食事の用意が終わり、が広間に料理――といっても、缶詰を開けて温めただけのものだ――を運んで行くと、ケンシロウの姿も消えていた。
マミヤの姿も無い。
レイのところに行ったのだろうか。
アイリやバットもどこかに行ってしまったらしく、部屋にはトキだけが残っていた。

正直なところ、はトキに僅かな苦手意識を感じていた。
最も、彼が何かしたと言うわけではない。
何かした――というより、”しようとした”のはのほうである。

ラオウとトキの闘いの中で、彼が止めを刺されそうになった時、は助けに入ろうとしなかった。
自分の命を守るために。
それは人としてごく自然なことだったが、言い換えればはトキを見殺しにしようとしたのである。
結果的にはマミヤが止めに入り、彼女が殺されそうになったのをケンシロウが止め、誰も死にはしなかった。
けれど一瞬でも彼の命と自分の命を天秤にかけ、保身を取ってしまったは、少なからずの罪悪感と一方的な苦手意識をトキに対して持ってしまったのである。
しかしながら黙っているわけにもいかないので、はトキに尋ねた。

「お体の調子、どうです?ご飯、食べられますか?」
「ああ…心配ない。ありがとう」

トキはに穏やかな笑みを向けて答えた。
その微笑みは、弱弱しくもあり、しっかりと生きている人間のそれだった。
そして、あれほど熾烈な戦いをしたというのに穏やかに微笑むトキという男に対し、は素直に思った。

(ああ、そっか)

(…強いんだ)

肉体的な強さならば、鍛えれば人はほぼ簡単に強くなれる。
元々頑丈な人間ならば尚のことだ。
しかし、トキやケンシロウ、そしてラオウを見て、は思った。

彼らは、ただ力が強いだけではない。
心が強いのだ。
意思が折れない。
踏み出す一歩が重く、意味を持っている。
ダイヤモンドですら砕けそうに無いほどに、固く”強い”意志がそこにある。

だから美しいし、惹かれる人間が多いのだろう。
実際、ケンシロウが村の中年女性に陰ながら人気があることをは知っているし、マミヤがよくケンシロウを見ていることも感づいてはいる。
確かに彼も男前といえばそうだろう。
しかし、内から溢れ出す静かな意思が容姿以上に人を惹きつけるのだ。

レイもまたそういった人間の一人だろうとは思う。
確かに身体は悲鳴を上げているけれど、今は運命に打ちひしがれているけれど、彼は大丈夫だと漠然とは信じていた。

「…肩が痛むのか?」
「え?」

ふとかけられた声に顔を上げると、トキが怪訝そうな表情でを覗き込んでいた。
考え事をしていていたら表情が硬くなっていたらしい。

「い、いえ!あの、えと、お、お腹空いたなーって、思ってまして」
「ふふ、それだけ元気があれば、怪我もすぐによくなりそうだな。しかし頑張りすぎないほうがいい。あとで疲れてしまうから」
「あ…そ、そうですね、そう…しときます」

なんとなく勢いで適当に誤魔化そうとして、いつものようにへろりと笑ったは、しかし遠まわしにそれが仮初の笑みだと気づかれたような心地になって、中途半端に頷いた。
なるほど、ラオウの弟だけあってやはりトキも鋭い。
彼には嘘は通じないようだ。

(鋭いなぁ…)

よく人を見ている。
確かにはとにかく自分だけでも笑顔で居ようと無意識のうちに気を張り詰めていた。
やっぱりあの人の弟さんだなあと感心して、は脳内の要注意人物ランキングにトキの名をリストアップしておいた。
こういう人間には話す話題を選ばなければならない。
危害を加えられることはないだろう。
それはわかっている。
けれど、無理をしていると悟られたくなかった。
はまだ余裕がある、まだ大丈夫だと思っていて欲しかったからだ。

それに、笑っていないと自分を支えるものが崩れてしまいそうで怖かった。
臆病でどうしようもなく愚かで、大切な人を守る力も無い自分を、は笑顔を貼り付けることで保っているのだ。
そうすることで、自分が少しでも”強い子”になれる気がしていた。
弱音は吐けない。
弱さは見せられない。
今やきっちりと鍵を閉めたの心は、誰にも滑り込むことが出来ない。

ディ・ロンですら入れなかったその内を知っているのは、今は彼女の記憶に埋もれた、ただ一人の男のみ。

しかしトキはそんなの心の鍵を簡単に開錠してしまいそうで、の防衛本能が無意識のうちに隙を見せないようにしろと信号を発したのだった。
が動揺を悟られないように表情を繕っていると、タイミング良くアイリやバットたちが戻ってきた。
その後すぐにケンシロウがレイを連れてきたが、マミヤの姿が見当たらない。

「マミヤはどこへ?」

ケンシロウが尋ねると、バットがマミヤがメディスン・シティーへ向かったと答えた。
あの街なら、も何度か足を向けたことがある。
治安は良くないので好んで行く場所ではないが。
ラオウが身を隠した今は再び暴徒の手に落ちているというトキの言葉を聞いて、レイとケンシロウの顔色が変わった。
レイがマミヤを追ってすぐに発ち、その後をケンシロウが追うのを、は瓦礫の上からただじっと見つめることしか出来なかった。





ラオウが弟であり北斗神拳伝承者のケンシロウと闘って引き分けたという報せは、瞬く間に拳王軍に広がって内部を波立てた。
報告を聞いたリュウガは、いち早く暴動を防ぐために、すぐに今ある領地の再確保を急いだ。
ソウガがいない今、拳王軍で大将であるラオウが不在の場合に軍の指揮権を握っているのは、実質リュウガになっている。
ラオウは確かに引き分けただけで負けたわけではないが、暫く療養する期間が必要であろう。
しかし、末端の部下から見れば傷つき、目の前の敵を倒すことが出来なかった彼は負けたも同然であったかもしれない。
圧倒的な力で抑えつけてられていた者たちが、その力を失った時、どんな行動に出るかは目に見えている。
拳王軍とて、未だ一枚岩ではないのだ。
自分達を力のみでコントロールしていた者がいなくなると忽ち瓦解してしまうのが、ラオウ率いる拳王軍の弱点でもあった。
領地の管轄を任せている者たちの状況を聞いて、リュウガは矢継ぎ早に対応策を打ち出した。

「隊を分割して領地の暴徒どもの鎮圧に当てろ。鎮圧が終わったら食料庫を開けて3日間炊き出しをさせるのだ」
「は?しかしそれでは、逆に反乱を考えるものに力を与えてしまうのではありませぬか?」
「確かに…いっそ完全に制圧し、より厳しい統治をされたほうが…」

隊を割当てられた尉官や佐官達が、現在の指揮官であるリュウガの命令に首を傾げた。
だが、その質問も予測していたリュウガは直ぐに対応策の狙いを説明した。

「反乱分子や羽目を外しすぎた者に限ってはそれで構わん。だがこれは救済措置ではない。領地の民が反乱を起こす意識を挫くための策だ。領地の民に多少食わせていく余裕があると思わせろ」
「なるほど…。それでは、仰ったとおりに致しましょう」
「それでいい」

リュウガの意図を理解した部下達が、直ちに個々の隊を率いて暴動が起きている領地に向かう。
直後に部下達が駆け込んでくる。

「リュ、リュウガ様!東のムラで反乱が!!」
「慌てるな。付近の隊から援護を送らせる」
「はっ!」
「失礼致しますリュウガ様!北の領地の民が暴動を起こし、部隊長がやられました!」
「そこは直にバルガが向かう!応援を待てと伝えろ!」
「ははっ!」

命令を受けて次々に城を出て行く兵達を見送り、リュウガは人知れず溜息をついた。

(人材が足りなすぎる…!)

が居れば、とリュウガは思う。
ただ愛しいからではない。
彼女の情報収集とその重要度を図る能力は、混乱中の拳王軍で今まさに最も必要とされるべきである。
記憶を失っていることが、今までとは違った意味で口惜しい。
既に拳王軍の情報偵察隊は状況を把握することだけで手一杯で、周囲の反乱分子への注意は完全に怠ってしまっている。
これではいつ大規模な暴動が起こるかわからない。

幸い、各領地の管理を任されている末端の部隊長達の多くは、はっきり言って頭の中まで筋肉で出来ているものがほとんどだ。
拳王が居なくなった、イコール今の領地は自分のものだ、程度の思考しかできないだろう。
しかし稀に頭の切れるものが居て、しかもそれが反旗を翻す機会を伺っていたのだとしたら、これは一刻も早く沈黙させる必要がある。
今の拳王軍は、頭であるラオウの隠匿でかなり荒れている。
こんな状態で内部抗争でも起きて、更に連鎖式に内乱が起こってしまえば、拳王軍自体が壊れてしまう。

(そうなる前に、何とかせねば…)

まだ大規模な反乱の気配はない。
今のうちに反旗を翻す気概を拭い去る。
その上で、自分の目の届く限り全ての領地を押さえる。
一見ラオウの領地を横取りしたように見えるかもしれないが、主が帰って来れば全て彼に返す。
これは唯の、裏切りに見せかけた繋ぎだ。
先のことを考えているうちに、ふとのことが頭に浮かんだ。

彼女は今、どうしているだろうか。
暴動に巻き込まれてはいないだろうか。

ちゃんと笑えているだろうか、と考えて、ふとリュウガは彼女の笑顔に二つのパターンがあったことを思い出した。

は笑う時は大抵気のぬけたような笑顔をみせる。
しかし恋人関係になってから、自分に向けられるもの以外の彼女の微笑の殆どが虚偽であることに、リュウガはある日ふと気づいた。

知り合ってからずっと傍にいた自分ですら恋人になるまでは見破れなかったのあの覇気の無い笑顔は、彼女が無理をしている時ほど増える。
気の抜けた笑顔が出るタイミングは、決まって緊張している時、無理をしている時、そして疲れている時のどれかだ。
心からの笑顔を見せた時のの表情は、実際は能天気そうではあるが華やかで生き生きとしている。
大雑把に言えば、が完璧に自然すぎる笑顔を見せる時は何かしらの強がりをしている状態だということである。

彼女が仮初の微笑を貼り付けるようになった経緯をリュウガは知らない。
聞こうと思ったことはあるが、己にだけ向けられるの柔らかい笑顔を目の当たりにすると、無理に聞きだすのも良くないだろうかと思わされてしまうのだ。
しかし今までの人生で、が無理にでも笑わざるを得なかったような境遇にいたことは確かだった。

「…お前は今、どんな風に笑っている」

自分にだけはいつも花のような笑顔を向けていたを思い出しながら、リュウガはほんの数分の仮眠を取るために、一人仮眠室に向かった。
束の間の眠りの中で、せめて彼女に夢で逢えたらと願って。

彼が主からの遣いに呼び出されたのは、その翌日のことだった。