廃ビルは所々穴が開いていたり罅が入っていて、昼間でも光がうっすらと差込みそう暗くはならない。 ぽろん、ぽろん。 指が覚えている譜面を片手だけで追いながら、はリュウガのことを考えていた。 (それはない…よね) (私、やっぱり裏切り者だもん) どちらにしろ、(自分でも覚えていないが)突然軍を出て行き、おまけに主に逆らったのだ。 (…もう…会えないのかな) 会えない。 「ゆめ、」 (…どんなの、だっけ…) 夢などそう長く覚えていられるものではない。 (…恋、) そうだ。 (まさか!) 銀髪の男の姿を思い出して、は首を振った。 (だってそんなこと、リュウガさんは言ってなかった!) もしそうだとしたら、きっともっと感情的な反応をしていたはずだ。 「…恋、してるみたい…」 突然後ろからかけられた声にが驚いて振り向くと、トキが苦笑して立っていた。 「あ…」 僅かに火照った頬を押さえて、は拗ねたような恥ずかしいような複雑な表情で呟いた。 「やっぱトキさんて性格悪いぃ…」 ずばっと言い捨てたにうっと言葉に詰まると、トキは苦笑してもう一度、すまない、と繰り返した。 「ピアノの音が聞こえたのでな。見にきたら君が居た」 信じられない。 「って言うかウソでいいから「最後のしか聞いてない」くらい言ってくださいよぅ!!死ぬほど恥ずかしいじゃないですかー!!」 思いがけずに見られた恥ずかしいシーンを思い出し、は穴があったら入りたいと頭を抱えてしゃがみこんだ。 (もう色々ムリ…ムリ…!!) が真っ赤になった顔を両手で覆って長い溜息をつくと、トキが笑った。 「心配しなくても、今日見たことは誰にも話さないから」 指の隙間からちらりとトキを見上げると、素晴らしく優しい笑顔が見えた。 「…ならいいです…」 口を尖らせるの仕草がおかしかったのか、トキは小さく笑っての頭をぽんぽんと撫でた。 「子供みたいな顔になっているぞ」 勿論トキのせいである。 「おや、弾かないのかい?」 これは嘘だ。 笑ってそれだけ答えると、は部屋を出た。 それが出来なかったのは、トキの手がの肩に置かれたからである。 「…あの…?」 怪訝な顔で振り向いたは、すぐに口を噤んだ。 「君の瞳は、ケンシロウ同様とても深い哀しみに満ちている。しかし、全く違う」 哀しみ。 「祈りや願い、強い想いを抱いている目だ。何かを求めている…」 続く言葉を耳にして、は僅かに眼を見開いた。 「…やっぱり、鋭いですね」 今度は僅かな動揺しか見せずに淡々と答えたを、トキは黙って見つめた。 強い眼だ、と。 事実、彼女は強い。 思わず口をついて出たトキの言葉を遮っては言った。 「必要ありません。今の私には、まだ」 その言葉だけで十分だった。 彼女は救いを求めてはいないのだ。 それを思うと、頼られていないような寂しい気持ちになった。 「…?」 「幸せに、死ねたんでしょうか」 強がりで真っ直ぐな娘の問いに、静かなる強さを持つ男は答えた。
ぽつんと置かれたピアノには帯状になった光が当たり、どこか清廉な空気を醸し出している。
ピアノの蓋を開けてぼろぼろになったカバーを外すと、は右手を鍵盤の上にそっと置いた。
鍵盤の上で指を滑らせると、完璧とは言えないが澄んだ音が響いた。
その音に口元を綻ばせて、は片手でメロディをゆっくりと奏でた。
の左肩はまだ完治しておらず、右腕だけが自由な状態だ。
しかし、メロディだけなら片手でも十分弾くことは出来る。
例えそれが幼子の悪戯のように拙くとも、音が紡げれば音楽はそれなりに形になるのだ。
彼が今は拳王の代わりに軍を動かしている。
あの雑魚らしい男は乗っ取った、といった。
それが本当なら、敵でなくなる可能性は無いのだろうか。
簡単に受け入れてもらえるとは思えない。
そう考えた途端、胸がぐっと痞えたように苦しくなった。
この感じは、あの夢を見たときのものに似ている。
いくら掬い上げようとしても、塵になって記憶の底に沈んでしまう。
ただ、その時感じたあの感覚だけは、はっきりと覚えていた。
あの時自分は、誰かに恋をしている時のように、今と同じに胸が痛くなった。
その相手が、リュウガだとでも言うのだろうか。
自分だって、もし恋人が記憶喪失になったら、まず自分のことを思い出してほしいと思う。
だからきっと、何も言われなかったのは、そうではなかったということなのだ。
その筈だ。
けれど、それではこの胸の痛みはなんなのか。
この感じは、やはり、まるで、
「誰に?」
「へあう!!?」
「すまない。立ち聞きするつもりは…無かったのだが」
「……聞いといてそれですか…」
「強かだといって欲しいな」
「それはそれで性質悪いですよね」
「どの辺から見てたんですか?」
「弾き始めてすぐだ」
「それおおかた全部ですよねえ!?」
「いや、綺麗な音だったが」
「〜〜〜〜〜〜!!?」
乙女が一人で乙女ちっくになっている時ほど人に見られて恥ずかしい瞬間は無いのである。
想像して欲しい。
一人で相性占いやって「キャーvv彼とあたし相性良いんだーv」なんて悶えているところを全国に配信された瞬間を。
一世代遡って好きな相手の名を呟きながら花占いしてるところでもいい。
乙女的瞬間を他人に見られるというのはそういうことである。
それをよりによってこんな所でほぼ全て見られるとは、何たることであろうか。
「そんなに恥ずかしいことをしていたのか?」
「いやしてませんけど!女の子には色々あるんですぅぅ、」
「胸を押さえてみたり首を振ってみたり、一人で呟いてみたりすることがかな?」
「しっかり見てんじゃないですかああぁぁあああ!!??」
「…ホントに?」
「ああ」
その笑顔が妙に怖いと思うのは自分だけだろうかと一抹の不安を抱きつつ、は不満げながら頷いた。
「誰のせいですかっ」
気を取り直して深呼吸を一つすると、はピアノにカバーをかけた。
「まだ肩が治ってないですから…ちょっと音を聞きたかっただけなんです」
考え事をしに来たが邪魔が入ったので止めるのである。
トキもそれには感づいているようだったが、あえて深く追求してこないところを見ると、触れぬほうが良い事だと判断したらしい。
「そうか…なるべく治りが早まるようにしたのだが…」
「トキさんのせいじゃないですから、気にしないでください。きっともうすぐ包帯も取れますよ」
否、出ようとした。
トキの眸が静かにを見据えていたからだ。
まるで心の奥まで見抜かれているような心地の悪さを感じる。
不快感に眉根を寄せたに向けて、トキはやがてゆっくりと口を開いた。
レイやディ・ロンのことだろうか。
そうであるなら、違うというのは何だ。
何が違う。
何の話だ。
「……!」
やはり、トキはどこか油断がならない。
根本的に何を隠しているのかをすぐに見つけてしまった。
「…」
そして思う。
力ではない。
精神が、だ。
まるで柔らかな花のようにいとも簡単に手折れる身体の中に、何にも屈しない意思がある。
強がるところはリンやマミヤにもあるが、それよりももっと徹底的に弱さを見せない。
だからこそ、トキは心配だった。
いつか彼女が破裂してしまう気がして。
「…泣きたい時は泣くことも、」
「その先は」
トキはそれ以上は何も言わずに小さな溜息をつくと外に向かう出口に足を向けた。
少なくとも、今はまだ。
けれど擦れ違う瞬間、が問いかけた。
「レイさんは…」
そう願おう。