息子が逝った。 「シバ…」 怖かっただろう。 若い娘だった。 まだ未来がある若者の命が簡単に奪われてしまう。 「…私も直ぐに逝く。どうか、空で母さんと共に見守っていてくれ…」 曇りがかった空で、シュウは我が子の魂に誓った。 バットとリンは、ケンシロウを介抱していた。 何故ここにラオウが? 考えてもわからないし、本当にそれがラオウだという証拠は無かったので口には出さなかった。 「ねえバット…」 「案外どこかに隠れてたりしてな」 捕まっているなら助けにいけるかもしれない。 「…さん……」 リンが頷いて、手にしたタオルの水を絞った。 「あ!バット、ケンが!」 気づいた二人がじっとケンシロウを見つめると、やがてケンシロウの瞼が開いて二人を見上げた。 「あ!」 ケンシロウはしばらく2人の顔を見つめ、そしてはっとしたように飛び起きた。 「ケン、ダメよまだ起きちゃ!!」 リンが首を振り、バットが説明すると、ケンシロウは蹄の跡があったという言葉を聞いてリンやバットと同じ推測に至ったらしく眉を寄せていた。 「かわいそうに…」 聞かれないように抑えた彼らの声は、暗殺拳を極めたケンシロウの耳にははっきりと聞こえてしまった。 「シュウは!?」 昼の陽の下で、シュウはバルコニーに一人立ち、遠い空を見上げていた。 「すまぬ…おれには言葉が見つからぬ」 深い悲しみを湛えた瞳でケンシロウが詫びると、シュウはただ小さく笑んで言った。 “ほめてやってください。” 自分もいま息子をほめてやっていたところだ、なにも気にする必要はない。 そう口にした男の背は、やはりやりきれない想いと正義を貫いた息子への愛情が綯い交ぜで、ケンシロウはただ黙って拳を握った。 本当に厄介な相手に敵対宣言をしてしまったものである。 今のところ、どちらの勢力にも動きはない。 「拳王様って、時々ムチャ振りするんですよね…」 元雇用主(?)ラオウに身を隠せと言われたものの、当の本人はさっさとケンシロウを連れてどこかにトンズラしてしまったため、は隠れる場所を探すのに随分と苦労したのだ。 ケンシロウが捕まったという流れから、必ず誰かが助けに行くという可能性は出てきていたのだ。 「とか言ったら絶対、覇王に慈悲はないわ!とか言いだしそう…」 すっごく。 ディ・ロンが死んでから、自分は全く碌な目にあっていない。 「…なんかイライラしてきた。」 身を隠すように座り込んだ洞窟の前の岩陰で、は無性に腹が立ってきて呟いた。 大体、何故嘘などついてくれたのかあの男。 そう、例え口止めされていたとしても。 あの時、明らかにを知っているような素振りを見せたリュウガと彼の部下に、彼女よりも先に話をしたのはディ・ロンだった。 いっそ思いっきり追求してくれても良かったのに。 (ディロンさん、) (あの人は、私を知っていたんでしょう?) サウザーの話から推測し、自分もあの日からずっと気になっている男。
不意に頭の中を過ぎったヴィジョンに、は一瞬思考を止めた。 女の子の声と、男の人の声だった。
最後の手段として持っていったらしいダイナマイトを使用し、ケンシロウを救うために身を犠牲にしたのだ。
せめて何か一つでも残っていないかと願い捜索したが、骨まで塵になってしまったのか、我が子の身体は愚か、服や装飾品までどこを捜しても見つからなかった。
勿論、この目で確認したわけではない。
けれど、シバの姿がどこにも見えず、手当てをされたケンシロウが見つかった周辺で大きな爆発の後があったことから、追っ手を撒くためにケンシロウを置いて囮になったのだろう。
あの子が命を賭けてケンシロウを託してくれたのだと解った。
僅かに斜めに歪んだバルコニーで空を見上げる。
戦い方をもっと教えておけばよかった。
一緒に居たあの娘、の姿もどこにも見えない。
シバと共に戻ってこないということは、捕まってしまったか、運が悪ければシバと同じく命を落としてしまったのだろう。
偶々立ち寄った村の者に好意で手を貸してくれた。
本人はサウザーに用があると言っていたが、もしかしたらそれは復讐の類だったのかもしれない。
戻ってこないということは、その目的も果たせたかどうか定かではない。
むしろ、果たせていないと考えるのが自然だ。
さぞ無念だろう。
光が踏み潰されてゆく。
此の世は最早狂っている。
そしてかつて肩を並べ腕を競い合ったサウザーもまた、その狂気に呑まれている。
ならば、せめてその狂気をこの手で拭うのが、南斗六聖拳の一人である己の務め。
サウザーを止める為であれば、この命が散っても悔いは無い。
南斗の乱れは己の手で葬る。
必ず、ケンシロウが光になってくれると信じて。
といっても、傍について汗を拭き取ってやるくらいしか仕事は無い。
何者かが彼の傷の手当てを済ませてくれていたからだ。
倒れていたケンシロウの傍にあった大きな蹄の跡。
見覚えのあるそれを見つけたとき、バットとリンは顔を見合わせた。
どうして手当てをしてくれたんだろう?
けれどやはりあんな大きな蹄を残す馬に乗っているのはラオウくらいしか思い当たらない。
そして、そうだとしたら益々ケンシロウを手当てしてくれた理由がわからない。
それに。
「なんだよ」
「さん…どこに行っちゃったのかしら…」
「…さーな」
戻ってこないの事も心配だ。
帰ってこないのだから死んだと考えるのが自然なのかもしれない。
実際、シバを探しに出た大人たちも彼女の生存は諦めているようだ。
けれど二人には信じられなかった。
はサウザーに用があると言っていた。何の用なのかは知らないけれど、危険なことは確かだ。
だからこそ。
あの抜けてるように見えて案外確りしている(こともある)が、そう簡単にやられるとは思えない。
あれでもラオウ相手に負傷した身で攻撃を仕掛けた人物だ。
普段は頼りない風にしているが、芯は確りしているということくらい二人は知っている。
「でも、だったらどうして戻ってこないの?」
「そりゃあ…捕まってる、とか…」
「……それだけならいいんだけど…」
でも、死んでいるなら。
「やめろよリン。そんな辛気くせー顔するなって」
「でも…!」
「どの道、おれ達じゃどうにもできねえ。待ってるしかないんだ」
「うん…」
「今はおれ達のできることをするしかない。そうだろ」
「そうね……」
状況がはっきりとしないまま、2人でケンシロウの看病を続けていると、ケンシロウの指がぴくりと動いた。
「ああ!」
「気がついた!」
「…!!これはお前たちが…?」
「い…いえ…」
その時、部屋の誰かの声がケンシロウの耳に滑り込んだ。
「シバの身体は骨のカケラも見つからなかったらしい」
「ムリもない、ダイナマイトで吹き飛んだのだから」
「それにもう一人の女の子も…」
「きっと恐ろしい目に合わされてしまったに違いない。確か名はといったか…」
シバ。
それに、までが逝ってしまったというのか。
自分を助けるために散った少年と、華奢な娘の笑顔を思い出し、ケンシロウはリンに逸る気持ちを顕に尋ねた。
リンとバットに支えられ、ケンシロウは寂しげな背中に歩み寄った。
自分を助けた所為で散ってしまったシバ。
ただ呼びかけることしかできなかったケンシロウに、シュウは変わらず穏やかな微笑を返してくれた。
命の恩人の子を犠牲、そしてまでも巻き込んでしまった己の不甲斐無さが悔しくてたまらない。
それを見守るリンやバットもまた、何も言えずに太陽の下で佇む2人を見ていた。
彼らはまだ、知らない。
*
シバと火の番を交代してから夜が明けるまでずっと起きていたは、夜が明けると同時に洞窟を出て外の様子を伺っていた。
彼女らが身を潜めている洞窟は、丁度シュウのアジトがある場所とサウザーの城の両方を見渡せる岩山の高台にあった。
都合のいい場所で、一見するとただの岩陰にしか見えないため、今のところ誰かに入ってこられるようなことはない。
昨日感じた殺気はラオウの置き土産だったのだろう。
彼は圧倒的な存在感と威圧感で、対峙した人間を萎縮させる。
その上面と向かってああもキッパリと死刑宣告まがいの事を言われたら、よほどの拳法家でなければ、というかおそらく時やケンシロウくらいの人間でなければ、恐怖に震えるのも自然なことだった。
あの時の自分よ、消えてしまえ。
いややっぱりダメ、とりあえず謝っとけ。
ああ、これもダメか。
あの人のあの性格じゃ。
どっちにしても終わってしまったことだけど。
先のことを考えて半ば鬱になりながら、は人に見つからないように周囲を探索した。
ケンシロウは昨晩のうちにでもラオウが無事アジト付近まで送り届けてくれたはずだ。
早ければ今朝には見つかって救出されただろう。
そして、今頃はシバの死をシュウが悼んでいる“はず”だ。
ついでに自分も生死不明のあまり良くない状況になっていることに“なっている”はずである。
これで本当にラオウの言うとおり、ケンシロウが強くなれるのなら安いものだ。
しかし、それにしても。
敵に見つかることはなかったが、シバを運び込んだり薪を集めたりするのは骨が折れた。
せめてこう、下準備とかそういうことをしておいてくれれば助かったのに。
その誰かが誰であれ、ケンシロウはあの性格だ、自分を助けに来た人間が代わりに犠牲になったと聞けば怒りを感じるはず。
その怒りで強くさせるという筋書きなら、もう少し準備をしておいて欲しいものである。
絶対に思い付きだ。
拳王府にいたときの記憶にも、そういう「イキオイで思いつきました」みたいなことをラオウが実行に移したこともなくはなかった。
それが上手いこと動くからスゴイのだが、イキオイに巻き込まれる側の苦労と気持ちも考えて欲しいものである。
あれについていくのは大変なのだ。
精神衛生的な意味で。
いや、確実に言われるだろうなぁ、と、何故か自分の命を脅かす男に複雑な思いを馳せ、更に鬱になって、は深い深い溜息をついた。
ジュウザの城から出たことに後悔はない。
しかし、それにしたってこれはちょっと…なんと言うか、ぶっちゃけ「不幸」といっても差し支えないのではなかろうか。
不幸といえば此の世の全ての人間が不幸ではあるのだが、こんな無秩序の世界で勢力争いをしている人間とタイマンで話したり脅されたり。何故かキスされたりする人間はあまりいないと思う。
おまけに記憶が吹っ飛んでいるときたら、客観的にみれば自分は結構カワイソウな部類に入るのではなかろうか。
しかもどうも記憶の鍵を握っている人間に嘘まで吐かれて。
特に、あの銀髪美形に対してである。
昨晩は気が滅入っていたからか傷ついたけれど、よくよく考えれば妙な話である。
本人が記憶喪失ですと言っているのだから、すっぱりと「君はこうこうこういう者で、自分はこういう貴方をよく知っておりましたよ」と言ってくれればよかったのだ。
明らかに彼の連れの者は、を見てまるで知り合いだったかのような顔をしたのに。
ペンダントだって、尋ねたら隠すように慌ててしまいこんでしまった。
真相を話せない理由があるならはっきり言って欲しかった。
ディ・ロンはが記憶喪失であることを知っていた。
もしかしたら、リュウガは彼に、の記憶についてはあまり深く突っ込んでやるな、とでも言われたのかもしれない。
彼はおかしなところで気を遣う男だったから。
けれど既にこの世にいない男の行動など最早確かめようが無い。
あのペンダントはどう見ても自分が持っているものと同じものの片割れだった。
普通、ペアのものは同じ店で、同じ時にペアで買うものではないのか。
別々に手に入れたとしても、片方が無いペアのペンダントなんてわざわざ欲しいと思うだろうか。
どうせ手に入れるなら両方一緒にするはずだ。
それに、こんな綺麗な細工ならもっとこう、誰かの贈り物に使うものではないのか。
例えばそう、恋人に贈るとか−−−
『こ…は、女物…ろう…』
『…見えないように…ててくださ…』
(…え?)
今のは、なんだろう。
顔の見えない男が、が持っているものの半分と思われるペンダントの片割れを手に、困ったような声で。
あの女の子の声、どこかで聞いたことがある。
そして、あの男の声も、どこかで。
否、違う。
「…今の、」
あの声は、もしかしたら、ううん、絶対に!
でも、どうして。
「…なんで…?」
日が真上に昇り、真上から岩陰を照らす。
いつのまにか、聖帝軍が蠢き始めていた。