裏口からの侵入はあっけないほどすんなり完了した。
見張りが鼻提灯までぶら下げて豪快かつ典型的な居眠りをしていたからである。
何のことはない、どうせ飯さえ食えれば人目につかない仕事などまともにやる気が無いだけだろう。
シバはこれから子供達の一段に紛れて厨房に侵入し、機を伺ってケンシロウを奪還する。
そして子供に紛れることができないはというと、どうするんですかと尋ねたシバにこう答えた。

「見取り図を拝借してから、聖帝の私室を確認してそこに行きます。一度やったことあるんですよー、こういうの」

仕事で。と不法侵入歴を堂々と言い放つ彼女に、何の仕事だなどとはけして問うまいと密かに思いつつ、シバはと別れた。
まずは、敵に見つからないように上手く紛れ込むことが先だ。
一方、はディ・ロンに叩き込まれた知識を総動員し、見取り図らしきものを早々に見つけるとあっという間に道筋を記憶した。
もともと記憶力はかなりいい方だ。
それに、城主の私室など大体何処も同じ。

「要するに上ればいいわけですよね!」

内部には既に侵入済だ、闇に紛れて外壁を登るのも見張り台の死角さえ押さえれば造作もない。
通風孔を利用して、ある程度上の階まで進むと、は一旦外に出て壁に捕まり、高く聳える城の頂上を見上げた。
吹き上げる風に髪が煽られる。
今宵は新月だ。
月の光が無い分、闇が深い。
美しく煌く星たちの光も弱く、の姿は下からは視認できない。
好都合だった。
黒目がちの双眸が真っ直ぐ見つめるのは、僅か20数メートルにまで近づいた目的地。

「…あそこですね」

目指すは、最上階。



「篝、お前は覚えているかしらね」

夜の空気に溶け込むように漆黒の髪を揺らめかせ、空に立つ美貌の娘が男に尋ねた。
背後に控える男は、星月夜に漂う闇の女王に返す。

「何のお話で」
「何の話ですって?ああ、では忘れてしまったのね」

あの男。あの哀れな羊の話を。
呟く主に、彼女の後ろで跪いている青年は煙草を咥えた唇を歪めて哂った。

「ああ…あの話ですか」
「そうよ、あの愚か者の話。ちゃんと覚えているじゃないの、もうボケたのかと思ったわ」
「まさか」

よぉく覚えてますよ。
返した僕に、女王は紅い唇から笑みを漏らす。

「あの羊と同じように世界を渡り、嘆き、傷つき、絶望の中で全てを捨てた―――哀れな道化師」
「いいセン行ってましたがねぇ…」
「ええそうね。駄目だった。でも」

この羊なら、きっと。

「きっと、何かしでかすわ。最期の最期で全てをひっくり返して、色々なものを引っ掻き回して」
「は…?」

ねえ、篝。
女王は笑う。
夜の闇の中で狂気と慈愛を同時に内包し、優しく残酷に。

「面白くなるわ。ああ、待ち遠しい」
「それより俺はあっちの件が露呈しないかどうかが一番怖いんですがね」
「ばれたところで特に支障は無いでしょう…ふふ。もっと回るのよ、そうして走って、ここまで来るの」

静かな夜の空で、女の声が響いて溶けた。



サウザーはバルコニーに立っていた。
ケンシロウを捕らえ、明日はついにあの己の情の墓を完成させるのだ。
目出度い日であるのに暗い新月は気に食わなかったが、こればかりはどうしようもない。
ワイングラスを片手に、ゆっくりと赤い液体を味わう。

眼前に聳えるのは聖帝十字陵。
長く慕った師の亡骸も、そこに納めてある。
情と共に、かつての己と完全に決別したかった。
愛を信じ、受け入れていた惰弱な若き頃の自分。
あのような弱い男は、もう要らぬ。
愛は、否、全ての情は帝王には邪魔者でしかないのだ。

思考を広げるうちに、サウザーの脳はある記憶を掘り起こした。
瞬間、力強い眉が歪む。

(…忌々しい)

(今になって思い出すとは)

かつて戯れに傍に置いたあの小娘。
できればあれもあの墓に押し込んでやりたかった。
何も知らぬ幼い口で、師と同じ言葉を発したのが気に入らなかった。
そのくせ、あのピアノの旋律や困ったときの表情だけは嫌いではなかった。
いくら考えても、何故あんな気に入らぬ娘を傍に置いてやろうなどと思ったのかわからない。
おまけに敵軍の使者で、生意気にもこの帝王に口答えをするような愚かな娘を。

否、もっとも気に入らなかったのはそこではない。

戯れに飽きて手をかけたこの帝王の寝台で光栄に思うどころか怯えて震え、そのくせあの男にはまるで怯えもせずに寄り添ったあの姿。
無性に腹が立った。
それを逆手に取ったあのラオウの部下の男も気に食わなかったが、あの娘の態度が一番気に入らない。

あえてその後何の接触もしなかったのは、それこそ己のプライドを保つためでしかない。
つまらぬ小娘などもう要らぬと。
しかし今になって思い出すのはどういうわけか。
祝うべき日を前に何故あんな小娘のことを思い出すのか。
第一あの娘は半年ほど前に姿を消し、それからは行方知れずと聞く。
それ以上のことなど、サウザーは興味も無かったし知ろうとも思わなかった。
死んでいようが生きていようが、どのみち自分には関係のないことだと。

「ち…」

ワインを一気に飲み干し口元を拭い、サウザーは空になったグラスを反射的に背後の窓際に放った。

「誰だ!」

かしゃん、と薄いガラスが割れる音と同時に振り向くと、闇の中から侵入者がゆっくりと姿を現す。
その人物の顔がランプの光で照らされた瞬間、サウザーの紫の眼が大きく開かれた。

「……貴様…!」

月の無い夜の闇から緩やかに姿を見せたその者は、己を睨む帝王を静かに見据え、口を開いた。



「お久しぶりです。聖帝、サウザー」



元・拳王軍特務士官、

消えたと聞いたはずの小娘が、彼の前に立っていた。



の足は震えていなかった。
いつもはすぐに震えだし、無理にでも動かなければ止まらない足の震えは今は無い。
疑問にも思わなかった。

ただ、恐れることなど無いと思った。
今が迷いを捨てるときだと。
徐々に、蓋をした記憶の棺が開かれていく気がしている。
目の前の男から全く殺気を感じられないことも、要因の一つなのかもしれない。

「こんばんは。お変わりの無いようで」
「…ほざけ。どこから入った」
「裏口からですよ。わざわざ正面切って入るわけないじゃないですか」

怯むことなくさらりと答えたに、サウザーは彼女を睨む目を鋭く光らせる。
たった今まで彼女を思い出してむしゃくしゃしたところに、まさか本人が現れるとは思いもよらなかった。
聖帝を相手にぎりぎりまで気配すら気取らせなかったのは賞賛に値するといえる。

「何の用だ」
「貴方に会いに」
「…貴様…!ふざけるのも大概にしろ。曲者だと叫ばれたいか?」
「貴方ならそんなことする前に私を殺しますよ。なのにそうしないんだから、少なくとも人を呼ぶ気はないんでしょう?」

それは図星だった。
呼ぶまでもない事だと思っているからだ。
帝王の間に入ったものは、この手で始末する。
今までもそうしてきたのだから。

「話すことなどない」
「そんなこと言わないでくださいよぅ、一時は押し倒したくせに」
「…何が言いたい」
「まず第一にあの時はお世話になりました、と」
「…」

随分とはっきりと物を言うようになったに、サウザーは内心僅かに驚愕していた。
この娘、以前はもっとびくびく怯えて縮こまってはいなかっただろうか。
あの時組み敷いた彼女の肢体は、恐怖で震えていた。
そして今、闇の中でランプの光を映す瞳もまた同じようにサウザーを恐怖の対象として映していたはずなのに。

目の前に立つ彼女は本当に、あの時蛇に睨まれた蛙のように震えていた人物なのだろうか。
こんなにしっかりと地に足をつけていただろうか。
こんなにも真っ直ぐに、この聖帝と睨み合える様な肝の据わったものだっただろうか。

何が彼女をここまで変えた?

きつく眉根を寄せてを睨みつけ、小さな動揺を悟られないようにサウザーが黙っていると、闇の中に立つが口を開いた。

「あとは――」

紡ぎだされた言葉の列は、予想外のものだった。



―――聞きたいことがあって。

返答と共に、ランプが消えた。