も無いし、それ以前に、ラオウであればそんなものは簡単に貫き通すくらいの力で矢を返してくるだろう。
ではこの状況をどう打開することも出来ないのだ。
否、自分が盾になれば、隙を作ることくらいは出来るかもしれないが――それだけは、どうしても選べない選択肢だ。
には目的があるのだ。
自分の記憶を取り戻すという目的がある。
埋もれた記憶の中の真実を知りたいのだ。
迷っているけれど、きっと自分はそれを知らずに死ぬことなど出来ないと、はどこかでわかっていた。
自分が何故ディ・ロンと行動を共にしていたのか、そしてリュウガが何故嘘をついたのか、拳王軍に入る前にどこに居たのか、何をしていたのか。
それを知るまで終われない。
だからは、残酷な言い方をすれば、今日一日顔を合わせただけのトキの命を救うためだけに命を捨てることは出来なかった。
最終的にはケンシロウが自ら秘孔縛を解いてマミヤの命を救ったが、それを見つめるの眼は、戦いが幕を閉じるまで葛藤に揺れ続けたのだった。