やばいやばいやばい、本当に死ぬかもしれない。
頭の中で警鐘が鳴り続ける。
暗い廊下を走りながら、桐はきゅっと唇を噛んだ。
腕が酷く痛む。刃で傷つけられた箇所から、血が滲んでいた。
慣れない応急処置では血が上手く止まらない。
暗い廊下を、人の足音のしないほうに向かって駆け抜ける。
後ろから矢が飛んできた。
追ってはまだ撒けていない。
捕まったら終わりだ。
それでも、目的のものを手に入れることはできたし、予定外ではあったけれど頭領を倒すこともできた。
その死体は先ほどまで桐が連れ込まれたマニアックなお部屋に頚動脈を切られて転がっている。
彼女にとって今一番大切なのは逃げ切ることだけだ。
「も、やだっ…!」
腕痛い、気持ち悪い、怖い、苦しい。
足が重い。
それでも、この城から出ることさえできれば、後はソウガが突入することになっている。
手に持ったままの目的のものを離さないように握りしめ、桐は無理やり足を動かした。
走って走って絶対に逃げ切れ、と自分に言い聞かせながら、桐は自分がこうなった原因を思い返して、思いっきり叫んだ。
「リュウガさんのバカぁぁ―――!!」
*
拳王軍に連れて来られてから4ヶ月。
いつものように雑務をこなしていた桐は、休憩中にジャムパンを頬張っているところをリュウガに無理矢理引っ張られて、何故かラオウとソウガ、そしてレイナの前に連れてこられた。
一体何事かとパンくずをつけたまま目を白黒させている彼女に、理解する間も無くラオウが言った。
お前に任務を与える、と。
「わ、私にですか!?」
「他に誰がいる。拳王様直々のご命令だ、光栄に思え」
「あっあのっ、でも一体何をすれば…」
桐が恐る恐る訊ねると、ソウガが前に出て説明した。
「東の外れに、国が重金属や武器を保管した大規模な倉庫があることがわかった。今は使えない電力が警備に使われている、いわば失われた文明を使用した倉庫なのだ。しかしその扉が厳重に作られていてな、拳王様のお力でも破ることはできなかった」
「それはまた硬い扉ですね…」
「阿呆丸出しのことを言うな」
「…ハイ」
ずばっとリュウガに酷い事を言われて、桐は微妙に落ち込んだ。
何でこの人いつも苛めっ子体勢なんだろう。
少々暗くなった桐に、ソウガが説明を続けた。
「…まあいい。それで、その扉を開くにはパスワードが必要だということが判明した。しかし、これが毎日ランダムに変わるように設定されているらしく、その検索方法を書いた文書が必要らしいのだ」
「はあ…じゃあその文書を探せってことですか?」
「いいえ、文書の所有者はもうわかっているの」
「そうなんですか。じゃあ奇襲をかけて奪いに行くんですか?」
「それができれば、お前を呼び出しはせん」
ラオウが不機嫌そうに話した。
「やつは警戒心が強い。兵を率いて向かえば、すぐにでもその文書を焼却するだろう」
「…はあ。じゃあ誰かがこっそり盗ってこなきゃいけないんですね」
「ああ。そこでだ」
桐が頷くと、リュウガが口角を上げて意地の悪そうな笑みを浮かべた。
それを見て、桐はびくっと後退り、嫌そうな顔をした。
銀髪上司がこういう表情をする時は決まって厄介事を押し付ける時なのだ。
彼女の第六感全てが危機を察知して足を後ろに出そうとするのを、リュウガが腕をつかんで止めた。
「どこへ行く」
「あ、あのちょっとお手洗いに、」
「なんだ?」
「…あ、あはは…」
行っています、と言おうとしたのを、リュウガが素敵な笑顔で止めた。
銀髪上司がこういう良い顔をする時は、決まってそのあとに自分が地獄を見るのが確実だ。
やばい、絶対なんかさせられる。
それも自分が得しないことを。
桐が引きつり気味の笑顔を返すと、リュウガは逃がさんぞと言わんばかりに桐の腕を掴んだまま話した。
「所有者の名はゾルガといってな」
「たっ逞しそうなお名前ですね、」
「女好きの下衆なのだが」
「男性ホルモンの分泌が盛んなんでしょうかね、」
「少々変わった嗜好の持ち主でな」
「まにあっくですか、需要の多いような少ないような、」
「お前のような貧相で凹凸のない小娘が好きらしい」
「…………」
それはまさか。
「あ、あの」
「言いたいことがわかるな?」
「…つっ、つまり、私がそのオジサマのところから色仕掛けで文書を取ってこいということでしょうか」
「そういうことだ」
ラオウが納得いかなそうな顔で頷いて、桐の顔が引き攣った。
「まさか嫌とはいうまい?」
「あ、あの」
「 行 っ て こ い 。」
有無を言わさぬ上司命令に、桐は口をパクパクさせて抗議しようとして、無意味なことに気づいてがっくりとうなだれたのであった。
「…了解しましタ…」
かくして、ここにチキンハートを16ビートで躍らせている九条桐の初任務が決定されたわけである。
*
が。
「……………あの、リュウガさん」
「なんだ」
「質問があるんですけど」
「却下する。無駄口を叩くな」
「……」
さらっと質問を拒否されて、桐は遠い目で空を見上げた。
愛らしくコテで巻かれた髪を飾りつけるカチューシャの、口に出すと落ち込みそうな家庭用小動物の耳。
レースをあしらった黒がベースカラーの、ふんわりした膝上までの衣装は、秋●原でよく見かける喫茶店のお嬢さん方が着ているものに酷似している。
おまけの腰の部分から垂れ下がる、カチューシャと同じ色の黒くて細い尻尾。
極めつけは首につけられた大きな鈴である。
鏡に映った自分の姿を目の当たりにした桐は、当然のごとく心の中で悲鳴をあげた。
(なんでメイド服なんだァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!しかも猫耳!!)
貧乳好きの変態という時点で、ある程度のマニアックさは予想できた。
しかし、この荒れた世界で再びこの衣装を、あの濃く、一部の人間にはパラダイスなあの場所でよく見かけるこの衣装を、まさか自分がこんなとんでもないところで着る日が来るとは思いもよらなかった。
予想外にもほどがある。
そして何より、ツッコミを限界まで堪えている桐に対して、周囲の人間が案外普通に流していることが信じられない。
レイナ、ソウガはもちろんのこと、リュウガや、果てはラオウまでもがスルーである。
おかしい。
絶対におかしい。
いや、相手の好みに合わせたセレクトというならそれはおかしくないのだが、これに対する反応がおかしすぎる。
(ツッコんで!!誰かこの衣装のチョイスになんでやねんと言ってぇぇ!せめてこの猫耳だけでもいいから!!)
「何をぼんやりしている」
「……」
「おい、聞いているのか?」
「ああ、ハイ…」
出発前に城前でかなりどんよりと重苦しく暗い空気を背負っている桐に、レイナがフォローに回った。
「ま、まあそう落ち込まないで、キリ」
「レイナ様…」
「それに可愛いじゃない、その格好。似合っていると思うわよ」
「…はァ………」
嬉しいようで嬉しくない。
いや、むしろ似合いたくなかった。嬉しくないのだ。
もはやどう反応すべきかわからず、桐はレイナに、黙ってへらっと気の抜けた笑みを返し、思い切って尋ねた。
「あの、レイナ様」
「なに?」
「あの、この服…と、耳は何でこういうチョイスに…」
「あ、それは女官たちの単なる趣味でしょ」
「!?」
(趣味かよ!!!みなさんマニアックなご趣味をお持ち!)
桐が勘弁してくれ、と頭を抱えていると、ソウガが近づいてきて桐に言った。
「では、作戦を教える。一度しか言わんからよく頭に叩き込んでくれ」
「はい…」
今回の真面目なんだか遊びなんだかわからない雰囲気の作戦は、成功すればかなりの大手柄である。
何しろ、旧政府の残した武器や資源を一気に手にすることが出来るのだ。
しかし失敗すれば、おそらく桐の命はほとんど無いものと見ていい。
そんな危険な任務に桐が首を縦に振ったのは、リュウガの怖いオーラのおかげである。
桐にとっては正に前門の初任務、後門の意地悪上司。
嫌と言えるわけがない。
そんなことを言ったら、結局拳王府を追い出されて行き倒れて死ぬに決まっている。
どっちにしても死ぬなら、失敗しないようにするしかないのだ。
(へ、へヴィだ…)
ヘヴィもヘヴィ、重すぎる。重量級なんてもんじゃない。
モアイ像くらいの重さがありそうだ。気を抜くとぷちっといってしまうかもしれない。
なんでこんな任務が回ってくるのだろう、と考えて、それもまた自分の貧乳の所為だということに気づき、桐は深い溜息を吐いた。
「…つまり、君は最終的に生きて文書を奪い取り、敵地から脱出すればいいだけだ。無駄な戦闘は避け、目的のものを手に入れたら出来る限り早く脱出を試みるように」
「はい」
「質問はあるか?」
「…いえ、特に…」
なんだか半分魂が抜けかかっている桐を、ソウガは心配そうな顔で眺めるとリュウガに目を遣った。
するとリュウガは桐に歩み寄り、正面から尋ねた。
「逃げたいのか」
「…そ…」
そりゃそうですよ、と言いかけて、桐は言葉を飲み込んだ。
そんなことを言ったら自分を連れてきたリュウガの顔を潰すことになる。
それに、言ったところでどうせ聞いてもらえるわけが無い。
選択肢なんて無いじゃないか、と複雑な気持ちで、桐はせめてとリュウガの目をしっかり見据えて答えた。
「…っ大丈夫です。やり…ます。ちゃんと」
「……ふん」
桐の答えを聞くとリュウガは何故か面白くなさそうな顔をして言った。
「せいぜい死なぬようにするのだな」
「う…」
「無事に任務を成功させたら少しくらいは褒めてやってもいい」
「は、はあ」
励まされているのか馬鹿にされているのかわからないが、頷いておかないと後が怖いので桐はこくりと首を縦に振った。
それを見て、リュウガはまた苛立ったように眉を顰めると踵を返し、城に戻っていった。
リュウガのその態度に桐はむっとしながらも、今更何を言っても無駄だと思い直して小さく息を吐いた。
リュウガは性根が悪い人間ではないことを桐は理解しているつもりでいる。
けれど、どうせ、彼にとっては自分もただの雑用なのだ。
死んだらそれまで、生きて変えれば大手柄。
冷たくされても仕方ない、元々それを承知でついてきたのは自分だ。
いつまでも彼の力に縋ってはいられない。
自分の足で立てるようにならなければならない。
でも、こうやっていつもいつも冷たい言葉ばかり浴びせられるとさすがに凹みたくもなる。
邪険にされてるとは思いたくなくて、桐は逃げ出しそうになる足をぐっと踏ん張ると気合を入れなおした。
なんとしてもこの任務を成功させ、冷たい上司の口から優しい言葉を掛けさせてやるのだ。
自分を少しでも見直させてやるのだと、桐はチキンハートを奮い立たせた。
「じゃあキリ、行きましょう」
「はい」
さすがにこの服で馬に乗るのは危ないのでレイナの馬に乗せてもらって、桐は拳王府を出た。
(生きて帰れますように!!)
ぎゅっとこぶしを握る彼女の脳内では、その意思とは裏腹に見事にド●ドナが流れまくっていた。