馬鹿の一つ覚えのように記憶を辿るのはこれで何度目だろうか。 サウザーのこと。 嘘を暴くときに必要なことは嘘の内容ではない。 手に入れた記憶の欠片がどのような順で並んでいたのかすらわからない。 サウザーと居たのは一体どれくらいの間なのだろうか。 そして、その後で。 まるで一瞬にも満たぬ刹那に浮かんで消えた像に、は戸惑った。 「…誰の…こと…?」 誰を思い浮かべたのだろう。 (…誰、あれは、あの人は、) もう一度思い出そうにも、頭の中に靄がかかっている。 知らず、の手は胸元に揺れるペンダントを握り締めていた。 ペンダントを両手で握り、はただただ朝焼けの中に佇む。 ユダ。 (…違う) 今問題なのは、そんなことじゃない。 ケンシロウがレイから少しだけ離れた間を見計らって、はレイに近づいた。 何を言えばいいのか、何を言うつもりだったのか。 「…どうした?」 気遣うつもりが逆に気遣われたのだと知って、はますます居たたまれなくなった。 「今更、だからなんだって話なんですけど」 の言葉を聞いたレイが少しだけ驚いた表情を見せた。 「レイさんに見える星…死兆星は、もしかしたら既に死んだ星の残像なのかもしれません。まだあるのかもしれないけれど、とても不確実な存在なんです。…だから、その」 だから。 本当に、だからなんだと言うのだ。 「…諦めないでください」 散々迷って出した言葉がこれかと、自分でも情けなく思ったに対してレイは笑った。 「大丈夫だ」 ケンシロウが戻ってきたのを見つけると、はそれ以上は何も言わずに建物の中に戻った。 「…」 の前で悲しげに瞳を揺らしていたのは、肩に消えない傷を背負い、男を愛することを止めた女。 (レイ…) レイの命はあと2日しかない。 がレイを見送ったときの、涙を流すこともなく現実逃避している様子でもない瞳に、マミヤは気づかなかった己の弱さを見せ付けられた気がした。 死にゆくしかないレイを見守ることしか出来ない自分とは違って、まだ生きていられる、まだ大丈夫だとでも言うように、希望を捨てていない。 マミヤにとって、のそれは羨ましいものだった。 希望を捨てないで。 こんな言葉の数々は、口に出さなければ村の士気が落ちてしまうからこそ、率先して叫んできた言葉だ。 死を前にし命を賭して想いをぶつけてきたレイに応えることも出来ず、心を引き裂いたユダとの因縁が蘇った今、ただ見守る以外に選択肢など見つけられなかったのである。 だからマミヤは、動じる様子を見せないと話をしたかった。 風が吹いた。 「…強いのね。貴方は」 先に口を開いたマミヤに、は困ったように笑って首を振った。 「まさか。ビビリですよ、私」 なんとなく予想していた答えが返ってきて、マミヤは小さく笑った。 (綺麗な眼をしてる) 平凡でどこにでも居そうなのに、どこにも居ないような色彩の瞳。 「はわ!?え、え、マミヤさん?」 驚いて声を上げたの背を撫でて、マミヤはの細い肩に顔を埋めた。 「…ごめんなさい…少しだけこうしててくれる…?」 の返事はなかった。 「レイは…」 レイは、――― 「きっと、大丈夫よ。…ううん、絶対に、大丈夫」 静かな朝の空気の中で、二人はややあってどちらからともなく離れた。 「…失礼ですが拳王様…今、何と…」 ラオウの私室に呼ばれて主の膝元に跪いたリュウガは表情こそ変える事は無かったが、内心ではまるで鈍器に殴られたかのような衝撃を受けていた。 「……お会いになられたのですか」 刃向かった。 「……罰をお与えに?」 リュウガはその言葉に息を呑む。彼は頭の回転が速い男だ。 「…リュウガよ、貴様に命ずる。反逆者・を粛正せよ」 主君の命に背くことなど、既に彼の選択肢には無かった。 「………御意に…」 平静を装った声でただそれだけを答えると、リュウガは静かに退室し、誰もいない暗い廊下で片手で顔を覆い、長い溜息を吐いた。 何故あの日、無理矢理にでも連れ戻さなかったのか。 後悔ばかりが渦巻く中で、廊下を照らす松明の揺らめく光の中に、この手で摘み取らなければならなくなってしまった愛しい女の笑顔が浮かんで、消えた。
ほんの少しだけ手に入ったパズルのピースはどこに置けばいいのだろう。
ケンシロウ達の帰りを待つ間、朝焼けを見つめながら、は思考の海を漂っていた。
拳王軍。
そして、リュウガと、彼の嘘。
“何故嘘をつくのか。”
重要なのはここだ。
逝ったディ・ロンの言葉である。
その理由を軸に考えれば、自ずと嘘は嘘で無くなる。
彼はにそう教えたが、には彼の嘘の理由など全く見当がつかなかった。
誰が先で、どれが後だったのか。
いつ、誰に、どうやって会ったのか。
何をして、どうなったのか。
それらがわかればきっとリュウガの嘘も暴けるのだろう。
しかし、彼が嘘をついた時の背景が見えてこない。
だから何故嘘を吐いたのかもわからない、ということだ。
拳王軍に入ってからの事だった。それは思い出した。
何故彼に会ったのか。それもわかっている。ピアノを弾きに行ったのだ。
何故そうなったのかはまだ曖昧だが、とにかく自分は聖帝の城に行った。
一緒に行ったのはソウガ。
顔も名前も、彼は思い出せている。
(…その、後…)
獣の目が、聖帝の眼が、
(…組…敷かれて)
それで。それで、怖くて、とてもとても怖くて、
(……あれ?)
―――思い出せない。
「……どうやって、逃げたんだろう」
あの男、聖帝サウザーはあまり思い出して気分がいい感じはしないが、しかし拳王と並ぶ実力者だったはずだ。
少なくとも、今ある記憶の中では。
そんな男に組み敷かれて、果たして自分は自力で脱出できたのだろうか。
よもや犯されたのか。
否、それは無い。
(だって私の初めてはあの人で―――)
「―――え?」
あの人。
何を?
あの人。
誰を思い浮かべたのだ、誰を、誰を。
頭を抑えて刹那の残像を手繰る。
しかし、砂粒か飛んだ水面が僅かに揺れてすぐにまた揺らぎをなくすように、“彼”の像はが認識するよりも早く消えうせた。
記憶の糸がぶっつりと途切れてしまっている。
否、切れているのではない。
何かが記憶の糸を阻んでいるのだ。
どうしようもなく、これが大切なもののような気がして。
まるで、祈るかのように。
*
メディスン・シティーから無事マミヤを救出して来たケンシロウとレイは、長老からマミヤと彼女の肩に紋章を刻んだ男、ユダについて語った。
その名を聞いて、の心臓がどきりと弾んだ。
(思い出した!)
それはサウザーの城に着いた自分を迎え入れた男の名だったはずだ。
そして、彼女をサウザーに会わせるきっかけになった男。
ああ、そうだ、そうだった。
があの時会ったユダはまだサウザーと共に居たから、その後でユダはサウザーの元を離れて新たな勢力になったということだろうか。
が知らないうちに権力が分散しているのか。
そこまで考えて、は小さく息を吐いた。
マミヤがユダの所為で人に愛されることを辞めたのなら、レイの想いはどうなるのか、だ。
レイが今踏ん張っていられるのは、マミヤへの想いがあるからだ。
それを挫かれてしまっては、レイの心が折れてしまうかもしれない。
痛みを堪えて瓦礫に腰掛けて居るレイは、暗闇にの姿を認めると、それでも苦笑した。
その笑みを見て、は開きかけた口を閉じて俯いた。
自分は彼ほど強くもないくせに、励ますことなど出来やしない。
けれど、何も言わないでいることも出来ない。
結局中途半端なままで、どうにも決まらない自分が恥ずかしくて、がどうしようもなく俯いていると、レイが先に口を開いた。
「あ…その…」
今一番苦しいのは他の誰よりレイ自身のはずなのに、自分は何を醜態を晒しているのだろう。
けれど、これ以上気を遣わせるわけにはいかない。
意を決したは、顔を上げてレイをじっと見据えて口を開いた。
「?」
「…星の光は、地上に届く時にはその殆どはもう既に無いのだと聞いたことがあります」
それはあえて気にせずに、は続けた。
そこまで言って、は口ごもった。
レイはただ死兆星を見たから死ぬのではない。
ラオウに秘孔を突かれたために余命後二日になっているのだ。
それはもうどうしようもないことだ。
けれど、それでもは信じたくなかった。
レイの運命を受け入れられないのは、の勝手な我が侭だと言う事はわかっている。
けれど、が這いつくばって倒れていた時に見たあの彼の強さは、今もの脳裏に焼きついている。
彼のように、強くなりたいと思った。
だからレイに負けてほしくないと、そんなわがままを考えてしまうのだ。
それを理解した上で、あえてはその言葉を口にした。
が何故その言葉を言うのを躊躇ったのかを悟ったのか、ただ純粋に励ましに応えたのか、そこまでの判別はつかない。
しかしレイはしっかりと頷き、言った。
「……!」
「レイ、行こう」
もうレイには何の心配も要らない。
レイの強さを感じて僅かながら安心していると、の前に人影が揺れた。
「…マミヤさん」
*
ユダを倒しに行ったレイを声をかけることも出来ずに見送って、マミヤは視線を下に落とした。
それを想いに応えられない自分のために使おうとしていることが、マミヤは苦しく感じていた。
女として誰かに愛されるということの重み、それを拒む心の傷の深さ。
こんな時代でなければ、あんな目に合わなければ、今の感情も違っていたのかもしれない。
は堪えているのではなく、まだ諦めていない。
が涙の一つも流さないのは、無情だからではない。
現実を受け止め、それでも諦めないでいる心があるからだ。
女を捨ててから、否、それ以前からも、彼女は何度も信じて、何度も裏切られた。
荒廃した時代を生きているからこそ、戦おうと決めたからこそ味わった挫折感や喪失感に、マミヤは幾度も幾度も打ちのめされてきた。
抗いましょう。
けれど、ラオウと対面し、ケンシロウとラオウの凄まじい戦いを目の当たりにして、信じたくない現実を突きつけられた今、マミヤはレイの「3日後」の未来を描くことが出来なかった。
こんな時にへらへら笑いやがって、と、村の男達は言った。
けれど、こんな時でも笑っていられる強さが、今は何より眩しかった。
相対したマミヤとの髪がさらりと靡く。
そんなことはないと否定することも簡単だったが、はそれを受け入れはしないだろう。
どうにも言葉が出なくて、マミヤはをじっと見つめた。
それが自分を見上げている。
マミヤは眼を伏せると、の身体をぎゅっと抱きしめた。
女同士だからこそ、わかるものがある。
それを察したのか、はすぐにおとなしくなった。
その代わりに、マミヤの背をの手が同じように撫でた。
人の手は不思議なもので、自分で身体を撫でても何も感じないのに他人のそれに優しく撫でられると心地よい。
マミヤの心の殻が僅かに剥がれ落ちる。
胸が楽になって、マミヤは呟いた。
「…はい」
冷えた瓦礫だけが、誰も知らない女の友情が芽生えた瞬間を見ていた。
*
領地の鎮圧に奔走するリュウガを呼び出したのは、隠匿し療養しているはずの彼の主だった。
ある程度必要な領地は既に再び抑えられていたため、残る地域の制圧を部下に命じて主の下に馳せ参じたリュウガは、王と仰ぐラオウから思いもよらぬ衝撃的な言葉を耳にする事になった。
「士官のことは忘れろと言ったのだ。あれは最早我らの敵でしかない」
彼女の生存を確認したことは、ラオウには伝えていなかった。
ケンシロウと会う前かその後に鉢合わせたのだろうか。それも最悪な形で。
「貴様のことは覚えておらんだがな。何故あれが生きていたことを黙っていた?」
「…記憶を…失っておりましたゆえ。使い物にはならぬと思い…」
「だが、この俺のことは僅かに覚えていたようだ。未だに敬称付けて呼んでおったわ」
「…!」
「その上でこの俺に刃向かった。これは謀反以外の何ものでもない」
「…な…!」
その言葉に、リュウガは自分の額を冷や汗が伝うのを感じた。
理由はどうあれ、このラオウに逆らって生きている事は許されない。
それは、つまり。
「生憎時間が無かった。だからこそお前を呼んだのだ」
ラオウはそこまで言った時点で、既に忠実な狼が何をすべきかを理解したことを察した。
そして、あえてそれを確認するために命令を下す。
起きて欲しくなかった事態が起こってしまった。
何故あの男の言葉を素直に聞いてしまったのか。
魔狼ともあろう男が、何を躊躇った?